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2006年12月28日 (木)

八百屋お七と丙午

 

天和二年(1682年)12月28日、八百屋お七自宅に放火しました。

・・・・・・・・・

愛しい男に会いたい一心で、思いつめた16歳の少女が、自宅に火を放ち、近くの半鐘に登る・・・。

O7cc_1 「あぁ・・・吉三・・・吉三・・」と、男の名前を呼びながら、一心不乱に鐘を叩く・・・

しかし、おりからの強風にあおられた炎は、みるみるうちに江戸の町を焼き尽くし、あたり一面火の海に・・・

浄瑠璃、お芝居で有名な“八百屋お七”のクライマックスです。

当のお七は、翌年の3月に処刑された、という事ですが、このお話は数年後、井原西鶴『好色五人女』四人目として登場し大人気となります。

この日の火事は、通称“お七の火事”と呼ばれ「お七と言えば大火」と、江戸の人々に印象付けられる事となります。

お芝居では・・・

火事で焼け出されたお七さん一家。
地元の円乗寺へ非難します。

ここで、この寺の小姓の吉三と出会い、なかなかのイケメンぶりに一目惚れ。
吉三も可愛いお七に惚れられて満更でもない様子。

やがて、ふたりは焼け出された人々でごった返す中、人目を忍んで男と女の関係に・・・。

でも、その場所はあくまで避難所です。
落ち着きを取り戻した一家は、やがて急ごしらえの、もとの八百屋に戻ります。

しかし、吉三の事が忘れられないお七・・・。

当時は、今のように、若い娘が自分の好きな場所に、出歩く事は考えられない時代でしたから、恋焦がれ、「このまま会えないのなら死んでしまいたい」とまで思いつめる16歳の少女は、「また、火事になれば、愛しい吉三さんに会える・・・」と、自宅に放火をするのです。

このお七さん、16歳というのはかぞえ年で、今の満年齢だと14歳です。

たしかに、思いつめたらブレーキの利かないお年頃である事は間違いないですが・・・。

お芝居では、この出会いの火事が明暦三年(1657年)の大火“通称:振袖火事”(1月18日参照>>)で、放火したのが“お七火事”という事で、因縁めいた作りになっていますが、パッと見てわかるように、それでは年齢があいません。

翌年の刑が執行された時の記録を、一番正確なものと判断するならば、そこから逆算していくしかありませんね。

ちなみに、明暦の大火は、10万人もの犠牲者を出し、江戸の町並みを変えてしまうくらいの大火事だったという事ですが、その後も江戸の町では火事が絶えず、幕府も“火消し組織”を作ったり、火が燃え移らないよう空き地など作ったりもしましたが、なんせ、放火が後を絶たない状況で、寛文六年(1666年)ご存知“火附(ひつけ)盗賊改め”なる部署を設置しています。

そして、お七は“丙午(ひのえうま)の年の生まれ・・・と言われていますので、もし、その事を信じるならば、この寛文六年が“丙午”の年ですので、この年に生まれたと考えられ、それならば、上記の刑の執行記録の年齢に、一応、ギリギリセーフかな?という感じです。

ただし、この“丙午”というのは、昔から「“丙午”生まれの女性は、男を食い殺す」とか「気性が激しい」などと、あらぬ疑いをかけられていて、“丙午”の年は、子供の出生の数がガクンと落ちる・・・という現象が、昭和になってもあったくらいですから、「お七が“丙午”生まれ」というのも、その迷信にこじつけた事も考えられます。

それにしても、なぜ“丙午”生まれの人に、そんなレッテルが貼られてしまったのでしょう?

元号のところでも少し書きました(9月8日参照>>)が、この“丙午”“丙”“十干”と呼ばれる「甲・乙・丙・・・」と、続く10種類の暦。

“午”はご存知“十二支”12種類の“えと”ですね。

この“十干”“十二支”をあわせて、その年を表し、60年で一周(還暦)します。

昔は、コロコrと変わる元号よりも、むしろ、こちらの表現で、その年を呼んでいました。

ちなみに、来年=2007年は“丁亥(ひのとい)になります。

そして、もう一つ“五行説”というのがあります。

“五行説”は、「木・火・土・金・水」の五つからなる物で、宇宙や人の運命が、この五つに支配されている・・・という物で、現在の曜日の名前に使用されている物です。

Gogyoucc_1 この“十干”と“十二支”を“五行説”に当てはめると(右図→)、“十干”はそれぞれ二つずつ、“十二支”は、余るので“土”に四つで残りは二つずつあてはめられ、この考え方でいくと、“丙午”は「火と火」という事になるのです。

それで、「火=怖い・激しい」などのイメージとともに、いつしか「“丙午”の年は火事が多い」という噂が囁かれはじめ、このお七の一件が決定打となって「“丙午”生まれの女は・・・」的なイメージが付いてしまったという事なのではないでしょうか?

他にも、「火と火」の組み合わせになる年はあるのに、なぜか“丙午”だけが、因縁めいた話で残っていってしまうのです。

ところで、火事の話に戻しますが、やはり、例のごとく、お芝居と事実の違いは、多少あるもので・・・主人公の男性の本当の名前は“吉三”ではなく、“左兵衛”・・・ちょっと、こころなしかオッサンぽい名前(失礼)です。

それに、たしかにこの時期、江戸では火事が頻繁に起こっていましたが、町中を焼き尽くすような大火というのは、“明暦の大火”と“お七火事”の間には起こってはいません。

・・・となると、“お七の火事”というのは、お七が放火した火事ではなく、お七が避難した・・・つまり、実際には「左兵衛(吉三)と出会った火事」という可能性が高いですね。

事実、記録されている“お七の火事”の出火元は、駒込の大円寺で、お七の自宅ではありませんし、西鶴の『好色五人女』でも「火付けは煙が上がっただけ」と書かれていて、お七の放火はボヤだった事になっています。

お芝居では、やはり盛り上がるように脚色されているようです。

そして、最後に、放火したその日のうちに捕まって、奉行所で取調べを受けたお七・・・あまりの魂の抜けたような状態の彼女を見て、哀れに思った奉行は「お前は、まだ14歳であろう?」と問います。

この時代にも、今で言う少年法みたいなものがあって、14歳以下なら死罪を免れる事ができたので、奉行は情けをかけてそう聞いたのですが、「左兵衛(吉三)に会えないのなら死んだほうがマシ」と、思いつめていたお七は「いいえ、私は16歳です」と、言い切り、天和三年(1683年)の3月29日市中引き回しの上“火あぶりの刑”に処せられるのです。

一方、左兵衛(吉三)のほうは、事件後、自殺を図りますが死に切れず、その後、出家してお七の菩提を弔ったと言います。

“丙午”生まれのお七さん・・・「激しく怖い女」と言うよりは、「悲しく切ない女」という感じがしますね。
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コメント

こんばんは。想いとゆうのは時にはとても強大なものになるんですね~。死んだ方がましだと思ってしまうくらいにもなるなんて、凄いなと思います。
そーいえば、カレンダーに「きのえうま?」とか書いてあるやつもありますよね。いつもこれってなんなのか疑問になってはいたけど、特に調べもせずって感じでいました。(^_^;)
ちょっとわかった気がします。(^o^)

投稿: 見習い大工 | 2006年12月28日 (木) 20時46分

見習い大工さん、こんばんは~。

そうですよ~女の執念は恐ろしいですからね。
見習い大工さんもヤケドしないように気をつけてくださいね!

今の若いかたにとっては、十二支もあやうい感じなのに、ちょっと前まで、年も日付も時間も方角も、十干や十二支で表現していたなんて、今の日本からは想像できませんよね~・・・って私はすご~い年寄りみたいな発言をしてますが、そこまで年寄りではありません。

ナウなヤングです。

投稿: 茶々 | 2006年12月28日 (木) 21時37分

茶々さん、遅ればせながら、新年のご挨拶に参りました。

本年もさらなる交流をよろしくお願い致します。

まずは、新しき年を迎えての初TBという事で、「八百屋お七」の記事をトラックバックさせて頂きました!

投稿: 御堂 | 2007年1月10日 (水) 04時22分

御堂さん、こんにちは~。
そして、新年あけましておめでとうございます。

私のほうからもTBさせていただきました~

こちらこそ、今年もよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2007年1月10日 (水) 15時07分

1966年は「丙午は良くないので子作りをためらった」現象は有名ですが、21世紀の今日で考えるとひどい話で、迷信をうのみして中絶・間引きが急増したとか。
実は丙午である紀子さまのご成婚後は、「丙午ジンクス」を公にする事はあまりないんですよ。15年後の2026年にも1行目の現象が起きるか、それともジンクスを破るか?1966年にもジンクスを打破しようと運動した人がいます。
女性芸能人で1966年生まれの人がいるはずなのに…。

投稿: えびすこ | 2011年12月23日 (金) 09時16分

えびすこさん、こんにちは~

もはや、気にする人もいないんじゃないでしょうか?
まったく根拠ないですもんね。

投稿: 茶々 | 2011年12月23日 (金) 16時11分

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