天智天皇の死,政変の予感
671年12月3日、あの大化の改新の中心人物である第38代・天智天皇が亡くなりました。
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天智天皇は、藤原鎌足とともに、“乙巳(いっし)の変”(6月12日参照>>)と呼ばれる蘇我入鹿・暗殺を決行した後に、一連の大化の改新を行った人で、その後即位した孝徳天皇、斉明天皇の時代も、常に政治の実権を握りながら皇太子の座にとどまり、斉明天皇の没後、ようやく天皇になりました。
そんな天智にとって、二年前の鎌足の死はそうとうなショックのようでした。
大化の改新以来、常に右腕として活躍してくれた重臣ですから無理もありません。
改新直後には、手を組んで一緒に仲良く政治を行っていた弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)とは、天智が即位し都を近江に遷した頃(3月19日参照>>)から、何やらギクシャクした関係になっていたのです。
兄・天智という大きな存在の影で、自分の政治手腕を思う存分発揮できない才能溢れる弟・大海人皇子は、以前、琵琶湖畔で行われた宴会の席で、日頃の不満が爆発し、槍を床に突き立てて暴れた事がありました。
怒った天智が大海人に手をかけようとした時、それを止めに入ったのは、他ならぬ鎌足・・・。
そんな風に、兄弟の潤滑油的な役割も、鎌足は荷っていましたから、その死以来、宮廷内に不穏な空気が流れていたのも確かなのでした。
天智は自分の三人の娘を大海人の妃へ送っていますし、逆に大海人と額田王(ぬかたのおおきみ)の間に生まれた十市皇女(とうちのひめみこ)を、息子・大友皇子の妃に迎えてもいました。
その上、自分の後継者として大海人を皇太子にも任命していました。
しかし、一度できがった兄弟の溝は、徐々に深まっていくばかりでした。
671年になって、近江令を完成させ、近江朝=天智帝の基盤を造り上げ、国内の秩序が保たれているとは言え、鎌足を失った天智の権勢は少し下り坂になりつつあったのです。
その年の秋頃から、天智天皇は病気がちになってしまいます。
日増しに衰弱していく天皇は、いよいよ床にふせるようになり、自らの命がそう長くない事を感じるのです。
そして天智天皇は、病室に大海人皇子を呼んで、皇太子である弟に「後の事は頼む」と告げるのです。
しかし、大海人の答えは「NO!」でした。
兄弟の溝が深まるにつれ、たくましく成長する兄・天智の息子・大友皇子・・・いつしか、「自分の後継者には大友を・・・」と、思うようになっていた天智天皇の心の内を大海人皇子はしっかり見抜いていたのです。
いや、むしろ朝廷内でも、大友派と大海人派に二分され、二人の後継者の対立は表面化していました。
大海人皇子は、次期・天皇の座を断り、皇太子に大友皇子を推薦し「仏道修行する」と言って、その場で髪をそり、都を離れ吉野山に入ったのです。
それは以前、あの大化の改新の後に吉野に入った天智の兄・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を思い起こさせる光景でした。
その時は、それまで入鹿に後押しされていた古人大兄皇子が、蘇我氏・滅亡となり危険を感じて吉野に入ったものですが、その後すぐに天智天皇(当時は中大兄皇子)に謀反の罪を着せられ処刑されてしまいました。
しかし、今回の天智天皇には、もうそんな気力は感じられません。
人々は「寅に翼をつけて放すようなものだ」と噂します。
24歳の若き大友皇子に、酸いも甘いも噛み分けた41歳の大海人皇子・・・多くの人には、この先の結果がすでに見えていたのかも知れません。
案の定、半年後の6月に、皇位継承を争う古代最大の内乱“壬申の乱”(6月24日参照>>)が勃発する事になるのですが・・・まだ、その事を知らない天智天皇は、自分を看取る我が子・大友の将来を案じながら671年、12月3日に、46歳の波乱の人生を閉じました。
♪かからむと かねて知りせば 大御船(おおみふね)
泊(は)てし泊(とま)りに 標結(しめゆ)はましを♪ 額田王
(こうなる事を知っていたなら、天皇の船が泊まる港にしめ縄をはり、死霊が入らないようにするのに・・・)
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