幕末の三剣士・千葉周作
安政二年(1855年)12月10日、斉藤弥九郎、桃井春蔵とともに、幕末の三剣士と呼ばれた北辰一刀流の改組・千葉周作が63歳で、この世を去りました。
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千葉周作は、奥州栗原郡の生まれで、祖父も父も北辰無双流の達人で、父は仙台藩の剣術指南役でもありました。
16歳の時、下総の小野派一刀流・浅利又七郎に入門し、23歳で免許皆伝に・・・。
その後、父の後を追って江戸に出てきます。
そして今度は、中西忠兵衛の道場に入門し、またまた修行の日々をおくります。
周作は、中西道場での修業中、“音無しの構え”で有名な高柳又四郎と練習試合をした事がありました。
師匠・練習生の見守る中、試合が始まりますが、二人ともにらみ合ったまま、いっこうに動きません。
シーンと静まった空気を破るようにボキッ!と音がします。
見ると、周作の立っていた床板がザクリと折れていたのです。
師匠は「相打ち」を宣言し、二人の健闘を絶賛したというエピソードが残っています。
やがて29歳になった周作は、浅利も中西もすばらしい剣客ではあるものの、その古流で旧式の剣法は自分には合わないと判断し、新しい一派・北辰一刀流を立てて、日本橋・品川町に、玄武館という道場を開きました。
そして、、その道場が神田お玉ヶ池に移された頃には、門弟が五千人余りにも達し、江戸における剣術道場の中心となるのです。
有名なところでは、坂本龍馬や清河八郎、山岡鉄太郎なんかが、千葉道場の出身です。
北辰一刀流が、これだけの人気を得たのは、もちろん周作自身の剣の実力もありますが、やはり他の流派の難解な教義に比べ「気は早く、心は静か、身は軽く、目は明るく、業は激しく」という明快な教え。
そして、何より周作の人柄の良さが多くの人を引きつけたようです。
ある日、周作が町を歩いていると、一人の若者が、いきなり刀を抜いて斬りかかってきました。
しかし、こちらは天下の千葉周作・・・しかも相手の若者はメチャメチャ弱い。
何度、斬りかかっても体よくあしらわれて勝負にもならない状況で、最後には、一人でハァハァ言いながら、その場にへたり込む始末。
結局、若者は、その場で無礼を詫びて身の上話をし始めます。
聞くとその若者は、何だか知らないけど争いに巻き込まれて、明日果し合いをする事になってしまった・・・と言うのです。
しかも、相手はかなり腕のたつ浪人者で、かたや自分はさっぱり剣術に自身がない軟弱者。
「もう、この町の景色を見るのも今日が最後か・・・」などと考えながら、フラフラ町を歩いていたら、有名な周作に出会い、何か明日の決闘のヒントはないか?と思って斬りかかった・・・と正直に話したのです。
すると周作は、その若者を怒鳴りつける事もなく、「刀を大上段に振りかざし、静に目を閉じて、相手が体のどこかに触れた・・・と、思った瞬間に力いっぱい振り下ろせ」と、やさしく教えてやったのです。
翌日、果し合いの場で、若者は周作に教えられた通りに構えます。
すると、相手はその大胆不敵な若者の様子を見て、相当な剣の使い手と勘違い・・・逆に「命だけはお助けを・・・」と、刀を投げ出して逃げてしまいましたとさ。
“夫剣者瞬息(それけんはしゅんそく)、心・気・力一致”
『気・剣・体の一致』は、千葉周作の教えの基本です。
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