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2007年1月 4日 (木)

源義朝の最期と常盤御前

 

永暦元年(平治二年・1160年)1月4日、平治の乱で敗れた源義朝が、逃亡先の尾張で、家来の長田忠致に殺害されました。

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源義朝(みなもとのよしとも)は、源氏が武家の名門となる基礎になったあの八幡太郎義家のひ孫・・・それとも、源頼朝・義経兄弟のお父さん、と言ったほうがピンとくるかも知れません。

義家以来、河内源氏として畿内に勢力を持っていた源氏でしたが、義朝は父・為義とあまりうまくいってなかったようで、少年時代に東国へ下ります。

しかし、そのおかげで義朝は東国に独自の勢力を伸ばす事ができ、三浦大庭といった関東の豪族を支配下に置く事に成功し、“源氏=関東”の基盤を作る事ができたのです。

やがて、天皇の後継者争いで勃発した保元の乱(7月11日参照>>)で、敵にまわった父・為義に勝利し、名実ともに源氏の棟梁となります。

しかし、次に起こった平治の(12月9日参照>>)では、保元の乱でともに戦った平清盛に敗れてしまいます。

雪の山中を敗走する中、次男・朝長美濃の国で落ち武者狩りに遭い死亡・・・他の息子たちともはぐれ、義朝は、ただ一人、尾張にたどり着き、家来の長田忠致の元に身を寄せます。

しかし、恩賞に目がくらんだ忠致の裏切りに遭い、平治の乱の敗走から1週間後の永暦元年(平治二年・1160年)1月4日、風呂に入っている最中に襲撃され無念の最期を遂げます(2012年1月4日参照>>)

「無念なり、われに木太刀なりともありせば・・・」と、叫んで息絶えたという義朝・・・やはり、無防備なお風呂での襲撃はキツイ・・・。

この父の死を知った長男・義平は、その仇を討つべく単身京へと戻りますが、密告によって捕まり六条河原で斬首されます(1月25日参照>>)

その後も、まだ逃げていた三男・頼朝も、捕縛され伊豆への流罪となり(2月9日参照>>)源氏一門はほぼ壊滅状態・・・平家は全盛期を向かえ事となるわけですが・・・。

しかし、義朝にはまだ他にも子供がいました。

そうです、宮廷内の美人コンテストで優勝に輝いた絶世の美女・常盤御前との間にできた三人の男の子、今若(7歳)乙若(5歳)そして生まれたばかりの牛若(後の義経)です。

Dscn4887tokiwa600 ただ、常盤御前については、伝説の域を出ないお話も多いのですが(1月17日参照>>)、それも含めてお話させていただきますと・・・

そもそもは、九条院(近衛天皇の奥さん・呈子)の召使いとして働いていましたが、源氏の棟梁の愛妾という大出世(当時は一夫多妻なのでおめかけさんでも大出世です)を考えただけでもその美貌ぶりが伺えるというものです。

義朝の死からまもなく、洛北にある義朝の別邸で暮らしていた常盤御前のもとに、義朝の死が伝えられました

身の危険を感じた彼女は、1月17日の明け方、三人の子供をつれて大和の国の宇陀に住む親しい友人を頼って都を落ちますが、平家の追捕を恐れたその友人には断られてしまいます。

しかたなく、大和の国の大東という所に身を隠していましたが、ほどなく京都に住む常盤の母・関屋自分の代わりに六波羅(平家の本拠地)へ連れて行かれた事を聞くのです。

常盤は悩みます。

「母は助けたいけれど、自分が六波羅に出頭すれば、三人の子供の命はない・・・」

しかし、やはり母を見捨てる事ができず常盤は子供を連れ六波羅に自首するのです。

最悪の事態を覚悟して自首した常盤御前でしたが、やはり、いつの世も美人はお得!

常盤を見るなり一目惚れした清盛は、すぐさま七条朱雀に屋敷を用意し、三人の子供の命も助けることを約束します。

常盤も子供じゃありません、その意味は言われなくてもよ~くわかります。

ひょっとしたら、もっとしたたかで「私に落ちない男はいない」との、計算ずくの行動だったのかも・・・。

逆に「三人の子供の命を助ける」という清盛の行動のほうが、彼のかわいらしさというかお人よしさを表している感じがしますね~。

清盛は飛ぶ鳥を落とす権力者、かたや常盤は敗者の妻。

三人の子供の命を奪っても、何とか彼女をモノにできたはずです。

でも、今、一番常盤が喜ぶ事=子供の命を助ける事で、明らかに彼女の気をひこうとしてますからね。

頼朝が捕まった時も母親の涙に負けて、殺さずに流罪になったわけですし、結局はこのやさしさが命取り。

頼朝には、この清盛の行動が反面教師となって、「敵を徹底的に始末する」という風になったんでしょうしね。

それは、さておき、三人の子供のうち今若と乙若は僧としてお寺に預けられ、幼かった牛若だけは4歳まで、常盤の手元で育てられます。

その後、牛若も、山科の知人に預けられ、7歳で鞍馬山に預けられて、ご存知のように16歳で藤原秀衡を頼って奥州へ・・・後の源義経となるのですが、ここから先は義経の物語となりますので、今日のお話はこのへんで・・・。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

来年の大河ドラマの「平清盛」の源頼朝役は、岡田将生くんに決まりました。
平成生まれでは初めてのナレーターです。
ちなみに北条政子役は杏さんです。
そうなると義経役は誰に?
清盛と義朝と常盤は三角関係ですね。

投稿: えびすこ | 2011年8月 9日 (火) 09時42分

えびすこさん、こんばんは~

ものすごく平均年齢の若い大河になりそうですね。

清盛の若い時中心に描くのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2011年8月 9日 (火) 23時31分

第1回は平家滅亡の一報を頼朝が聞く場面で始まります。清盛が太政大臣になる所で終わるのであれば、「めでたしめでたし」になるんですが、清盛死後の平家転落もやるので進行ペースは時期によって差が出そうです。
「主人公の親族」なら平均年齢が若いかな。ただ、今年と違い男性が少ない時期はなさそうです。

投稿: えびすこ | 2011年8月10日 (水) 16時44分

えびすこさん、こんばんは~

時代背景を無視した一昔前の使い古されたエピソーゾ満載の少女漫画のようにならなければ、ひとまず成功だと思います。

投稿: 茶々 | 2011年8月10日 (水) 18時52分

全くの素人ですので諸説ありと思いますが意見をば。

>雪の山中を敗走する中、次男・朝長は美濃の国で落ち武者狩りに遭い死亡・・・他の息子たちともはぐれ、義朝は、ただ一人、尾張にたどり着き、家来の長田忠致の元に身を寄せます。

とありますが、
当初、義朝、義平、朝長は一緒に行動しており、分かれる際、義平は飛騨へ、義朝は鎌倉へ、朝長は甲斐へということで別れて行動することにしたんだけれども、朝長の負傷がひどく、義朝が首をはねて出発したという説もあったと思います。

この説を信じれば、義朝は一人になったというよりは、別れて行動したということになりそうです。

素人で、昔の記憶ですけど、そんな説もあったような気がします。

投稿: たっこ | 2012年5月 2日 (水) 16時47分

たっこさん、こんばんは~

はい、おっしゃる通りの事を書いているつもりでしたが…

途中までともに雪の山中を敗走し、その後、尾張に行ったのは義朝1人というつもりで書きました。
「ともに」とか「途中で分かれて」という一文を入れておいたほうがわかりやすかったですね。

申し訳ないです。

朝長に関しては、おっしゃる通りの「義朝が首をはねた説」と、ここに書いた「落武者狩りに遭った説」の他に「1人で自害説」もあります。

投稿: 茶々 | 2012年5月 2日 (水) 18時33分

コメントさせていただきます。
源頼朝と源義経の運命は、母親の由良御前と常盤御前の運命によって既に既定路線だったのではないかと思います。源義朝の正妻は、熱田神宮の大宮司の娘で由良御前です。ですから、源頼朝は熱田神宮で里帰り出産したのです。由良御前は宮中で宮仕えしており、頼朝は三男ながら、宮中の蔵人に任命される。常盤御前はかなりの美人であったと思われますが、源氏の棟梁は誰かは、母方の身分によって決定されたと思います。すなわち、長男でも、次男でも、牛若丸でもなく、由良御前の息子の頼朝です。
さらに、平清盛に継母の池禅尼が、捕えられた13才の頼朝の助命をハンガーストライキまでして懇願したのは、由良御前の父の熱田神宮大宮司の藤原季範が、池禅尼の甥に当たるからではないでしょうか。
私も歴史が好きで、日本の武家社会を決定づけた源頼朝の運命を自分なりに、分析し研究しております。戦乱の歴史の中でも、やはり血筋というものが決定権を持ってくるということを実感します。日本の歴史を解く方程式が、歴史上の中心人物の血統に隠されていることに不思議な思いです。こちらのブログを最近、楽しみにして読まさせていただいておりますので、学校では教えない謎解きを、これからもよろしくお願いします。

投稿: ちあき | 2013年7月 7日 (日) 19時38分

ちあきさん、こんばんは~

そうですね。
後を継ぐ人物が母方の身分によって左右されるのは、遠く飛鳥時代から…
それによって、様々な人物の運命が交錯して展開されていく歴史の流れには、ホント、興味をそそられます。

投稿: 茶々 | 2013年7月 9日 (火) 00時22分

初めて知った常磐御前のエピソードが、永井路子先生の
「清盛との間には何もなかった(すでに頼朝を助命していたので、側室の子供達だけ助けないわけにはいかなかった。)。
しかし、彼女を囲む面々が、ビッグネームばかりだったため、大衆の妄想を煽ってしまった。また「美女が敵に捕まって、何にもないなんてあり得ない。」と当時の人々に考えられたため「悲劇の美女」に仕立てあげられてしまった。」
というものだったため、後々、歴史ドラマなどで、清盛との関係を取り沙汰されたときはショックでした。
しかも、いまだに尾を引いているので、最初に得た知識の根の深さは恐ろしいです。

投稿: ヤマアラシ | 2016年12月24日 (土) 17時45分

ヤマアラシさん、こんばんは~

常磐御前は伝説に彩られた女性ですからね~
清盛と関係があった話は軍記物にした出て来ませんが、ドラマ等ではそっちで描かれる事が多いですね。

なぜか検索でも上位に来ちゃう未だブログを始めて間もない頃のこのページですが、後に書いたもう一つの常磐御前のページ>>では、ちゃんと「軍記物だけ」と明記してますので、お許しを…m(_ _)m

投稿: 茶々 | 2016年12月25日 (日) 03時30分

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