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2006年12月30日 (土)

平泉から北へ逃避行?源義経=ジンギスカン伝説

 

本日は“義経=成吉思汗(ジンギスカン)説”について・・・

・‥…━━━☆

Minamotonoyositune700s ご存知、源義経(みなもとのよしつね)は・・・
兄の頼朝(よりとも)と不和になり、都を落ちて奥州・平泉藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って東北へ逃れるも、秀衡の死後、頼朝の命を受けた秀衡の息子=泰衡(やすひら)に急襲され、文治五年(1189年)閏4月30日に衣川で自刃した」というのが通説です。

くわしくは
【衣川の合戦~義経・主従の最期】>>
【夫・源義経との最期を選んだ郷御前】>>
のページで>>

もっとくわしく・・・という方は、【源義経の年表】>>で、それぞれの記事を見ていただければ幸いですが、“義経=ジンギスカン説”に飛躍する前に『義経の北行伝説』を・・・

海を渡る前に、まずは、「義経は頼朝の追手を逃れて北海道まで行った」という説から参りすが、これは、“判官びいき”の都の人々が、起こした噂かと思いきや、実は発祥は北にあるのです。

東北や北海道で発生した噂が、徐々に南に下って全国ネットになったようです。

・‥…━━━☆

12世紀の末、北海道の平取という所にあるアイヌの村に、見知らぬ武士の一団がやってきたのだそうです。

アイヌに人たちは「すわ!敵の来襲か?」と構えましたが、彼らは以外にも友好的で、農耕や漁業、船や織物の製法を教えていった・・・というのです。

アイヌには、「昔、オキクルミカムイという神様が空からやって来て衣食住や病気の治療法を授けた」という伝説が伝わっていたので、この武士の一団を「オキクルミカムイの再来だ~」と、大いに喜んだのです。

そして、この武士の一団の長のような人物の事を、仲間の武士たちは「はんがんさま」と呼んでいた事から、アイヌの人たちは、彼の事を「ホンカンカムイ」という名前で呼んだのです。

・‥…━━━☆

あくまで伝説なので、話の出どころ自体がよくわからないし、内容もちゃんと伝わってるのか微妙なわけですが、この“ホンカンカムイ”の伝説が、その後、北海道から東北一帯に広がるにつれ、「その人たちって平泉から北へ逃げた義経主従やないん?」ってなって、その物語が、いつしか“義経生存説”として語られるようになり、やがて、江戸時代に中央へ伝わり、江戸幕府のお抱え学者の林鵞峯(がほう)という人が「義経死せず、逃れて蝦夷に至る」と発表した事によって、江戸で“義経生存説”の大ブームが巻き起こるのです。

そうなると、北海道や東北の各地に、義経が宿泊した場所だとか、座った石だとか、そういった伝説の場所も登場してきますが、やはり、本当の歴史として語られる事はありませんでした。

とは言え、鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』の記述にも、少々不可解な部分があります。

合戦の常として、衣川で亡くなった後、義経の首が頼朝の待つ鎌倉に送られるわけですが・・・実は、通常20日間くらいで行けるはずの平泉~鎌倉間を、義経の首を運ぶ時だけ、倍の43日かかっているのです。

つまり、義経の最期が閏4月30日で到着は6月13日という・・・旧暦の文治五年(1189年)4月30日は1189年6月15日ですから、到着は7月31日と、メッチャ暑い真夏の季節。

このおかげで、義経の首は、本人かどうかなんて判断できるものではなかったのだそうです。

となると、「衣川で死んだ」という確実な証拠はないって事になり、様々な憶測が流れるわけです。

やがて、江戸中期になって“義経生存説”は海を越え、大陸に到達します。

「義経は満州に渡った」というものでしたが、やはり当時の学者たちには無視されたようです。

そして明治に入っって、後の文部大臣の末松謙澄が、学生時代に書いた『義経再興記』なる書物が刊行され、その中で「義経はジンギスカンになった」と発表されたのです。

ま、一般的なプロフィールでいくと・・・
ジンギスカンは1167年生まれ、義経は1159年生まれって事になってますので、ま、芸能界ならごまかしアリの年齢差か?

もし、義経が平泉から脱出したのだとしたら、その年数は1189年・・・ジンギスカンが歴史に登場しだすのが1204年頃で、“汗”の称号を得るのが1206年

東北から北海道、さらに海を越えて・・・となると、十何年はかかるわな。

さらに、ジンギスカンが戦いのとき使用したのは、白い旗・・・ご存知、源氏も白旗。

そして、何より興味深いのは、大陸では誰も使用しなかった日本式の弦の長い“大弓”・・・ジンギスカンはこの大弓を使っていたのだとか・・・。

壮大なロマンに心ワクワクしますね。

はたして、フビライが起こした2度の“蒙古襲来”には・・・
10月19日【蒙古襲来!文永の役】
6月6日【蒙古襲来!弘安の役】

鎌倉幕府に対する「ジッチャンのカタキ」の思いが込められていたのでしょうか?

しかし、それにしては、蒙古襲来時の蒙古軍の船の造りがダサイ気が(゚ー゚;・・・ホンカンカムイがアイヌに教えた船の製法は、孫の時代にはもう忘れ去られていたのかしらん・・・。

ちなみに、今まで数々映画化・ドラマ化されている義経さんですが、私の知る限りでは、少年隊の東山さん主演のドラマが唯一「北海道へ逃げる」という終りかただったように記憶しています。

その時は、北へ向かう旅に静御前も呼んでましたね。

「平泉の奥さんと子供(2011年4月30日参照>>)は見殺しかよ!」と思ったものです(笑)。

笑顔で終る義経ご一行を初めて見た気がしましたが、ドラマの場合はそれもアリです。
ドラマですから・・・。

*義経さんの伝説・・・と言えばもう一つ、本家HPでは牛若丸は義経ではない=別人説についてやってます。
 興味がおありでしたらコチラからどうぞ>>
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