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2007年2月 5日 (月)

長崎二十六聖人殉教の日

 

1597年2月5日、長崎・西坂の丘で26人のキリスト教徒が処刑されたにより、今日2月5日“長崎二十六聖人殉教の日”とされています。

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ブログの右サイドバーに書いてます通り、普段このブログでは、日付は、あくまで今日のブログに何を書くか?というテーマの突破口として、一般的に教科書等で使用されている、旧暦の日づけを表記し、そこに参考として西暦を()で表記するという形とらせていただいておりますが、今日の場合は西暦の日づけで書かせていただきます。

・・・というのも、この日処刑された26人の殉教者の話は、宣教師たちによってヨーロッパに伝えられ、1862年にローマ教皇によって、正式に聖人の列に加えられる事になるのですが、その時に現在の暦・グレオリオ暦になおして1597年2月5日が殉教の日とされますので、そのようにさせていただきました。

しかし、当時の日本の暦ですと、この日は慶長元年12月19日となり、年の暮れという事に・・・この処刑の日が、日本では、年の暮れだったという事は、気にとめておいたほうがよいかも知れません。

本日は、西暦の日づけで書かせてはいただきましたが、実は、この慶長元年の様々な出来事が、彼らに処刑の命令を下す豊臣秀吉心境に深くかかわっていて、最終的に年の暮れに・・・という事だと思うのです。

この年の6月、空には彗星が現れ、人々は不吉な事が起こる前兆ではないかと大騒ぎになりました。

すると翌7月、その通りに浅間山の大噴火が起きました。

その灰は風に乗って、滋賀や京都、もちろん秀吉のいた伏見にも降り注ぎました。

しかも、この時の灰に混じって、血の色をした物や、白い髪の毛のような物も降ったと言われ、巷は恐怖に包まれます。

しかし、天変地異はまだ続きます。

翌月・(うるう)7月(旧暦ではこの年は7月が2回ありましたには、近畿地方を大きな地震が襲います。

この時の余震は2週間以上にわたって続き、多くの建物が崩壊し、死傷者がたくさん出ました。

そして8月には、大きな台風の上陸です。

何とか地震に耐えた建物もこの台風で倒壊し、田畑は洪水となり、大変な被害をもたらします。

秀吉も、慌てて傷みの激しい大坂城の修復に乗り出します・・・実は、もうすぐ明と朝鮮の使節団が来る事になっていたのです。

文禄元年(1592年)に秀吉の朝鮮出兵によって始まった文禄の役(4月13日参照>>)・・・それが、ようやく終ったこの年にやって来た使節団

秀吉は、仲直りをするつもりでいたのでしょうか?

しかし、その会談はうまくいかなかったようで、秀吉は9月には、2度目の朝鮮出兵を命令しています。

彼らの事が秀吉の耳に入って来たのは、そんな時だったのです。

先の台風のあった8月26日、土佐沖に漂着したイスパニア(スペイン)船のサン・フェリペ号・・・乗客と乗組員は、土佐藩主・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の保護を受けていました。

この時、すでに秀吉によって“キリスト教の布教活動の禁止”が成されていました(12月23日参照>>)が、同時に難破船は保護するという約束もありました。

フランシスコ会士と乗組員の代表者・数名は、船を修理する許可と危害から身を守る保証書の公布を期待して秀吉に会いに行くのです。

しかし、秀吉は彼らとの会見を拒否。
即座に、増田(ました)長盛を土佐に派遣し、フェリペ号の積荷を没収します。

イスパニア人が海賊であり、キリスト教布教の後、占領する計画で、船は占領のための測量目的であった・・・という理由がつけられました。

この、一連の流れには、ポルトガル人の入れ知恵説元親・長盛の陰謀説通訳間違い説・・・など、様々な要因が推理されるわけですが、この年に起こった不吉な出来事への恐怖心も少なからずあったのでは?と思うのです。

天下人の秀吉が?・・・と、思いますが、先日【藤原頼通さんのご命日】2月2日参照>>)にも書いたように、お金と権力のある人ほど、お金と権力でどうにもならない事に恐怖心を抱くのではないでしょうか。

当時のフィリピンメキシコのように、日本の国がキリスト教一色になってしまう・・・という妄想と、数々の天変地異の恐怖があいまって、秀吉をより過激な行動へと走らせるきっかけになったという事も考えられます。

結局、彼らは大阪と京都で捕えられ、見せしめのため極寒の中を徒歩で長崎まで護送され、慶長元年12月19日(1597年2月5日)、フランシスコ会士と日本人信徒ら26名が処刑されたのです。

これ以来、キリスト教への弾圧は、厳しさを増す事となります。

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ただし、秀吉さんの名誉のために、一つ付け加えさせていただくと、日本が占領されるのではないか?という秀吉の妄想は、単なる妄想ではありません。

秀吉の“禁止令”発布の直後、日本イエズス会副管区長のガルパス・コエリヨは、キリシタン寄りの大名に対して秀吉に敵対するよう働きかけ、武器・弾薬の援助を約束し、フィリピンからスペイン兵を導入する事も視野に入れていました。

コエリヨの後を継いだヴァリアーノも、キリシタン大名に「長崎に武器・弾薬を集め、大砲を用意しろ」という命令書を出してます。

また、この事件の2年後の1599年には、スペイン人のイエズス会士ペドロ・デ・ラ・クルスが、イエズス会総長に「日本は海軍が弱く、兵器も不足しているので、もし国王陛下がお望みなら、我らが軍を出し、日本を奪う事も可能である」という意味の手紙も送っています。

そもそも1494年の時点に、スペインとポルトガルの両国の間で結ばれたトルデシリャス条約で地球を半分に分け、(地球の裏側の)ジパングはどっちの物になる?」なんて話があったわけですし(10月12日参照>>)・・・

彼らの“日本占領計画”なる物が本当にあったかどうか、確固たる証拠は今のところないわけですが、もしかして“禁止令”が出されなかったら、日本がスペインの植民地になっていた可能性も??・・・キリスト教への厳しい弾圧は、あながち、「秀吉さんの恐怖心から来る妄想」とは言い切れないという見方もあります。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

一番最年少は、(数え)12歳のルドビコ茨木で、最年長は(数え)64歳のディエゴ喜斎です。最初は24人でしたが、途中で2名の志願者が加わって、26人になりました。全員が右の耳を削ぎ落とされ(!)長崎へと向かいました。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 2日 (土) 18時18分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

キリスト教の禁令に関しては、イロイロと考えさせられる部分があります。
世界情勢を見れば、日本が植民地になっていた可能性もゼロではありませんから…

もちろん、だからと言って禁止からの迫害を肯定するわけではありませんが…

投稿: 茶々 | 2015年5月 3日 (日) 00時40分

コメントありがとうございます。茶々さん。実は、私は26人聖人と同じカトリック信者なんです。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 3日 (日) 17時23分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

>実は、私は…

そうでしたか…
私は、信者ではありませんが、幼稚園からずっとカトリック系の学校でした。

本願寺や延暦寺もそうですが、戦国時代と現在とでは、(特に日本は)ずいぶんと立ち位置が違う気がしますね。

投稿: 茶々 | 2015年5月 4日 (月) 02時30分

茶々さん、おはようございます。
私は複雑なのです。秀吉の気持ちは強くわかるし、我が家の親せきは仏教関係が多いです。私は天正少年使節のところでも書きましたがクリスチャンです。まあプロテスタントなのでカトリックの言う話には多少疑問を持っていますが、でもクリスチャンからしますと悲しいのです。千々石ミゲルも一緒だったと思いますよ。何とも言えない気持ちでいっぱいです。こういう悲劇はもう二度と見たくないという気持ちです。と言ってキリスト教内部での階級を見ていますと秀吉の気持ちは理解できるのです。国を取るか宗教を取るかという複雑な思いだったのでしょう。

投稿: non | 2018年1月14日 (日) 10時53分

nonさん、こんばんは~

宗教の話は難しいです。
今現在でも戦争になるくらいですから…

投稿: 茶々 | 2018年1月15日 (月) 01時21分

茶々さん、おはようございます。
カトリックでなくてもプロテスタントもこのことで秀吉を非難しています。日本のネロみたいにです。
ただ高山右近みたいな武士もいますので秀吉からすると一向一揆よりも怖い感じがします。
実際に中浦ジュリアンの殉教後ジュリアンの布教した地では島原の乱がおこりました。スペインが来たら本当に日本は占領されたでしょう。現実と思えます。
でもクリスチャンである私からしたら今でも日本の立場かクリスチャンの立場か悩んでいますが、その頃の人はそれ以上だったと思います。

投稿: non | 2018年1月15日 (月) 08時41分

nonさん、こんばんは~

八百万の神がいる日本と、唯一の神だけがいる宗教とでは、どうしても相容れない物があります。

私は、「隣の神さんでも拝んどったらえぇようにしてくれはるやろ」というタイプです。

投稿: 茶々 | 2018年1月16日 (火) 02時44分

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