建国記念の日と神武天皇~大日本帝国憲法発布で万歳三唱の日
今日は2月11日、『建国記念の日』です。
戦前は『紀元節』と呼ばれ、四方拝、天長節、明治節とともに四大節として祝われました。
・・・・・・・・・・・・
ご存知、この2月11日という日付は『日本書紀』にある初代・神武天皇が即位した日を、そのまま新暦のグレゴリオ暦に換算した日付で、これが決定された明治五年には、この即位の年を元年とする“皇紀○年”という年号の表記もありましたが、現在はほとんど使われていません。
戦後、様々な論議を呼び、一旦廃止されましたが、昭和四十一年(1966年)に、国民の祝日として復活しました。
建国記念日ではなく、建国記念“の”日とされるのは、この日を「建国された日」として祝うのではなく、「建国された事を記念する日」として祝う、という考えに基づいての事だからです。
神武天皇とは、アマテラスオオミカミの孫で、高天原から天降った“天孫降臨”で知られるニニギノミコトから続いて、ホヲリノミコト(山幸彦)→ウガヤフキアエズノミコト→神武と続く、アマテラスから五代目の子孫となるカムヤマトイワレヒコノミコトの事。
そのイワレヒコが45歳の時、九州の地を離れ、「もっと政治をしやすい土地はないか?」と、兄と一族を連れて東へ進軍する・・・これが“神武東征”と呼ばれるお話です。
日向・高千穂宮(たかちほのみや)を出発した御一行は、船団を組んで速水の門(はやすいのと・豊後水道)から、筑紫、宇佐へやってきます。
ここで、約一年過ごした後、安芸(広島)の多祁理宮(たけりのみや)に七年、吉備(岡山)の高嶋宮に八年と各地を転々とし、やがて浪速(なにわ)に上陸します。
そして、青雲の白肩津(大阪内)という場所で、このあたり一帯を統治していたトミノナガスネヒコとの戦闘に・・・この戦いで、兄のイツセノミコトが戦死するなど、大きな痛手を被って、一旦、船で敗走します。
「日の御子である自分が、日に向かって戦った事が敗因、次からは日を背にして戦う事にしよう」と、う回して、今度は和歌山・熊野から上陸。
ここでは、大熊の毒にやられて全員が失神して倒れてしまいますが、「夢のお告げで助けに来ました~」と言う高倉下(たかくらじ)という男の持ってきたフツノミタマという刀のおかげで、皆が正気に戻って、めでたく復活。
その後、アマテラスオオミカミからつかわされた八咫烏(ヤタガラス・けまりの守り神から今ではサッカーの守り神?)の道案内で、吉野を抜け、土地の神様を味方にしながら、いよいよ宇陀(奈良県宇陀郡)に到達します。
宇陀はエウカシ・オトウカシという兄弟が治めていましたが、弟・オトウカシが、イワレヒコチームに寝返り、兄の手の内を暴露してくれたおかげで、兄・エウカシを成敗します。
そして、今度は奈良側から先のナガスネヒコと対決!
日本書紀では、金色に輝く鵄(とび)が飛来して、イワレヒコの弓にとまり、その光に目がくらんだナガスネヒコは、戦わずして敗れ去ったとなっています。
(だったら、最初の戦いの時に飛来しろよ!って気もしないではないですが・・・)
やがて、エシキ・オトシキという兄弟を撃破した頃、河内一帯を治めていたニギハヤヒノミコトが登場。
彼は、ニニギノミコトとは別ルートで降臨し、ナガスネヒコの妹と結婚していたにもかかわらず、なぜかあっさりと宝物を献上して、イワレヒコ傘下に納まり、無事東征は終了。
奈良の畝傍山に白檮原宮(かしはらのみや)を建て、イスケヨリヒメと結婚して即位しました。
初代天皇・神武天皇の誕生です。
これが皇紀元年1月1日、換算して紀元前660年2月11日・・・という事です。
また、今日は『万歳三唱の日』という記念日でもあります。
これは、明治二十二年(1889年)の2月11日、もちろん、この日は紀元節の日でもあったわけですが、明治政府が『大日本帝国憲法』を発布した日でもあります。
(大日本帝国憲法・発布については2012年2月11日のページで>>)
その日、憲法発布の記念式典に出席する明治天皇を、東京第一高等中学校の生徒一同が宮城(皇居)の前で、お出迎えしようと考えていました。
こういう時、外国では元首に叫ぶ歓呼の言葉がありましたが、当時の日本にはまだありませんでしたので、大学の先生たちが集まって話し合った結果、「万歳、万歳、万々歳!」と叫ぼうという事になりました。
そして、当日・・・明治天皇が近づいて来られたろの時、生徒たちは、はりきって「万歳!」と第一声を高らかに叫んだところ、その声に驚いた馬が棒立ちとなってしまい、自然と第二声めの「万歳」はメッチャ小さい声に・・・そして、三声めの「万々歳」は叫ばれる事なく終ってしまったのです。
・・・で、それ以来、万歳を叫ぶ時は、「万歳」だけが3回繰り返される『万歳三唱』となったという事です。
事前に、馬の前で、一度「万歳三唱」の練習をしとけば、今も「万歳、万歳、万々歳!」という「万歳三唱」になってたかも知れませんね。
.
「 記念日・○○の日・歴史」カテゴリの記事
- 何だか気になる「三大〇〇」~日本三景の日にちなんで(2021.07.21)
- 色の日にちなんで~色の名称の成り立ち…基本は「黒白赤青」(2021.01.06)
- 2月14日は「ふんどしの日」(2013.02.14)
- マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日にちなんで(2012.09.16)
- 江戸時代の帯結び…「呉服の日」に因んで(2012.05.29)
「 由来・起源・雑学・豆知識・歴史」カテゴリの記事
- 色の日にちなんで~色の名称の成り立ち…基本は「黒白赤青」(2021.01.06)
- 恵方巻の風習と節分お化けの記憶(2020.02.03)
- 七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨(2019.07.07)
- 「る」で始まる日本史の歴史人物~マジで0人説!を検証(2019.02.03)
- 横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』(2015.12.23)
コメント
ご挨拶が遅れてしまい、大変失礼致しました。
トラックバックさせていただきました。
また、当方のブログへのトラックバック、有り難うございました。更に、コメントまで残していただき、恐縮です。
ひょっこりブログを更新するぐらいになっておりますが、もしよろしければ季節の変わり目ぐらいにお立寄ください。
最初のコメントなのですが。。。
つっこみ入れていいですか?
あの。。。
たしかエシキは神武天皇に従順し、オトシキのみが討たれたかと。。。
ついでに、エシキ・オトシキの件の後に、ナガスネ彦が登場するようなのですが。。
ちなみにナガスネ彦の件は複雑です。
ナガスネ彦は神武天皇と同様に天つ神の子であるニギハヤヒ命に従っていた。
金色に輝く鵄によって合戦を退却した後、ニギハヤヒ命が天孫である印を携えて使者を送り、「天つ神の子は二人もいるのか」と神武天皇に質したと。まあ、現代風に言うと「偽物じゃない?」と。神武天皇も天孫の印を渡したところ、ナガスネ彦は仰天して、ニギハヤヒ命の元に帰った。
ニギハヤヒ命は、天つ神は神武天皇を深く心配していることを知っていたが、ナガスネ彦は融通が利かないことをしており、ニギハヤヒ命自らがナガスネ彦を手打ちにし、神武天皇に忠誠を誓った。
というながーい話です。
(私としては、「強情を張らずに柔軟に考えんといかんよ。世渡り上手になれ」という教訓を得ました。)
東征は、九州はようやく正しい政が為されるようになったが、依然として東の国では争いごとが絶えない。その上でindoor-mamaさんのブログの話となって、始まったという事であって、九州を放棄した訳ではないですよね。
以上、講談社学術文庫版の日本書紀にはそう書かれています。「大和朝廷の起源―邪馬台国の東遷と神武東征伝承 推理・邪馬台国と日本神話の謎」ではindoor-mamaのブログのように書いてあるのですか?興味あるところです。
最初の書き込みで、こんな突っ込み入れてしまいました。勘弁して下さいね。当方のブログは更に突っ込みどころ満載です。よろしければどうぞ。
ところで、万歳の件は知りませんでした。勉強になりました。
では、また。
投稿: へのへの419 | 2007年2月22日 (木) 12時04分
へのへの419さんこんにちは~。
コメントありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます~。
ご指摘の部分は、古事記ではいたくあっさりと通りすぎてしまうんですよね。
古事記では、エシキ・オトシキに関しては「攻めた」としか書かれていませんし、神武天皇がナガスネヒコを倒した後で、ニギハヤヒが天つ神の末である証拠の宝物を持って登場するので、ナガスネヒコを殺した事にはなっていません。
上の記事は、古事記と日本書紀のほぼ同じ部分をチョイスしたつもりなのですが、少し古事記寄りなってしまったかもしれません。
ただ金のトビは古事記にはまったく出てきませんが、戦前の教科書にも載っていた重要な部分なのではないか?と思って書き添えてみたしだいです。
>九州を放棄した訳ではないですよね
おっしゃる通り、「この土地は端に位置しているので、もっと東の方で政治をしよう」という事で東征が始まる・・・と、私は解釈しておりますが・・・。
投稿: 茶々 | 2007年2月22日 (木) 15時12分
こんばんは。
レスありがとうございました。
早速、古事記をひっばりだして確認したところ、おっしゃる通りでした。意外でした。
古事記の方が物語性が高いので、てっきり色々と書いてあっても良いと思うのですが、そこが古事記と日本書紀のそれぞれが何を伝えるのかという視点の違いなのかとも感じております。
古事記は神代を中心に据え、日本書紀は歴代の天皇を中心に据えて編纂されているのかなと思います。
良い勉強になりました。
有り難うございます。
投稿: へのへの419 | 2007年2月23日 (金) 20時34分
へのへの419さん、コメントありがとうございます。
古事記は国民に国の成り立ちと天皇の正当性を・・・、日本書紀は海外に日本という国は歴史があり、万世一系の王のもと秩序が保たれたすばらしい国である事を・・・知らしめるために作られたと聞いています。
へのへの419さんのように、専門的な知識を持っていらっしゃるかたから見れば、本来別の目的で編さんされた物を、同じように並べてはいけなかったのかも知れませんが、このブログを立ち上げる時『歴史に興味のない人にもわかりやすく、そして「歴史ってこんなにおもしろかったんだ!」と思っていただきたい』という気持ちで始めたものですから、古事記だ日本書紀だというよりは「日本神話」という雰囲気で、ひとくくりで記事を書いてしまいました。
ややこしくして申しわけありませんでした。
投稿: 茶々 | 2007年2月23日 (金) 22時55分
神武東征・・
ここで、熊野と八咫烏が出てくるのですね。
繋がりがわかりました。
高千穂が今、噴火している新燃岳の辺りだとは、これまたびっくり。。
投稿: やませみ | 2011年2月20日 (日) 17時43分
やませみさん、こんばんは~
宮崎は口蹄疫に鳥インフルに噴火…と災難が続いていますね~
心配です。
投稿: 茶々 | 2011年2月21日 (月) 01時38分