南方熊楠の最後の言葉
昭和十六年(1941年)12月29日、菌類学者であり、博物学者であり、民俗学者でもある南方熊楠が75歳でこの世を去りました。
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南方熊楠(みなかたくまぐす)は、慶応三年(1867年)に和歌山城下の金物商の家に生まれます。
幼い頃は体が弱く、8歳頃までお母さんのオッパイを飲んでいて、友達が「あそぼ~!」と誘いに来ると、「ちょっと待って~、乳飲んでから・・・」と言って、ちょこんと、母の膝の上に座ったそうです。
12歳で和歌山中学に入学し、ここで人生の師とも言うべき鳥山啓(とりやまひらく)先生と出会います。
なんせ熊楠さんは、小さい頃から驚異的な記憶力で神童と呼ばれ、“歩く百科事典”などと噂された人ですから、博学な鳥山先生との出会いは、様々な事を吸収していったこの頃の彼にとって、多大な影響を与えた事でしょう。
やがて、中学を卒業した熊楠さんは、共立学校を経て大学予備門に入学・・・同期には、夏目漱石や正岡子規といった人々がいましたが、学業そっちのけで遺跡の発掘や菌類の標本集めに没頭し、落第をきっかけに中退しました。
20歳の時にアメリカに渡り、働きながら独学で菌類の研究に励み、26歳で、今度はイギリスへ・・・。
大英博物館で働きながら、やはり標本採集や研究に励みつつ、科学雑誌『Nature』に論文を投稿したりしています。
そして、33歳で帰国後は、故郷の和歌山で菌類の調査・採集・研究に勤しみます。
大正六年(1917年)には、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見・・・この菌には“ミナカテラ・ロンギフェラ”という学名がつけられ、日本名は“ミナカタホコリ”と呼ばれています(←ほこり・・・って(^-^;)
この少し前から熊楠さんは、“神社合祀反対運動”を始めています。
それは、合祀によって規模が小さくなる神社の所有する森林の伐採によって、貴重な動植物が絶滅の危機にさらされる事を心配したもので、早くもこの頃に『エコロジー』を叫んでいたんですね。
そんな熊楠さんは、モロ天才肌・・・そのため、かなりの奇行ぶりだったようです。
あまりに集中力がありすぎて、ず~っとはなれの八畳間に篭もっていたかと思うと、ひょっこり母屋にやって来て「ワシ、今朝からメシ食ったかな?」と家族に確かめる・・・なぁんて事もしばしばあったそうで、夏は主に素っ裸ですごし、冬は「タバコの臭いが標本に着く」と言って、障子を開けっ放しにしていたとか・・・。
和歌山の山中で、ふんどし一丁で標本を採取するために駆け回り、「天狗」呼ばわりされたり、酔っ払って帰った日に、奥さんが日頃の不満をとうとうと語り出すと、頭からふとんを被って「ごめんなさい。もうしません・・・勘弁して~」という、子供のような一面もあったそうです。
とにかく、自然が人の手で破壊される事の危険性を常に訴えていた熊楠さん・・・しかし、彼の生きた時代には、その事に耳を傾ける人はいませんでした。
ごく最近になって、世界的に“エコ”が叫ばれるようになって、やっと彼への再評価がされるようになったみたいです。
紫の花をつける“センダン”の木が大好きだったという熊楠さん・・・最後は、「あぁ・・・天井に紫の花が一面に咲いている・・・医者が来ると花が消えてしまうから、今日は医者を呼ばないでおくれ・・・」
そう言って、息をひきとったそうです。
自然を愛した熊楠さんらしい最後の言葉ですね。
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コメント
伝記と著作を読んだことがありますが、学問の幅の広さには本当に驚かされます。そして生き方が豪快。吉川弘文館の人物叢書がオススメです。
投稿: おおひら | 2006年12月29日 (金) 23時12分
おおひらさん、こんばんは~。
おおひらさんは、たくさん本を読んでおられますね~。
スゴイです。
私は、熊楠さんについては長い間、名前と和歌山の人・・・という事しか知らなくて、恥ずかしながら、少年ジャンプの漫画で始めてくわしく知りました(#^o^#)。
おっしゃるとおり、その豪快な生き方がとても魅力的な人ですね。
オススメの本、また探してみます。
投稿: 茶々 | 2006年12月30日 (土) 00時53分