大坂冬の陣~真田丸の攻防
慶長十九年(1614年)12月4日は、最初の衝突の時から、おおむね豊臣方が不利の色濃い大坂冬の陣の中で、唯一豊臣方が徳川方に圧勝した真田丸の攻防のあった日です。
(真田丸については、10月10日真田幸村必勝作戦参照>>)
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大坂冬の陣での11月19日に起こった最初の衝突で、豊臣方は穢多崎(えたがさき)砦を奪われ、その後も26日には今福・鴫野の合戦。(11月26日参照>>)
29日には博労淵(ばくろうふち)・野田・福島でも砦を奪われてしまいました。(11月29日野田・福島の合戦参照>>)
徳川家康は、これらの大坂城周辺の局地戦での勝利を見て、そろそろ包囲網をせばめていこうと考えます。
そして12月に入って間もなく、今までいた住吉の本陣から茶臼山(ちゃうすやま・現在の天王寺公園内)(4月14日参照>>)に自分の本陣を移します。
真田丸想像図(あくまで私の想像です)
そして慶長十九年(1614年)12月4日の早朝・・・その戦いは起こります。
彦根の井伊直政の家臣である宇津木泰繁(うつきやすしげ)が、後に家老に提出した戦功報告書によると・・・
ここ何日か両軍がにらみ合う真田丸の堀のそばで、泰繁は前日から夜番をしていましたが、4日の朝になったので、交代のために陣屋に戻り、配下の足軽を帰したところ、いきなり戦闘が始まったので、急いで足軽5人を引き連れて戦場に赴いた・・・と書いています。
この日、起こった攻撃が奇襲だった事を教えてくれる貴重な話ですね。
この奇襲作戦を決行したのは、前田利常の軍と松平忠直の軍でした。
前田軍と松平軍は、まだ暗いうちに真田丸の堀のそばまでひそかに近づき、いきなり勝鬨(かちどき)をあげて攻めかかります。
しかし、そこに立ちはだかるのは、大坂方の真田幸村(信繁)が構築した真田丸・・・「難攻不落の大坂城を攻めるとしたら、おそらく南からに違いない」と、城郭の南東方向に構築した出丸で(10月10日参照>>)、その横に多くの弓を用意し、敵が堀にとりかかったところで、一斉に横弓を射かけたのです。
ちょうどその時、真田丸の後方で、ひとりの兵が誤って火薬の入った桶に火縄を落としてしまい、大爆発が起こったのです。
その大爆発を、大坂城に送り込んだスパイの合図だと勘違いした前田+松平軍の兵士は、「すわっ!総攻撃だ!」と一斉に真田丸めがけて突進してきます。
まっすぐ前に突進してくる兵士は、横から矢を射る者の格好の標的になってしまいます。
次から次へと真田丸の堀に押し寄せる兵士たち。
矢に射かけられ、その場で倒れた兵士の上を続く兵士が進み、また矢を射かけられる。
やがてその兵士が、上に上にと重なり、堀はまるで平地のようになったと言います。
次に来る兵士は、その死体の上を行くのですから、当然足場は悪く、徳川方からは鉄砲も矢も撃てない状況だったようです。
名のある馬上の武者たちも、あまりの出来事にどうして良いかわからず途方にくれる・・・といった光景も見られ、この様子を目の当たりにした家康は、怒りに震え、攻撃中止の命令を下します。
この戦いで討ち死にした兵は前田利常の兵・300騎、松平忠直の兵480騎、その他の雑兵にいたっては、数も知れない状況です。
先ほどの戦功報告書を書いた宇津木泰繁が仕えていた井伊家でも、35人が討死、91人がケガを負うという、これも大損害をこうむっています。
当時、この戦いは“真田が出城の合戦”と呼ばれ、近畿圏内の小さなお子様たちまでが口にするほどの大ニュースとして広まり、冬の陣の徳川方の死者総数の五分の四がこの日の戦いで亡くなったと噂されました。
(2015年12月4日の【真田丸の攻防~真田幸村と松平直政】もどうぞ>>)
家康と秀忠にとっては、関ヶ原の合戦の時の上田城の悪夢(9月7日参照>>)がよぎったに違いありません。
あの時、何倍もの数の兵で、真田昌幸・幸村親子が護る信州・上田城を攻めた徳川秀忠は、手痛い敗戦をこうむり、肝心の関ヶ原の合戦に参加できない・・・という失態を起こしていました(9月7日参照>>)。
うまく行けば、この機会に大坂城を攻め落とすつもりでいた家康は、この真田丸の攻防で少なからず考えを変えたのではないか?とも思います。
この先、大坂冬の陣は“和議”を結ぶ方向へと向かっていくのですが・・・そのお話は、和睦が成立する12月19日にへどうぞ→
←真田丸の跡とされる三光神社にある幸村像と真田の抜け穴…ですが、実は、、、2012年12月17日の【真田丸はどこにあった?】もどうぞ>>
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「大坂の陣」関連のイロイロについては、『大坂の陣の年表』>>からまとめてどうぞ!
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コメント
茶々さん、初めまして。
先日は当方のブログに来訪頂き有り難うございます。僕の方もトラックバックさせて頂きました。
こちらのブログは、毎日のネタ作りが大変ですね。でも、たくさんの歴史の真実を学べて面白いそう!
そこで、当方のブログにおいて、こちら様のサイトをリンク紹介したいのですがいかがでしょうか?
投稿: 御堂 | 2006年12月27日 (水) 16時01分
御堂さん、ご訪問そして、コメントありがとうございます。
そちらのブログでリンクして戴けるんですか?
ありがとうございます。
御堂さんは、専門的に歴史を学んでおられるようなので、単なる歴史好きで趣味の域を出ない私のブログは、少しお恥ずかしい気もするのですが・・・ブログを立ち上げた以上、より多くの人に見ていただくのは、うれしい事です。
なので、末永くよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2006年12月27日 (水) 16時53分