法隆寺と聖徳太子
昭和二十四年(1949年)1月26日、法隆寺金堂から出火。
建物の全焼こそ免れたものの、日本最古の壁画が焼失してしまった事から、昭和三十年(1955年)に消防庁がこの1月26日を“文化財防火デー”に設定し、各地のの文化財で防火訓練などが行われます。
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放火やイタズラではなく、壁画の模写を手がけていた画家の電気座布団の過熱が出火の原因・・・おそらく、この壁画の魅力を誰よりも感じていたであろう人の胸の内を思うと、心が痛みます。
現在は、パネルに描かれた物が壁にはめ込まれています。
そんな法隆寺の魅力は、もちろん世界最古の木造建築である・・・という事ですが、何と言ってもその建築の美しさ・・・。
遠くギリシャから伝わった少し真ん中が膨らんだ形のエンタシスの柱と、連子窓の続く回廊から眺める五重塔と金堂。
その回廊を少し歩いて、今度は大講堂から西院全体を見渡せば、心は遥か古にタイムスリップ。
金堂に安置されている釈迦三尊像は、後世のふくよかな仏様とは違った飛鳥時代特有の雄雄しい感じがする面長なお顔に、神秘の微笑み=アルカイックスマイルをたたえていらっしゃいます。
この地に斑鳩(いかるが)の宮が造営されたのは推古九年(601年)。
お寺の創建はその6年後の推古十五年(607年)と考えられています。
政治の中心が飛鳥(明日香)にあった時代に、聖徳太子は何を思って遠く離れた斑鳩に宮を築いたのでしょうか。
十七条憲法、冠位十二階、遣唐使の派遣・・・数々の偉業を成し遂げ、以前は日本史上トップクラスの英雄だった聖徳太子も、ここ最近、架空の人物説や、複数合体説など、様々な説が囁かれるようになりました。
聖徳太子という名前はもうご存知の、死んでから後つけられる諡(おくりな)と呼ばれる物。
厩(うまや)のそばで生まれた事から、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていたそうですが、【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)の記事でも書いたように、この伝説は明らかにイエス・キリストの伝説を引用して聖徳太子を神格化させるためのエピソード。
・・・て事になると、その厩戸皇子と呼ばれていた事すら怪しくなってきます。
しかも、この聖徳太子という諡にも秘密が・・・。
本家HPの【謎が謎呼ぶ聖徳太子】(HPへはコチラからどうぞ→)で散々書かせていただきましたので、ここでは軽く触れるだけにしておきますが、天皇家でこの『徳』という字が入った諡を持った方々の生涯を見る限り、聖徳太子も今思うような英雄的な一生を送ったとは考え難い事がわかります。
そして、最期は、愛しい彼女との心中で、聖徳太子は自らの命を絶ったとされていますが、自殺以外にも様々な死因が取りざたされておます・・・(くわしくは【2月22日:聖徳太子死因の謎】でどうぞ>>)
しかし、聖徳太子の謎は謎として、現実に法隆寺は存在し、たとえ聖徳太子がスーパーマンではなくても、それが魅力的な事には変りありません。
私が親とでもなく、遠足とかでもなく、初めて自分で切符を買って、自分で電車に乗って行った最初のお寺は法隆寺でした。
あれから、ずいぶんと道路が整備されて、最近訪れた時は、まわりの雰囲気は少し違っていましたが、西院と夢殿の間の道を歩き法輪寺と、その向こうに法起寺の三重塔が見えるあたりの景色は、太子の生きた古き斑鳩の里を感じさせてくれます。
上の写真の遠く法起寺の三重塔が見えるあたり・・・昔は菜の花畑だったような?・・・最初に行った時からずいぶん経ってるので、どこかの場所と記憶がゴッチャになってるかも知れません。
とりあえず、自分の中のいかるがの里のイメージで書いてみました。
本家HPの歴史散歩で法隆寺&斑鳩の里を紹介しています。
興味がおありでしたらコチラからどうぞ→
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コメント
茶々さん、こんばんは。
何年も前の日記に意見を言うのも何だかなと自分でも思ってしまいますが、
聖徳太子とイエス・キリストの共通点の内容で、
イエス・キリストが降誕したのは馬小屋ではなく家畜小屋だったような気がします。
中野京子さんの「怖い絵」シリーズをきっかけに西洋絵画に興味を持って、それで宗教絵画も見て少しずつキリスト教の内容を覚えたクチなのですが、
キリストの降誕が題材の絵画で描かれるのは羊や牛か驢馬で、馬の姿は見たことがないですね……。
それとも太子の時代にキリスト教が輸入されたときから家畜小屋→馬小屋と翻訳されたのでしょうか。うーん?
投稿: 禿げ鼠 | 2017年3月11日 (土) 01時06分
禿げ鼠さん、こんばんは~
どうなんでしょうね?
私の通ってた学校は、カトリックのミッションスクールだったんですが、その時に学校で教わったのは「厩(うまや)」でしたね。
ただ、もとの聖書ではギリシャ語で「καταλυμα」だったと思うのですが、これは、現在だと「宿泊施設」とか「客室」とかって訳すみたいですが、ご存じのように言葉は時代とともに変化していく物なので、当時もその意味だったかは微妙ですね。
ひょっとしたら、聖書に「生まれたばかりのキリストを飼い葉桶に寝かせた」との記述があるところから、日本語に訳す時に「厩」としたのかも知れませんね。
それと…
以前、カトリックでよくクリスマスに歌われる有名な「あめのみつかいの」という聖歌があるんですが、これが、プロテスタントだと「荒野の果てに」という題名で歌詞もぜんぜん違っていたのを大人になってから知って驚いた事があったので、宗派によって訳し方が違うという事もあるかも…です。
他にも、洞窟で生まれた説や豪華な部屋で生まれた説もあるみたいです。
聖徳太子の時代はどんな風に伝わってたんでしょうね?
ホント、う~ん?ですね。
投稿: 茶々 | 2017年3月11日 (土) 03時32分