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2006年12月11日 (月)

下克上の至り…山城の国一揆

 

文明十七年(1485年)12月11日、京都・山城で、国一揆が起こり、畠山両軍に3つの要求を突きつけました。

・・・・・・・・・

この3年後に起こる加賀の一向一揆(6月9日参照>>)とともに、記念碑的な一揆と称される山城の国一揆とは、どんなものだったのでしょうか?

その日の興福寺大乗院尋尊(じんそん)の日記には・・・
『今日、山城の国人たちのうち上は60歳から下は15歳の者まで集まり集会を開いた。
同じく国中の土民たちも集まったという。
それは、今回畠山両陣に申し入れを定めるためである。
両軍の返事や問答のあらましは、まだわからないが、こんな事は下克上の至りだ。』

と、あります。

時代は、あの応仁の乱(5月20日参照>>)が終ってから約10年ほど・・・

日本を東西・真っ二つに分け、京の街を焼き尽くす程の大乱も、山名宗全(3月18日参照>>)細川勝元という両方の大将が相次いで死に、結局はうやむやな形で終りを告げ、領地が心配な武士たちは、次々と京を去って行きます(11月11日参照>>)

しかし、もともと応仁の乱の要因の一つでもあった畠山氏の後継者争い(【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】参照>>)は、決着が着いていない以上、国許の山城に帰っても治まるはずがありません。
(畠山の戦いについては【応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い】参照>>

この日本を二つに分けた戦いは、山城の国も二つに分けていました。

      (将軍家)         (管領家)   (山城国)
東軍足利義視細川勝元畠山政長狛秀盛
西軍足利義尚山名宗全畠山義就椿井懐専

この最後の狛氏椿井氏国人と呼ばれる人々です。

Yamasirokuniikkiitikannkeizu 国人とは、村名を姓と名乗るほどのかなり武士に近い土豪・・・土豪というのは、半士半農の武士。

その下に土民と言われるほぼ百姓で、合戦の時にだけ出陣する人たちがいました。

もちろん、国人は狛氏と椿井氏だけではなく、この山城の国には、“36人衆”と呼ばれる国人たちがいましたが、彼らのほとんどは畠山政長の配下の人たちでした。

しかし、ここに来て山城の国の住人は、百姓・土民・土豪・国人が一致団結する事になるのです。

それは、応仁の乱後、少し小康状態になっていた畠山氏の後継者争いが、この年の10月から南山城を主な戦場として始まりつつあったからで、そうなると両軍は、新しい関所を儲け所領を占領し交通は遮断され、民衆は兵糧を出さされ、兵として合戦にも行かなければなりません

しかも、畑は戦場として荒らされ、木津川の船まで徴発されてしまうのです。

本来、公家を護り、その領地の治安を護るのが武士の役目にもかかわらず、逆に治安を悪くし、迷惑かけ放題の武士に、「そんなんやったら、自分の身は自分らで護るっちゅーねん!」と、百姓・土民がブチ切れたのもよ~くわかります。

彼らの要求は3つ
① 畠山両軍の撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新関所の撤廃

は、もう、ケンカするなら、もう出てって他でやって!・・・て事です。「今後一切入るな」という感じで強く言ってます。

では、年貢を畠山を通さず直接公家に納めるという約束を、一揆より先に直接公家と取り付け、お公家さんも大喜びしています。

は、もちろん、先に書いた交通の妨げとなる関所の廃止です。

当時、関所を通るたびにお金も支払わなければならなかったので、自分たちの土地を自分たちで護る以上、必要のない物なのです。

彼らは、「この要求が承諾されなければ、両畠山軍を攻撃する」という事も言っていました。

先ほどの尋尊の日記によると、16日頃までは交渉が難航していたようですが、17日には義就軍の有力者・古市澄胤(ちょういん)が国元に帰ったのをきっかけに、不思議な程に両軍ともに撤退を開始し、一揆は成功したのです。

これ程うまくいったウラには、彼らの綿密な計算がありました。

畠山両家の下に付きながらも、さほどその気のない武士たちに、法外な金銭を渡して、一揆に対して見て見ぬふりをしてしくれるように頼んでいたのです。

時の最高権力者・細川政元(細川勝元の息子)にさえ、話を付けていたと言うからたいしたもんです。

ただ残念なのは、これだけ綿密な計画を立てて実行した一揆でしたが、加賀の一向一揆が100年の自治を実現したのに対し、山城の国一揆は8年間しか維持できなかった事です(【山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い】参照>>)

やはり、それは団結の違いによる物ではないかと思います。
もちろん、団結の強い弱いではありません。

加賀の場合は一向宗という宗教のもと、もともと団結していた人たちが起こした一揆ですが、こちらの山城の国一揆は、もともと争っていた国人が一揆のために団結したというところです。

国人と言えど、武士のはしくれ・・・土地という横のつながりとともに、主従関係という縦のつながりもあるのが武士の常ですから、その後も主従関係を断ち切る事が難しかったのだと思います。

現に、この一揆の直後、椿井懐専(かいせん)は、畠山義就(12月12日参照>>)によって切腹させられています。

政長の息のかかった国人たちと、団結したのが原因ではないかと言われます。

戦国に入り、結局は、上司にあたる武将の思惑に左右されてしまうことは避けられない事だったのでしょう。

しかし、信長や秀吉が関所廃止令を出す100年も前、自由通行を主張し、共和制の自治を守り、応仁の乱で荒廃した村々を、自分たちで立て直そうと立ち上がった彼らの心意気には、おおいに拍手を送りたいですね。

1485年と言えば、ヨーロッパでは、スペイン王国が成立し、コロンブスが黄金の国・ジパングを夢見ていた頃・・・(10月12日参照>>)

そんな頃の日本に、自ら独立を宣言し、投票によって代表者を決め、その代表者の話し合いによって村の方針を決めるという、間接民主的国家が存在した事は、なかなかに世界に誇れる出来事ではないでしょうか?

一揆の方法や惣については6月9日【一味同心・一揆へ行こう!】でどうぞ>>>

山城の国一揆については、本家HPでも地図を入れくわしく書いています…内容かぶってますがよろしければ、コチラからどうぞ
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