太安万侶が古事記を作る
和銅五年(712年)1月28日、太安万侶が、『古事記』を編さんし、元明天皇に献上しました。
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『古事記』の序文にはこう書かれています。
「臣安萬侶言・・・多加虚僞 當今之時 不改其失・・・時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明・・・和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等 太朝臣安萬侶謹上」
本当はもっと長い文章で、当たり前ですが、漢字ばっかりなので、見てもチンプンカンプンです。
これは、平成の今だからではなく、平安時代にすでに、『古事記』『日本書紀』の「読み解き勉強会」が何度となく行われていますので、当時の人にとっても難しい物だった・・・という事でご安心を・・・。
とにかく序文には、
『天武天皇が、「昔から伝わる天皇家の歴史が、本当の事とウソの事が入り混じってゴチャゴチャになっていて、ここらでちゃんとしとかないと、これから先もっとゴチャゴチャになりそうだから、すべてを調べなおして作り話を排除してまとめてよ」と、おっしゃったので、天才的な記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)(2010年1月28日参照>>)という人物に、すべての古文書を読み、すべての伝説を聞いて記憶させた物を、天武天皇の世には間に合いませんでしたが、天皇の忠実な臣下である安万呂が三巻にまとめあげ、ここに奏上します』
的な事が、日付とともに書かれてあります。
しかし、太安万侶(おおのやすまろ)という人物に関しての事は、その名前しかわからず、長い間謎の人物とされてきました・・・いや、むしろ、架空の人物なのではないか?とさえ言われていました。
ところが、昭和54年、奈良で農業を営んでいた竹西さんという方が、茶畑に開いた穴の中から骨のかけらとともに木片を発見したのです。
その木片には銅版がくっついていて、その銅版には、『左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳』・・・つまり「太安万侶、癸亥(みずのとい)の年の7月6日死亡」と書かれてあり、その穴は太安万侶のお墓で、その木片は墓標だったのです。
これで、太安万侶が実在の人物であった事が証明された事になりますが、それと同時に、この墓標は新たな謎を生む事になります。
それはお墓の場合、普通はその人の生前の功績なんかも一緒に書くものなのですが、その記載がまったく見当たらないのです。
『古事記』の編さん・・・という大事業に携わったなら、それを墓標に書かないというのは考え難い、と言うのです。
もともと、当時の事が網羅されているはずの『続日本紀(しょくにほんぎ)』の和銅五年の所に『古事記』の「古」の字も出てこない事や、『日本書紀』の編者が『古事記』を見た形跡が感じ取れない事、原本が現存せず14世紀以降の写本しか残っていない事、など等で『古事記』を疑問視する考えが昔からあったのです。
しかし、これだけはっきり、日付と名前が書かれている以上、今のところ「和銅五年1月28日、太安万侶が『古事記』を編さんし、献上した」というのが、歴史の定説とされています。
とにもかくにも、天皇家の歴史・・・というよりは、当時の権力者・藤原氏のための歴史という感が強い『古事記』ですが、権力うんぬん、成り立ちうんぬんを抜きにして、遥か昔の物語・・・として読むには、『古事記』は実に面白いです。
時には神々しいばかりの力を発揮する神様たちが、時には妙に人間味あふれる行動をする・・・美人にフラれて怒ってみたり、奥さんのヤキモチで愛人との関係がヤバくなったり、ヤマトタケルノミコトが「戦いばっかで、疲れるよ~」と嘆いてみたり・・・。
たまには、神話の世界にハマッてみるのも楽しいです~。
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太安万侶さんのご命日=7月6日に書かせていただいた妄想満載の古事記解釈【古事記をSFとして読めば・・・】もお楽しみくださいませ>>
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