忠臣蔵のウソ・ホント
頃は元禄十五年(1702年)12月14日、降りしきる雪をかき分けて、夜空に響く陣太鼓、一打ち、二打ち、三流れ・・・でしたっけ?
とにかく今日は、赤穂浪士の討ち入りの日。
・‥…━━━☆
まぁ、実際に討ち入ったのは、15日の午前4時頃なんですが、みんなで集合し、事を起こしたのが14日の深夜という事で、今日書かせていただきます。
この赤穂浪士の討ち入りは“仮名手本忠臣蔵”(8月14日参照>>)のモデルとして超有名な出来事です。
「外題に困れば忠臣蔵」と言われ、どんな人気のない芝居小屋も、忠臣蔵を上演すれば客席は満杯になるという、日本人の心をつかんで放さないこの作品。
意地悪な上司のせいで切腹に追い込まれた殿様のために、命を賭けてカタキ討ちをする家臣・・・痛快な勧善懲悪でありながら、死を覚悟して決行するという滅びの美学もあり~ので、まさに“判官びいき”の心クスグリます。
もちろん、お芝居はお芝居で、面白くなるように創作が入っているものなのですが、いったいどこまで事実でどこからがフィクションなのでしょうか?
まずは、松の廊下の刃傷事件・・・くわしくは(3月14日【事件を目撃した松はどんな松?】を見てね>>)。
高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)から、イケズされバカにされた赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、我慢の限界に達しブチ切れ!江戸城の松の廊下で上野介に斬りかかります。
もちろん、これは事実ですが、ただ吉良さんが、本当に意地悪だったかどうかは、当てになりません。
高家というのは、幕府と朝廷のパイプ役でもあり、足利家の血筋の名門の家柄の事で、そこの筆頭ですから、たしかに吉良さんはエライ人です。
しかも地元の評判でもわかるように、かなりの名君で仕事もデキる人。
そのぶん、やはり仕事には厳しかったようですが、浅野さんがもし、仕事がデキない人だとしたら、怒られるのはある意味当然。
しかも、浅野さんは、かなりのかんしゃく持ちで、すぐに頭に血がのぼるタイプ。
前日も、「明日は江戸城に行く」というので、精神安定剤のような薬を飲んでいたらしいので、これはもう周囲も認めるケンカっ早い人って事で、一概に吉良さんが天下の大悪人とは言い難いところです。
吉良さん側から言えば、なんで浅野が怒ってるのかさっぱりわからない・・・というのが本音のようです。
ただ、たとえ「城内での傷害事件の罰が切腹」というのが、当時、常識だったとしても、吉良さんにまったくお咎めナシ・・・という幕府の判決が甘かった・・・ですね。
結局この事が、討ち入りの計画を知っていても幕府は目をつぶらなきゃいけない事になってしまいます。
そうなんです。
討ち入りがある事を幕府は事前に知っていたんです。
大石も、知人への手紙に“御老中もご存知”と書いています。
しかも、幕府は浪人たちが討ち入りやすいように、吉良さんの住居を呉服橋という大都会から、本所という当時はけっこう田舎な場所に引っ越させています。
これは、アノ時の処分が「片手落ち」だという世論の批判をあびて、幕府が見て見ぬふりをしていた証拠かも知れません。
その事は吉良さん側も察していたようで、今までの奉公人をすべてクビにして、国元から身元のしっかりした者を呼び寄せ、奉公人の入れ替えをやっています。
そんな中、討ち入りのリーダーである、家老・大石内蔵助が、敵の目をくらませるために京都で遊びまくっていた・・・という話。
これは、遊びまくっていたのは、本当ですが、敵の目をごまかす・・・というのではなくて、単に本当に遊ぶのが好きだっただけのようです。
赤穂にいた頃には、あまりにもヒドイので、7回くらい殿様から謹慎処分を受けています。
内蔵助が浪士たちと密談をかわしたとされる京都・来迎院の茶室・含翠軒
しかも、彼の本音は仇討ちではなく、御家再興。
なのに、仇討ちメンバーのリーダーに祭り上げられてしまい、絶望感からよりいっそう遊びまくった・・・というのが本当のようです。
そして、いよいよ、討ち入り当日。
残念ながら雪は降ってませんでした。
細かい事を言えば、打ち鳴らしたのは山鹿流・陣太鼓ではなく、各自が持った笛とドラ1個。
おそろいのカッコイイ服装ではなく、みんなバラバラ。
表と裏から24人ずつ、合計48人のメンバーが襲撃するはずでしたが、当日になって毛利小平太が脱落して47人に・・・。
やがて、納屋に隠れていた吉良さんを、間十次郎が見つけますが、実は表に引っ張り出された時には、すでに死亡。
武林という中国人・3世が斬ったという事ですが、その傷以外に25箇所もの傷があって、結局、誰が討ち取ったかワカラナイ・・・という痛快と呼ぶにはふさわしくない状況でした。
そして、幕府も知っていたこの討ち入りには、約300人の見物人がいて、その中にはあの新井白石もいたとか・・・。
その後の処分は、討ち入りにかかわった46名全員が切腹・・・(残りの1名については【消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】へどうぞ>>)
これは、「主君の無念を晴らした武士の鑑」との世論に気をつかいながら、大勢で他人の家に押し入った罪は罪とした幕府の苦肉の策で、打ち首ではなく、切腹として浪士たちの面目を保った・・・という所でしょうか。
しかし、ワケがわからないのは、被害者側である吉良家の義周(上野介の養子)さん。
彼は、父を守れなかったという罪で流罪になっています。
「なんのこっちゃ」って感じですね。
後日談としては、大石と同じ赤穂藩・家老でありながら、途中で行方をくらます大野九郎兵衛さん。
彼は、お芝居では、逃げ出した腰抜け“不忠者”として描かれているのですが、実際に逃げた先には東北や山梨、京都などいくつがの伝承が残されています。
その中で、群馬県安中市磯部には、九郎兵衛さんが、林遊謙という名前で、近所の子供たちに手習いを教えていたという話が残っていて、近くにはお墓もあるそうなのですが・・・その遊謙さんが亡くなったとき、村人が遺品の中から手紙を見つけたのだそうです。
その手紙の差出人は、大石内蔵助で「自分が、襲撃に失敗した時には、第二陣として頼む」という内容だったとか・・・。
残念ながら肝心の手紙が現在は行方不明なのだそうで、これはあくまで言い伝えという事になってしまいますが・・・(2010年12月14日参照>>)。
★討ち入りの詳細は
2009年12月14日のページでどうぞ>>
★討ち入り後に姿を消した寺坂吉右衛門については
2009年2月4日のページでどうぞ>>
★江戸時代には、忠臣蔵とセットで上演されていた
【もう一つの忠臣蔵~四谷怪談】もどうぞ>>
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コメント
TBありがとうございました!!
ボクの
ブログにも
書かせていただきましたが、
深い
凄い
そして
面白い!!
ブログですね。
博識に感銘しました!!
これからも宜しくお願いします。
投稿: 大文字彦左衛門 | 2006年12月15日 (金) 21時23分
大文字さん、コメントありがとうございます。
やはり、14日は忠臣蔵の話題ですよね。
(国会でも話題になってましたし・・・笑)
よく時代劇やお芝居を見ていると、歴史好きから見て「ここは、事実と違う」と思うところがよくあるんですが、ドラマはあくまでドラマですから、おおいにフィクションを織り交ぜてもらってけっこうだと思っている口です。
ただ、できることならより面白くなるように創作してほしい・・・思いますが、忠臣蔵はそのベスト1とも言えるみごとな物だと思っています。
こちらこそ、これからもヨロシクお願いします。
投稿: 茶々 | 2006年12月15日 (金) 22時43分
茶々さん、こんにちは!
やっと研修から戻りました~~ふぅ。
いつもながら、どの記事にコメントしようかと悩みました(汗)。
やはり14日は「忠臣蔵」ですね~。
有名な出来事の反面、意外に謎の多い事件でしたね。たしか将軍は綱吉でしたか~仰るとおり、吉良上野介の件もそうですし、当日の庶民の反応や幕府の対応も??なところも多いですね。
投稿: ルーシー | 2006年12月16日 (土) 15時18分
ルーシーさん、お帰りなさいませ~。
研修お疲れ様でした~。
おっしゃる通り、たしか、将軍・綱吉が直接しかも即日に切腹の命令を出した・・・と思います。
オカシナ殿様の起こした事件を、オカシナ将軍様が処分をくだし、「おかしい」と騒ぐ世間に、幕府が必死で尻拭いに走った・・・て感じなのでしょうか?
吉良さんも、赤穂の浪士もその尻拭いの犠牲者だったような気がしないでもありませんね。
もっと最初にちゃんとしとけば、平和的に解決できたかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2006年12月16日 (土) 16時33分
やっぱ14日には、この記事にコメントすべきだったかなぁと、今更ながら思いまして遅れ馳せながら、一言コメント寄せます。歴史研究が進む中で、この事件にも色々な解釈がなされる様になったのは良いんですが討ち入りそのものだけを捉えて、この事件を現代の感覚で四十七士の行為は血気に逸る不逞浪士が高齢者宅に押し込み、無抵抗の老人を惨殺した残虐非道な殺戮行為であり、時の為政者が判決を下した事件に不服を唱え武力行使の挙に出た単なるテロ活動だなどと一方的に断罪するような論調の論文や雑誌記事を見ると腹立たしいのを通り越して悲しくなる。と、浅野長矩公と四十七士を祀る赤穂大石神社の宮司さんが、兵庫県神社庁発行の機関誌『兵庫神祇』やら赤穂大石神社社報『義士魂』などで語ってます。
投稿: マー君 | 2008年12月16日 (火) 01時51分
マー君さん、こんにちは~
浅野さんのお怒りも塩の取引が関係していたり、幕府の采配にも何やらあやしげな力が働いていたり・・・と、意外と複雑な事件ですからねぇ・・・。
投稿: 茶々 | 2008年12月16日 (火) 12時11分
宮司さんにしてみれば、ご自分が一意専心にご奉仕している自社の祭神を蔑まれるのは堪え難いモノが有るのでしょうね。
投稿: マー君 | 2008年12月16日 (火) 13時45分
私の大阪城とおんなじですね・・・
いや、宮司さんなので、もっと思い入れがありますもんね。
投稿: 茶々 | 2008年12月16日 (火) 14時48分
思い入れ以上の深〜い深〜い深〜い思いがお有りでしょうね。宮司さんの思いはさて置き、この事件について僕は赤穂藩の江戸家老や江戸留守居役などの重臣達の気の利かなさから起こった事件だったんじゃないかって思っています。質素倹約を旨とする浅野長矩に対し、豪華絢爛こそ大名の生き方ってな考えの吉良さんとじゃ、馬が合うハズのない事は、長矩公が接待役に選ばれた時点で想像に難くないのに、何ら手を打たずに居たんですからホンマにバカ家臣の集まりかって言いたくなりますね。
投稿: マー君 | 2008年12月16日 (火) 21時54分
へぇ・・・そうなんですか・・・
そう言えば、大石は、遊びすぎで殿様に怒られてましたね。
投稿: 茶々 | 2008年12月17日 (水) 01時40分
塩に関するエピソードに次のようなのが有ります。それは浅野の江戸家老と吉良の用人との会話ですが、以下にその会話を要約し再現してみます。浅野の江戸家老…『この度は我が主君が、勅使供応役を仰せ使りました。つきましては指南役の吉良さまには万事お世話になります。それに当りまして御指南料は如何程、ご用意すれば宜しいのでしょうか?。我ら田舎者ゆえ江戸の相場に疎く、不調法が有ってはなりませぬゆえ、こうしてお尋ね致す次第で御座りまする。忌憚なくお教え下さりませ。』吉良の用人…『なぁに大した金子は不要にござりまする。それより赤穂の塩は天下一品と聞きます。その塩を戴ければ殿も喜びましょう。』この吉良の用人の言葉の裏には、吉良も製塩業を藩の基幹産業にしてるが、赤穂の塩の方が良質のため、市場での売れ行きに於いて赤穂の塩に大きく水を空けられた状況にあった吉良の現状を憂いた用人が、何とか赤穂の製塩技術を教えてもらえないだろうかって謎を掛けた言葉だったのです。然し田舎者ゆえのバカ正直さから浅野の江戸家老は、この言葉を額面通りに受け止め以下のように答えます。『何と吉良様には欲の無い、その様な事ならお安い御用です。早速に用意させて戴きます。』そして直ぐ様、江戸に入ってきてる赤穂塩をタンマリ、台八車に積み込み吉良家へ贈ったそうです。然し吉良の方では…江戸家老が、十分にこちらの意を汲んで帰ったモノと思っていたので、赤穂の製塩業者を吉良に派遣して製塩技術を教えてくれるとか、赤穂の製塩業者の先達が纏め上げた製塩技術の虎の巻なんかをくれるモノと思っていたので、贈られてきた塩の山を見て、あまりの浅野の江戸家老のバカ正直さに呆れると共に、大の大人が指南料に塩を贈ってそれで良しとする非常識ぶりに憤りをおぼえたようです。このやり取りを用人から聞いた吉良上野介も、用人同様に浅野の江戸家老の気の利かなさに呆れ、その報いが浅野長矩への侮辱とかイジメに繋がったなんて説まで有る様です。
投稿: マー君 | 2008年12月17日 (水) 21時28分
マー君さん、コメントありがとうございます。
塩関係のトラブルが、吉良VS浅野の対立の一因になったとも言われていますね。
いずれ、浅野さんのご命日にでも書かせていただこうかと思っていたんですが、ここでマー君さんに発表されちゃいましたね・・・残念(。>0<。)
投稿: 茶々 | 2008年12月17日 (水) 23時25分
然し、このやり取り一つだけ見ても、浅野の江戸家老が如何にボンクラだったかが窺えますでしょう。京都の人間に田舎の名物ですって裏山から採れた竹の子を贈るか、広島の牡蠣養殖家にウチの近くの海で獲れた逸品ですって牡蠣を贈る様なモンですからね。もらった吉良さん…これは、赤穂の塩は吉良の塩より素晴らしいでしょうっていう当て付けか。と激怒したなんて話も聞きます。この江戸家老を今風に表すなら、さしづめKY家老ってトコですね。この家老がもう少し会談の場の空気を読み、用人の気持ちを汲んで…『御用人さま、それはもしや吉良家に赤穂の製塩技術を教えろと言う事でしょうや?お気持ちは察しますが、製塩は赤穂の基幹産業!これを容易く他藩に教えることは出来かねます。その儀は何卒ご勘弁下さい。されど吉良さまの苦衷は理解できます故、当家と致しましても何かお役に立ちたいと思います。されば今すぐ藩邸に立ち返り、主君と相談の上…吉良さまの為に我が藩が何が出来るかを考えますので、それでお許し願いたいと思います。』とでも言って、その場を治め藩邸に立ち返ったら江戸詰めの重役達を集めて、藩財政で吉良家に金品を贈るのを潔しとしない主君の意を汲むなら私財を投じてでも、吉良の関心を買う貢ぎ物を用意出来なかったのだろうかって思います。
投稿: | 2008年12月18日 (木) 11時14分
次にNHK大河ドラマで「忠臣蔵作品」を製作する時は(最速で2014年)、誰が大石内蔵助をやるんでしょうかね。「そろそろ大河ドラマで忠臣蔵をやるかもしれない」と、地震前に言っていた人がいます。前回作・元禄繚乱の放送から2014年で15年。間隔が長くなっていますね。
投稿: えびすこ | 2011年6月25日 (土) 16時22分
えびすこさん、こんばんは~
仇討を賞賛する内容は、もうNHKではできないのではないかと…
考えすぎなかな?
投稿: 茶々 | 2011年6月26日 (日) 01時29分
内容的に問題があるんですか?海外で多発するテロ事件の影響かな。歌舞伎でも最近やらなくなったような…。
投稿: えびすこ | 2011年6月26日 (日) 08時27分
えびすこさん、お早うございます
問題というほどではありませんが、最近の大河の主人公は、平和主義者が多いので、仇討ではなく、話し合いで解決しようとするのではないかと…
さすがに、忠臣蔵で“仇討シーンなし”にするわけにいきませんから…
仇討に参加しない方々が主人公なら、あったかも知れませんが、それも、映画でやっちゃいましたし…
投稿: 茶々 | 2011年6月26日 (日) 08時59分