犬公方・徳川綱吉の忌日
宝永六年(1709年)1月10日は、「犬公方」と呼ばれた徳川幕府・五代将軍・綱吉さんのご命日です。
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徳川綱吉と言えば、やはり貞享四年(1687年)に発令され、その「犬公方」の呼び名の要因ともなった『生類憐みの令』を思いだしますね。
「将軍・綱吉に男子が生まれないのは、前世で悪行を重ねたから・・・罪を償うためには、生き物を大事に・・・戌年生まれなのだから特に犬を大事にしなさい」との坊さんの言葉を信じて、天下の悪法と言われる『生類憐みの令』という徹底的な“動物保護法”を作ったと言われます。
ただし、本当は『生類憐みの令』という名前の法は無く、実際には、『犬猫憐みの令』とか、『牛馬憐みの令』とか、それぞれ個別に発令されていましたが、メッチャたくさんあってややこしいので、今日では全部ひっくるめて『生類憐みの令』と呼んでいるんです。
とにかく、「人より動物のほうが大事」という変な法律だけあって、その変なエピソードは数知れず・・・
ある日、綱吉が外出した時、空を飛んでいたカラスが綱吉の頭にフンをかけました。
さすがに怒った綱吉・・・「将軍にフンをかけるとは!」
将軍に無礼を働いたわけですから、本来なら『死罪』を免れないところなのですが、『生類憐みの令』により、そのカラスは罪一等を減じられ、なんと!島流しに・・・。
わざわざ役人が伊豆大島まで、連れて行ったというから大笑いですね。
それ以外にも、
スズメを吹き矢で撃った親子は打ち首獄門。
ぼうふらが死ぬから、どぶの水を道にまくのは禁止。
頬に止まった蚊を叩いた小姓が切腹・・・しかも、その家族も謹慎処分に・・・。
幕閣の人間を動物に例えて世相を風刺した小説を書いた園右衛門と、馬をネタにした落語を演じた武左衛門はともに、伊豆大島へ流罪・・・言うだけでもダメなのね。
そして、「戌年生まれなのだから、特に犬を大事に・・・」に、こだわった綱吉さん・・・元禄七年(1694年)11月13日には、『公儀御飼立』と称して、幕府直営のデッカイ犬小屋・御犬殿を建て、市中のノラ犬を集めて飼い始めます。
広大な土地に巨費を投じて建設されたこの御殿には、『犬小屋奉行』なるお役人が付き、毎日お犬様一匹に対して、米:三合、味噌五十匁(もんめ)、他干し魚などが与えられ、至れり尽くせりの大盤振る舞い。
しかも、それは『犬扶持』として、きっちり税に跳ね返ってきますから、元禄の高度成長期の真っ只中とは言え、さすがに庶民もバカバカしくてやってられません。
しかし、ものすごい教育ママに「勉強!勉強!」で育てられた、頭カッチカチの綱吉に、まわりの役人はお気に入りのイエスマンばかり、本人は大真面目に“良い事”と思ってこの法律を実行してるんだから、誰も注意する者もいません。
そこで、出ました!天下のご意見番・水戸光圀公(12月6日参照>>)・・・領内のノラ犬を一斉に駆除し、そのうちの20匹ほどを毛皮にして綱吉に届けます。
それには、「ワシも老いぼれてきて最近寒さがこたえる。この毛皮は寒さをしのぐにはもってこい。上様にも差し上げるので、是非お使い下さい」という、手紙が添えてあったとか・・・
綱吉はさすがに不快感を表し、これ以降、幕府と水戸藩の確執が深まったのは言うまでもありませんが・・・やってくれますね~黄門様。
・・・ですが、この天下の悪法『生類憐みの令』も、少しだけは良い事がありました。
それは、この元禄という高度成長期、人口増加とともに市中には生ゴミが増え、野犬の数がハンパではなく、子供が野犬にかまれて亡くなる・・・という事故が多発していたんです。
それが、犬公方様がそのへんでウロウロしているお犬様をお飼いあそばされたおかげで、そういう事故が激減しました。
さらに、この頃は旗本奴や町奴(幡随院長兵衛・参照>>)に代表される歌舞伎者・ならず者が異常に多かった時代でしたが、動物に対する一般庶民の態度を監視する役人の目がきびしくなったおかげで、そんな人たちのケンカ沙汰や狼藉も監視する事になり、町の治安が良くなったのも確かなのです。
果たして、その効果を綱吉さんが見抜いて『生類憐みの令』を出していたとしたら、たいしたものですが・・・
なので、最近ではその観点から、ひょっとしたら意外に名君だったのでは?という意見もチラホラ登場しています。
綱吉さん、汚名返上のチャンスかも・・・。
とにもかくにも、この『生類憐みの令』は、綱吉が亡くなる宝永六年(1709年)1月10日まで続き、法が解かれて牢から出された人が8千人以上いたと言います。
- 未だ専門家の間でも論争の「生類憐みの令が最初に発布されたのはいつか?」については1月28日【未だ謎多き~生類憐みの令】へ>>
- 綱吉の刺殺のウワサについては2009年1月10日【大奥開かずの間】へ>>
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コメント
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。8日に中国から帰ってまいりました。(^o^)
生類憐みの令は知っていましたが、細かい内容がおもしろかったり、信じられない内容だったりでサプライズでした。
カラスを島流しって…(^_^;)
投稿: 見習い大工 | 2007年1月10日 (水) 19時35分
見習い大工さん、お帰りなさい。
そして、あけましておめでとうございます。
中国への船旅・・・まさに、遣唐使のようでうらやましいです~。
ところで、役人の手を離れたカラスは、すぐに大空の彼方へ飛んでいったそうです。
ひょっとしたら役人より先に江戸に帰ってたりして・・・(笑)
今年もよろしくお願いします~。
投稿: 茶々 | 2007年1月10日 (水) 20時27分
茶々さん、こんばんは!
綱吉公ですか・・・
そうなんですよね~最近では「生類憐れみの令」について、違った視点での評価もされているそうですね。
ある番組で、歴史はひとつの視点からではとても評価も分析も出来ない~というようなことが言われていましたし、さまざまな観点からより精度のいい評価が出来るのでしょうね。
現在の政治の評価も後年されるのでしょうけれど、せめてリアルタイムで良い評価のされる政治を行ってほしいものです。
投稿: ルーシー | 2007年1月13日 (土) 00時18分
ルーシーさん、こんばんは~。
いつの時代もそうですね。
やってる本人は“良い事”だと思ってやっている場合が多いですからね。
何年もたってから評価が変わる事もありますし、新しい史料が見つかるたびに常識が覆される世界ですからね・・・歴史は・・・。
まぁ、そこが面白いんですが・・・。
投稿: 茶々 | 2007年1月13日 (土) 00時29分
徳川綱吉といえば、赤穂浪士の討ち入り事件当時の将軍として有名ですよね。何しろ、浅野内匠頭(長矩ともいう)が、理由不明の刃傷沙汰を起こしたことで、内匠頭だけを処罰したために、吉良邸討ち入り事件という最悪の結果を招きました。そのため、大石内蔵助(良雄ともいう)ら46名の浪士を切腹させたと同時に、吉良義周(吉良上野介義央の孫で養子)を取り潰した上に、流罪処分にすることで、終止符を打たなければならなくなりましたね。そうしたことや生類憐れみの令が、綱吉の評価を落としてしまったのだと思います。反対に、6代将軍の徳川家宣の場合は、生類憐れみの令の廃止や、内蔵助が、生前に強く願っていた浅野家再興を許した上で、内匠頭の弟の浅野大学(長広ともいう)を旗本にしたそうです。そう考えますと、綱吉と家宣が比較されてしまうのは、至極当然なような気がしました。
投稿: トト | 2015年12月13日 (日) 22時10分
トトさん、こんにちは~
生類には人間も含まれている事から、最近では綱吉さんの評価もあがってきているみたいですよ。
次の将軍と前将軍との関係は、江戸時代を通じて大体そんな感じでは無いでしょうか?
将軍とともに側近も変わり、政治を一新させるのが江戸時代の常のようですし…
投稿: 茶々 | 2015年12月14日 (月) 16時50分