義仲追討へ義経が動く
寿永三年(1184年)1月16日、近江に待機する源義経のもとへ、東国から大軍が派遣されてきました。
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後白河法皇との対立がいよいよピークに達した木曽義仲は、法皇の住まいである法住寺殿を攻撃(11月18日参照>>)し、法皇を幽閉・・・半強制的に征夷大将軍になってしまいました。(1月11日参照>>)
すでに、鎌倉の源頼朝とコンタクトをとっていた後白河法皇は、即座に『義仲追討の院宣』を下・・・「待ってました!」と頼朝は、即座に軍儀を開きます。
義仲を討つには、何よりも俊敏さか重要・・・と、すぐに大軍の派遣を決定します。
・・・というより、はなから準備を整えていたでしょう。
なんせ六万の大軍ですから・・・とても一週間やそこらで準備ができものではありませんからねぇ。
そして、寿永三年(1184年)1月16日、頼朝の弟・範頼率いる六万の大軍は、近江で待機するもう一人の弟・源義経のもとへ到着するのです。
考えて見れば、ここで初めて義経が歴史の表舞台に登場する事になります。
鞍馬での少年時代にしても、奥州での生活や、黄瀬川での頼朝の対面(10月21日参照>>)も、逸話に分類すべきお話で、おおむね事実ではあるでしょうが、正史かどうかは決めかねる物です。
あくまで実在の歴史人物としての義経は、この時から・・・と言えるでしょうね。
しかし、おそらく事実であろう少年時代を過ごした京都の町・・・この時の作戦会議では義経が大いに腕を奮います。
敵は、瀬田と宇治の二つの橋を落として防戦し、瀬田橋と宇治橋に陣を構えるであろうと読んだ義経。
こちらは、その対岸に陣を敷き、馬で川を渡り、一挙に敵陣を襲撃する作戦に出ます。
範頼の軍と二手に分かれた後、義経が率いる軍は、1月20日の朝に宇治川のほとりに到着します。
予想通り、義仲は宇治の大橋の橋板を引き剥がし、川に杭を打ち付けて網を張り巡らし、敵に川を渡らせない作戦です。
思えば、この宇治橋は、義仲・義経たち源氏にとっては因縁の場所・・・
4年前、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)と、平家全盛時代に唯一生き残った源頼政が、いち早く平家に反旗をひるがえした(5月26日参照>>)あの宇治橋です。
その時に剥がされた橋板は、一旦修理されていましたが、この日再び義仲によって剥がされていたのです。
水かさが増し波が立っていて、滝のように流れが早いこの日の宇治川を前にして、義経は少しばかり躊躇(ちゅうちょ)します。
淀へ行くべきか・・・河内へう回するか・・・それとも水かさが減るのを待つか・・・。
悩む義経の前に一人の若武者が名乗りをあげます。
21歳になったばかりの畠山重忠でした。
「ここは、琵琶湖下流。
いつまで待っても水がひく事は無いでしょう。
先の宇治橋の合戦の時には足利又太郎忠綱がこの川を渡っております。
彼も人の子、鬼神ではありません。
まずは、この重忠が先陣をつかまつる」
そう言って500騎余りの自分の軍を川べりのスタート位置に整列させ始めた頃です・・・ザブーン!と音がしたかと思うと、二人の武者が馬で急流を渡り始めました。
一人は梶原景季(かげすえ)、そしてもう一人は佐々木高綱でした。
策略家の頼朝に、たくみに競争心をあおられた若きライバルたちの宇治川の先陣争い。
この先、平家物語でも屈指の名場面が展開される事になるのですが、そのお話は明日のページでどうぞ>>。
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