平治の乱・終結
平治元年(1159年)12月26日、平治の乱が終結しました。
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崇徳天皇と後白河天皇による天皇家の後継者争いを発端に、公家や武士を巻き込む形で争った保元の乱(7月11日参照>>)
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勝利したとは言え、源義朝は父親を・・・平清盛は叔父を・・・と、それぞれ身内を手にかけなければならなかった、という後味の悪いものでした。
その保元の乱で勝利した後白河天皇・・・しかし、その天皇の側近の間でまたもやきな臭い匂いが漂い始めます。
まずは、藤原信頼(12月9日参照>>)・・・彼は若い頃、かなりの美少年で、後白河天皇の寵愛を受けて中納言にまで出世しました。
かたや、藤原通憲・・・彼は当代きっての博識の持ち主でしたが、南家の出身(藤原家の東・西・南・北家については10月16日参照>>)で思うように出世が望めず、仏門に入り信西と名乗って人生半ばあきらめていたのですが、ここに来て信西の奥さんが後白河天皇の乳母だった事から、徐々に運が向いて来るようになり、もともと天下一の学者との評判高い頭脳の持ち主ですから、その出世ぶりが他を圧倒するようになって来ます。
保元三年(1158年)に、二条天皇が即位し、後白河天皇が法皇として院政をやり始めると、ますますその権力は大きくなり、そうなると信西と上皇が頼りにしている平清盛の存在も比例して伸びて来るのです。
当然、面白くないのは、二条天皇に付く側近たちです。
天皇の叔父・藤原経宗(つねむね)、天皇の乳兄弟・藤原惟方(これかた)。
彼らは、院政ではなく、天皇が政務をこなす事を望んでいます・・・もちろん、それは天皇の側近の自分たちが権力を握れるわけですから・・。
そんな彼らに近づいたのが、信西から出世を止められ、最近とんと影が薄くなってきた先程の藤原信頼です。
信頼は天皇派の経宗らと話合い、やはり信西に嫌われているため、保元の乱で活躍したにもかかわらず、平清盛より下に見られているとの不満を抱いていた源義朝を仲間に引き入れます。
こうして、打倒!信西をもくろむ彼らですが、何せ信西は今一番の権力者・・・一方、武士とは言え、東国に本拠を置く義朝は、京にいる軍勢だけではちと不安・・・
さらに清盛が保有する軍隊は兵の数も圧倒していますから、未だ、どちらに味方するかわからない清盛の動向も気にかかります。
何とかならないか・・・と思案する彼らに、絶好のチャンスが訪れます。
平治元年(1159年)12月4日、清盛が息子やその弟など、一族の侍を従えて“野詣でに出かけたのです。
この清盛の留守を好機と見た信頼たちは、5日後の12月9日、「信西が信頼を討とうとしている」という、でっち上げとおぼしき大義名分を立てて、義朝の軍勢を頼りにクーデターを決行しました。
これが、平治の乱です。
もともと二条天皇を手中に収めている彼らは、後白河法皇を幽閉し、次に信西の屋敷に攻め込みます。
それを察知した信西は寸前のところで屋敷を脱出し、宇治方面に逃走しますが、隠れている所を見つかり討ち取られ、信西の首が源光保(みつやす)によって都に運ばれます(12月15日参照>>)。
信西に変わって朝廷の実権を掌握した信頼。
源氏一門の冠位も昇る事になり、この時点で事実上クーデターは成功します。
一方、旅先で、クーデターの事を聞いた清盛は、今後どうすべきか考えます。
いったん西国へ落ち延びて、軍勢を募ろうかとも思いますが、息子たちを連れてきたとは言え、都の六波羅の邸宅には、まだまだかなりの数の一族が残ったままになっているわけで、そのまま見捨てるわけにもいきません。
清盛は源氏との合戦を覚悟して17日に京に戻ります。
ところが、どっこい・・・何の問題もなく、すんなり六波羅の邸宅に帰り着いてしまったのです。
そう、源氏の大将・義朝は、本来ならここで仕掛けるべき決戦を仕掛けてきませんでした。
なぜなら、先の通り、軍勢の数が平家に比べて圧倒的に足りなかったからです。
慌てて決戦するよりも、この時点ではクーデターは成功しているのですから、おそらくはクーデターで傷ついた兵力の温存を図るとともに、やがて到着する援軍を待っていたのです。
清盛は清盛で、六波羅の屋敷に着いたものの帰るなり、兵を挙げて信頼や義朝を討つ・・・という事はできませんでした。
なぜなら、天皇と法皇が敵の手の中にあるからです。
まずは、ふたりの奪還をしなければ、いくら兵力があっても彼らを叩きつぶす事はできません。
ところが、ここで話は急展開。
何を思ったのか、敵である藤原経宗と、惟方が清盛側に寝返って来たのです。
経宗・惟方と相談した清盛は、信頼に名簿を提出します。
この名簿を提出というのは、この時代の正式な儀式で、「あなたの家来になります」という意味を持つ物でした。
信頼はクーデターは成功し、自分が「この国の実権を握っている」と確信していますから、清盛のこの行動を“敗北宣言”と思い、100%信じ込んで、名簿を受け取ります。
こうやって信頼を安心させておいて、清盛は天皇・法皇奪還計画を実行します(12月25日参照>>)。
12月25日の真夜中、こっそりと内裏に忍び込み、女装させた天皇を女性用の牛車に乗せ外へ連れ出し、法皇も同じ方法で奪い返し、自分の屋敷に迎え入れました。
その後、「天皇と法皇が平家側にいる事」を都じゅうに知らせます。
知らせを聞いて、天皇・法皇のもとに公家たちが集まった所で、天皇が『信頼・義朝追討』の宣旨(正式な命令)を発したのです。
これで、清盛は官軍、信頼+義朝は朝敵となったわけです。
果敢にも討って出る源氏の大将・義朝でしたが、従う兵力は200騎。
平家軍は、たくみに源氏軍を外へ誘い出し、その間にお留守になった内裏をまたたく間に占拠してしまいました。
しかも、内裏で大将として踏ん張るはずの信頼は、「平家軍来たる!」の知らせに怯え、平家が占拠する前に、内裏から逃げ去ってしまっていたのです。
義朝は、軍を出発させた内裏へ戻るに戻れなくなったわけで、しかたなく平家の本拠地を叩くべく、六波羅に向かいます。
実は、この六波羅近くに、頼みの綱の源頼政が控えていたのです。
「未だ無傷の頼政軍と合流すれば、なんとかなる」と義朝はふんでいました。
しかし、頼政の軍はまったく動きません。
そう、頼政はとっくに清盛側に寝返っていたのです。
この事で頼政は、“平家全盛の時代にも生き残った源氏”となるわけですが、彼は後々、源平合戦の火蓋を切るキーマンとなる人でもあります。(5月26日参照>>)
劣勢の源氏・義朝軍は、頼みの綱の頼政にも裏切られ、みごと大敗。
源氏軍は、各自バラバラに落ち延びていき、平治元年(1159年)12月26日、ここに、平治の乱は終結しました。
やがて、逃げていた信頼は捕らえられ、六条河原にて斬首されます。
その後、北国の援軍を求めに行った義朝の長男・義平は、近江の石山寺で平家方に捕らえられ、やはり六条河原にて斬首(1月25日参照>>)。
次男・朝長は、逃走中の美濃の山奥で落ち武者狩りの山賊に襲われ死亡。
三男・頼朝は、やはり逃走中平家方に捕まり、ご存知のように伊豆に流罪となります。(8月17日参照>>)
平治の乱の勝利によって、いよいよ、平家全盛へと昇りつめて行きます。(6月11日参照>>)
一方、知り合いを頼って尾張方面へ落ち延びた義朝でしたが・・・おっと、この続きは、1月4日のページへどうぞ>>
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