« 平治の乱・終結 | トップページ | 八百屋お七と丙午 »

2006年12月27日 (水)

源頼朝の死因をめぐる疑惑

 

建久九年(1198年)12月27日、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が落馬・・・これが原因で、翌年の1月13日に死亡したとされています。

・・・・・・・・・

Yoritomocc 今のところ、源頼朝死亡の原因は、この日の“落馬”というのが通説になっていますが、本当のところ、この頼朝の死には、かなりの疑惑が渦巻いています。

その一番の要因は、この時代の公的な歴史書とも言える『吾妻鏡』に、頼朝の死が記載されていない事。

源平の合戦や鎌倉幕府の事をあれだけ書いておいて、将軍の死を書かない・・・というのは、まったくもって不自然ですよね。

「何か書けない事情でもあるのかしら?」と、思いたくもなりますね。

まず、落馬についてですが、やはり不思議なのは、日頃から訓練をしていたであろう武士の棟梁が落馬・・・しかも、命を落とすような落ち方をするものなのでしょうか?

ここで、注目したいのは、近衛家実(いえざね)という公家さんの日記・・・そこには、「頼朝は“飲水の病”で亡くなった」と書かれている事です。

“飲水の病”とは、今で言う糖尿病です。

頼朝はこの落馬の一件の10年程前に、“薬師経”という病気を治すお経を、幕府総動員で読ませていますから、その時からすでに自覚症状が出ていたのだとしたら、もう、この時はかなり病気が進行していて、筋肉の弛緩(しかん)や、目の不自由さがあいまって、落馬・・・という事態も、そして、その後の怪我も、病気のせいでなおり難かった・・・という事も考えられます。

ただ、病気で片付けてしまうには、歴史好きの気持ちがおさまらない数々の政治的事情が、この時代に渦巻いているのも確かなのです。

それは、頼朝の死の5年前に起こったあの有名な“曽我兄弟の仇討ち事件”を見てもわかります。

彼ら兄弟はみごとカタキを捕ったにもかかわらず、次にそのまま頼朝の屋形へ突進していってます。

結局、取り押さえられた弟・時致(ときむね)「頼朝の首を捕るつもりだった」とはっきりと“頼朝・暗殺計画”を自白たとも言われています(5月28日参照>>)

加えて、頼朝の後を継いだ二代将軍・頼家、三代将軍・実朝と、いずれも暗殺され、直系の源氏が絶える・・・という事態になっている事を考えると、いかに“鎌倉幕府の将軍”というものが、危険にさらされた地位であるのかもわかります。

『保暦間記(ほうりゃくかんき)という歴史書に、頼朝の死について書かれた部分がありますが、それによると、この建久九年(1198年)12月27日に・・・

相模川の“橋供養”に出かけた頼朝は、帰り道の“八的(やまと)が原”という所で、源義広源行家源義経という、いずれも頼朝が殺害した3体の亡霊に出会います。

何とかその場は、平静を装ってやり過ごしたものの、今度は稲村が崎で10歳くらいの男の子の亡霊に出会います。

亡霊は「お前をずっと探していたが、やっと見つけたゾ。我は西海に沈んだ安徳天皇である」と言い、その後、帰宅した頼朝は、すぐに病に臥せって、そのまま翌月の正月13日に死亡した・・・
というのです。

これを、そのまま信じると、怨霊の祟り・・・という事になりますが、さすがにそれは・・・

しかもここに新たな疑惑も湧き出てきます。

この日、頼朝が出かけた“橋供養”

この橋は、稲毛重成(いなげしげなり)という人物が、亡き奥さん(北条政子の妹)供養のために建設した橋で、その橋の“橋供養”だったわけですが、その重成は、頼朝の死後、すぐに何者かに殺害されています。

何やら、にわかに北条家の影が現れ出しましたね。

ちょうどこの時期、京の都では、頼朝派だった九条兼実(かねざね)が、反頼朝派の源道親(みちちか)に失脚させられています。

もし、都の道親と鎌倉の北条が手を結べば、源氏の直系に代わって実権を握る事も可能かも知れません。

頼朝・暗殺の実行犯だった重成を、口封じのため消した・・・という推理も成り立つわけです。

ただ・・・もう、一つ『真俗雑録(しんぞくざつろく)という鎌倉時代の書物には、まったく別の事が書かれています。

それによると・・・

頼朝は毎年、正月8日から13日まで、鶴岡八幡宮に“お篭もり”をしていたのだそうです。

この年(1199年)も例年のように“お篭もり”を実行し、留守となった邸宅は安達盛長という人物が警護していたのだそうですが、ある夜、頼朝の邸宅に出入りする白衣を被って顔を隠したアヤシイ者を発見。

「待て!クセ者!」と、斬りつけたところ、その白衣の主は頼朝自身だったと言うのです。

主君に刃を向けた事に驚いた盛長が切腹しようとしたところ、頼朝が「急病で死んだ事にしてくれ」と言って、息をひきとった・・・
のだそうです。

その文献の中では・・・実は「頼朝の浮気癖に悩んだ北条政子が、少し懲らしめてやろうと企んだものの、思わぬアクシデントが発生したのだ」という事になっていますが、亀の前への嫉妬に狂った若い頃ならともかく(11月10日参照>>)、しかも一夫多妻制のこの時代に、まだ、政子は頼朝の浮気に悩んでいたのかしら?

どちらかと言うと、当は北条が暗殺したけど、アクシデントって事にしちゃいました~・・・というほうがグンと説得力があるような気もします。

いずれにしても、「歴史好きでなくてもその名前を知っている超・有名人の死因が正史に書かれていない」という、曖昧で不自然な事態から、謎が謎呼ぶ・・・という事で、歴史好きの様々な推理が渦巻き、心躍らせる謎解きの材料にもなるわけですわな。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 平治の乱・終結 | トップページ | 八百屋お七と丙午 »

鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

源頼朝があと10年生きていたら、源氏将軍がもう少し長く続いたかもしれないですね。
競馬の騎手でも落馬した際に、首を折って亡くなる事はありますが、頼朝ほどの人が亡くなるのは不自然(病身でないとするならなおさら)ですね。
大河ドラマでここまで滅多に触れないためか、歴史番組では意外とこの件の検証をしないですね。

今年もこのブログでいろいろな新発見がありました。
それではよいお年を o(_ _)oペコッ

投稿: えびすこ | 2010年12月30日 (木) 10時16分

えびすこさん、こんにちは~

>歴史番組では意外と…

やはり人気のある時代を取り上げますからね~

投稿: 茶々 | 2010年12月30日 (木) 12時31分

「その重成は、頼朝の死後、すぐに何者かに殺害されています。」

頼朝1199年、重成1205年の死亡ですからすぐに死んだわけではありません。畠山重忠の乱のあと、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、大江戸行元によって殺害されたとあります。

「頼朝・暗殺の実行犯だった重成を、口封じのため消した・・・という推理も成り立つわけです。」

これはあり得ないと思います。畠山重忠と同じく頼朝の忠実な御家人だったと思います。

頼朝の死後1199年~1205年の間が頼朝の忠実な御家人達にとって大変な時期になります。

投稿: さちが丘 | 2011年4月27日 (水) 14時41分

さちが丘さん、こんばんは~

6年は長いですか??

いろいろな憶測は飛ぶものの、本当のところは、糖尿病の悪化による落馬だと推測しますが、その後の歴史を知っている後世の者からみれば、いろいろと憶測してしまいますね~

まぁ、6年近く前の、ブログ初心者の頃の記事なので、今となるとツッコミどころはいっぱいあると、書いた本人も思ってますが…(笑)
んん??…って事は、やっぱ6年は長いのか??(爆)

投稿: 茶々 | 2011年4月27日 (水) 23時37分

何話も拝見させてもらいました。
今まで、読んだ歴史ブログの中で、
一番読みやすく、
おもしろいです。
ありがとうございます。

仲間にも
このブログを教えておきますね。

投稿: ヒロシ | 2012年10月17日 (水) 00時27分

ヒロシさん、こんばんは~

ありがたいお言葉…更新の励みになります。
また、遊びに来てくださいませo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2012年10月17日 (水) 02時55分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 源頼朝の死因をめぐる疑惑:

« 平治の乱・終結 | トップページ | 八百屋お七と丙午 »