中宮・定子と清少納言
正暦元年(990年)1月25日、藤原道隆の娘・定子が、第56代・一条天皇に入内しました。
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寝殿造りのお屋敷に住み、平安文化、華やかなりし頃、後宮の人の数は膨大なものになっていました。
後宮とは、天皇の大奥みたいな所。
それまでは、『後宮職員令(ごくうきいんりょう)』の定めに従って、天皇の奥さんとしては、“妃(ひ)”“夫人(ぶにん)”“嬪(ひん)”という位に別けられ、その人の出身の家柄などで奥さんとしての位があり、ある程度人数も決まっていました。
ところが、この頃から“女御(にょうご)”“更衣(こうい)”という定員なしのお后の座を設ける事にしたため、上級貴族たちは天皇家と親戚になろうと、こぞって自分の娘を入内(結婚)させ、あわよくば皇子の誕生を期待したのです。
それぞれのお后が入内する時には、“女房”と呼ばれる専属のお世話係が40人ほどずつ付いて来ますから、その人数がハンパなく多くなるわけです。
そんな感じで入内した定子は、14歳の少女。
お相手の一条天皇は3歳年下でした。
最初は“女御”として後宮に入りましたが、この年の秋には、皇后となって“中宮”・・・つまり正妻になりました。
定子の入内から四年程経った頃、彼女の家庭教師として派遣されてくるのが、『枕草子』で有名な清少納言です。
ある雪の降る日に定子が、「香炉峰(こうろほう・中国の山の名)の雪は、いかに?」と、並み居る女房たちに尋ねました。
言ってる意味がわからず、お互いの顔を見合わせる女房たち・・・。
すると、ススッ~と清少納言が立ち上がり、簾(すだれ)を巻き上げました。
「すばらしい!」と、定子は大喜び。
これは、中国の『白氏文集(はくしもんじゅう)』という書物の中に、「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」という一説があり、それを踏まえての行動。
清少納言のキラリと光る学識を語る有名なエピソードです。
清少納言というのは、もちろん本名ではなく、父の歌人・清原元輔の一字をとって、そう呼ばれていました。
一言で言うと「離婚暦のある宮廷才女」・・・と聞けば、今どきのキャリアウーマンっぽくってめちゃめちゃカッコいい感じがしますが、実は当時は、女性の宮仕えはあまり良く思われてはいませんでした。
この頃は、女性は男性に顔を見られてはいけない時代。
顔を見せるのは、家族と夫だけなのです。
しかし、宮廷に仕える・・・となると、当然、宮廷で働く数々の男性に、白昼堂々と顔を見られるわけですから、どちらかと言えば“はしたない職業”とされていたそうです。
しかし、この清少納言にしても、定子の後に入内する彰子に仕えた紫式部にしても、宮廷才女と呼ばれる人たちは、どちらかと言えば下級貴族の出身で、父親があっちこっち地方に転勤になったり、リストラで職を失ったりしています。
清少納言の場合、その上に離婚したひにゃ、「背に腹は変えられない・・・」と言ったところでしょうか。
ただ、そんな風に地方に行ったり、下級であるが故の自由な行動によって、彼女たちは女性でありながら学識を広める事ができ、そのおかげで、箱入り娘で世間知らずのお姫様の教育係に抜擢される事になるのも確かです。
ところで、こうして皇后にまでなった定子でしたが、長徳元年(995年)に関白だった父親の道隆が亡くなってしまいます。
その後、政権は定子の叔父・道兼に移りますが、この人が、またまた、あっと言う間に急死。
代わって弟の藤原道長が政権を握る事になります。
大きな後ろ盾を失ってしまった定子・・・。
しかも翌年には、兄が事件を起こし左遷されてしまい(2月8日参照>>)、あまりのショックに定子は出家してしまいます。
しかし、この時、定子は妊娠中・・・やがて生まれた女の子に一条天皇が「会いたい、会いたい」と言うので、定子はふたたび宮廷に戻りました。
でも、この時には父の後に政権を握った道長の娘・彰子がすでに天皇のもとに入内していたから話はややこしくなります(11月1日参照>>)。
そして長保元年(999年)定子は、よりを戻した天皇との間に男の子を出産します。
道長は、「定子が戻ってきちゃったし、男の子を産んじゃったよ~また正室に納まっちゃ大変だ!」とばかりに、あわてて天皇に願い出て、彰子を皇后=中宮にしてもらいます。
長保二年(1000年)2月25日・・・一人の天皇に二人の皇后という天皇家始まって以来の事態となりましたが、定子は“皇后宮”なる称号になり、あくまで二番手となってしまいます。
そして、結局、定子はその年の暮れ、女の子を出産した際に、24歳の若さで亡くなってしまいました。
清少納言は定子が亡くなった時、「宮廷にいてこのまま彰子の家庭教師にならないか?」と誘われますが、その話を断り、そのまま宮廷を去って行きます。
それで、彰子の家庭教師としてやってきたのが紫式部です。
よく、定子と彰子のライバル関係から、ともに二人の家庭教師だった清少納言と紫式部もライバル関係に思われますが、実は宮廷内では二人はニアミス・・・同じ職場で働いた事はないので、おそらく面識もなかったはずです。
直接会った事も無いのに、『紫式部日記』の中で、清少納言の事を「うすっぺらな漢字の知識をひけらかして、あんな高慢な女、きっと最後はろくな事にならないよ」と、書いちゃう紫式部って・・・どうなん?
・・・と、今日のところは、「昇り調子のライバル会社の誘いをカッコよく蹴ったバツイチキャリアウーマンに味方する」という感じに書いておきます(笑)。
そうやって無職になってしまった清少納言。
その後、ずっと経ってから清少納言の家の前を通った人が、ずいぶんと屋敷が荒れ放題になっているのを見て
「清少納言も落ちぶれたもんだ・・・」
と笑ったところ、中から鬼のような形相で出てきたオバサンが、
「駿馬(しゅんめ)の骨を買うヤツだっているんだよ!」
と吐き捨てるように言ったとか・・・。
これは、「良い馬を求めるあまり、死んだ馬の骨を買った」という中国の故事を引用して、「一流の家庭教師だった自分なら、まだまだ、求められるかもしれない」事をアピールしたのです。
年はとっても、まだ、その才女ぶりは衰えてはいなかったみたいですね。
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コメント
夜中にコメント恐縮です。
本日も大変勉強させていただきました。
私も生徒に説明する時、国語の資料集を見せながら「この2人はライバル関係だったんだよ」とか「当時の天皇は奥さんが複数いたんだな。いいよなぁ」とか「牛車ってのは今で言うタクシーみたいなもの。それで夜中にこそっと好きな人に会いにいくんだ。ドキドキしないか?」とか説明してますが、男の子と女の子で食いつき度が全く違う!(笑) 男女間の機敏などは和歌を解釈する上で一重要ですが、どうも男の子はピンとこないらしく、、、自分も当時そうでしたが。これが、話が変って徒然草の「これも仁和寺の法師」の頭にかなえをかぶる話をアクションつきで説明すると男の子も食いつきます。解説している私は汗かきますが(笑)
しかし、昔の宮廷の女性達も大変でしたね。政治や権力に人生が左右されてしまう、、、そのあたりは今も昔も変らないですね。ではでは。
投稿: さときち | 2007年1月25日 (木) 02時31分
さときちさん、コメントありがとうございます。
歴史好き・・・という人の数はだんぜん男の人のほうが多いですね。
歴史系のサイトを訪問してみても、ほとんど管理人さんは男の人ですね。
そして、「戦国時代と幕末が好き」というのが圧倒的な数を占めていますね。
やはり、男女で興味の対象は違うのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2007年1月25日 (木) 16時08分
茶々さん、こんばんは!
おっしゃるとおり(?)私も戦国~幕末が特に好きな男子(汗)です!
今回はイラストについてコメントさせていただきますね~。
平安の世の神秘的な月夜を綺麗に表現されていてさすが!です。
当時の暮らしや文化は興味深いのですが、ふと思うのが真冬の暖のとりかたです。一体どんな暖の方法が一般的だったのでしょうか?
考えると夜も眠れません(←ウソです)。
障子や襖だけ(雨戸も?)で外気から遮るには厳しいですし・・・当時の人は忍耐強かったのだとも思いますが・・ご存知でしたらぜひ教えて下さいませ~~(汗)。
投稿: ルーシー | 2007年1月25日 (木) 23時26分
ルーシーさん、こんばんは!
当時の寝殿造りには、襖も障子もありません。おもいっきり吹きさらしです(笑)
なんせ、壁という物もないですから・・・。
めっちゃ、寒かったでしょうね。
炭櫃(すびつ)と呼ばれるいろりのような固定式と、火桶(ひおけ)と呼ばれる火鉢のような移動式の暖房用品があったようです。
ちなみに寝殿造りにはトイレも無かったんですよ(くわしくは「平安貴族の住宅事情」のページを見ていたたくと、ありがたいです)
投稿: 茶々 | 2007年1月25日 (木) 23時57分
茶々様
こんにちは
おもいきり古い記事にコメントするのも何ですが
たった一人の悲しき中宮のために枕草子は書き始められた
綺麗な演出で無様に感動しましたわ。
あまり役者さんの事は知らないのですが、あの清少納言ははまり役だと思います。
投稿: 浅井お市 | 2024年6月 1日 (土) 18時24分
浅井お市さん、こんばんは~
古い記事なのに読んでいただいてありがとうございますm(_ _)m
「枕草子」の爆誕、良かったですね~
「春はあけぼの」=四季をまひろさんの提案にするのは、ちょっとやり過ぎの気配もありましすが、もともと大河あるあるの主人公の特権ですし、
「高級な紙」の話や帝の「史記」の話、「中宮のために書いた」など、実際に言われているエピソードを織り交ぜて一つのストーリーにしていく手法は実に見事ですよね~
投稿: 茶々 | 2024年6月 2日 (日) 04時46分