信長、義昭に掟書を示す
元亀元年(1570年)1月23日、織田信長が第十五代将軍・足利義昭に五ヵ条の掟書を突きつけました。
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永禄十一年の9月に、足利義昭を奉じて上洛をはたした織田信長(9月7日参照>>)
しばらくの間は二人の関係は良好でした。
義昭は大喜びで、年下の信長の事を「御父殿」と呼び、信長が一度尾張(愛知県西部)へ帰る時などは、わざわざ京の東のはずれまで見送りに出向いたくらいです。
しかし、信長は当然の事ながら、義昭を奉じたのは、上洛の大義名分が欲しかっただけで、最初っから自分自身が天下を掌握したいと思っているのですから、将軍とは名ばかりで、義昭のの事も、いずれは自分のあやつり人形のようにしたいと考えていたはずです。
『副将軍』や『管領』の誘いも断り(3月2日参照>>)、堺・大津・草津の支配のみを願い出た信長を、義昭は「欲がないなぁ」などと、高笑いしていましたが、信長の狙いは、そこに集まるモノとカネ・・・もはや、危うい足利将軍の傘下になる気などありません。
「王(天皇)というモノは、どんモノか?厨子などに入れて持ち歩くモノなのか?」
若い頃、家臣に大マジメに聞いたという信長・・・さすがに、この頃には天皇が何であるかはご存知だったでしょうが、「誰の下にもいたくない、自分が頂点に立つ・・・」という性格は変わっていなかったんでしょうね。
そして、信長は徐々に、その態度をあらわにします。
前年の正月に『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』を義昭に突きつけた信長。
そして、今度は元亀元年(1570年)の1月23日に『信長朱印条書』を突きつけたのです。
特に義昭が怒り心頭だったのは、
第一条の「将軍が諸国へ書状を出す時には、信長の添状(許可書)を付けなければならない事」というのと、
第四条の「天下の事は信長に任したのだから、義昭の意見は無用である」という内容のところです。
これは、毛利や武田・上杉などに、せっせと手紙を書いて接近しようとしていた義昭へのけん制であり、事実上の最高権力者が自分である事を宣言したに等しい物でした。
この事で、信長と義昭の対立は決定的になり、義昭は逆に諸国の大名や石山本願寺と結託して(9月12日参照>>)、反信長の体制をとり、信長のまわりは敵ばかり状態になってしまいました。
まぁ・・・信長さんは、まわりが敵ばかりでも、何とも思ってなかったかも知れませんが・・・。
事実、この年の6月には姉川の合戦(ブログ:6月28日参照)によって、信長包囲網の一角である浅井・朝倉の両氏を撃破し、やがては滅亡に追いやってしまうわけですから・・・。
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コメント
はじめまして。
ふらりと立ち寄ったさときちと申します。
大変興味のある文章に思わず熟読してしましした。
歴史好きが伝わってきますね。
とても1時間ほどでは読みきれないのでまたお邪魔しますね。ではでは。
投稿: さときち | 2007年1月23日 (火) 12時07分
さときちさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
はい・・・歴史大好きです。
物心ついた時にはすでに好きでした。
独断と偏見に満ちた文章ですが、また、訪問して下さい。
投稿: 茶々 | 2007年1月23日 (火) 15時55分