智積院と長谷川等伯・障壁画
慶長十五年(1610年)2月24日は、稀代の絵師・長谷川等伯さんのご命日・・・
という事で、今回は、長谷川等伯・久蔵さん親子の描いた見事な障壁画のある京都・智積院(ちしゃくいん)をご紹介しながら、長谷川等伯さんを偲びたいと思います。
・‥…━━━☆
智積院は京都の七条通りをまっすぐ東へ、三十三間堂と京都国立博物館を過ぎ、ど~んと突き当たったところ、七条通りの東の最終地点にある真言宗・智山派の総本山・・・広い境内に美しい伽藍が点在します。
弘法大師・空海が開いた高野山の復興に力を注いだ興教大師・覚鑁(こうぎょうだいし・かくばん)が、高野山から根来(ねごろ)山に移り、戦国時代には学僧の数も増え、根来は最盛期を迎えていました。
しかし、その巨大な勢力は、時の権力者・豊臣秀吉と対立する事になり、秀吉の軍勢によって、智積院をはじめとする根来の堂塔は焼かれてしまい、ことごとく灰になりました。
現在、京都・東山のこの地にある智積院は、もともと秀吉が、早くにして亡くなった愛児・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺というお寺でしたが、豊臣が大坂の陣で滅び、徳川家康の時代となって、「先に秀吉によって滅ぼされた根来の復興に」と、家康によって寄進され、「五百仏頂山(いほぶつちょうざん)根来寺智積院」と改名し、復活したのです(3月21日参照>>)。
その後も、ここでは多くの僧が学び、江戸時代には、「ここを卒業しないと僧侶の資格がない」と言われるほどでしたが、何度かの火災に遭い金堂など一部の建物を焼失します。
しかし、信仰の心は絶える事なく、昭和五十年に新しい金堂が建てられ、現在に至っています。
一方の長谷川等伯さんですが・・・彼は石川県・七尾の出身で、墨絵を中心に仏画や肖像画を書いていましたが、一念発起して都に上り、狩野派に入門します。
しかし、作風が合わず対立・・・
そして、狩野派と決別した頃、ちょうど知り合った千利休のつてで、大徳寺所蔵の名画の数々に触れ、感銘を受けて、独自の画風を築きあげていく事になります。
現在、智積院に残る長谷川さん一族の手による障壁画は、「楓(かえで)図」「桜図」「松に秋草図」「松に黄蜀葵(おうしょっき・とろろあおい)図」「雪松図」「松に立葵図」など、四季折々の草花が描かれた見事な物。
先に書いた火災のために、これでも原形の4分の1以下だそうで、ホントに驚くばかりです。
障壁画の中でも、特に「楓図」と「桜図」は、日本を代表するものとして有名です。
写真↑は左手前が「楓図」、右奥が「桜図」ですが、これは書院にある現代の匠による復元品。
当然ですが、等伯直筆の物は収蔵庫に厳重に保管され、拝観はできますが写真撮影は禁止ですので、ブログではこの写真で雰囲気を味わっていただいて、是非とも間近で等伯の直筆を見に行ってみてください。
「桜図」は、等伯の息子・久蔵の25歳の時の作品。
大胆な構図で、春爛漫の美しさを見事に描き出しています。
しかし、久蔵さん自身は、その翌年、26歳の若さでこの世を去ってしまいます。
「楓図」は、その一年後に息子の死を乗り越え、55歳の等伯が懇親の思いを込めて描いた作品です。
こちらは、色鮮やかな紅葉が力強く描かれ、悲しみを克服した等伯の決意の程が伺われます。
慶長十五年(1610年)2月24日、72歳の生涯を閉じた等伯の追い求めた理想は、後世の作家に大きな影響を与える事になりました。
そして、智積院は長谷川一門の障壁画だけではなく、お庭の美しいお寺でもあります。
中国の盧山(ろざん)をかたどって造られた利休好みの庭は、先程の障壁画のある書院から見ても、その前の縁側から見ても美しく、特にサツキの頃には、艶やかなピンクが濃い緑にいっそう映えます。
建物の反対側に回れば石庭もありました。
修行僧の方々が、丁寧にお庭のお手入れをしていらっしゃるのがとても印象的でした。
智積院のくわしい場所や地図は本家HP「京都歴史散歩」でどうぞ→
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コメント
「黄蜀葵」の読み方が解らなかったので調べたところ、「おうしょっき」または「とろろあおい」と読むのですね。
等伯さんのような名匠の描いた肖像画は後世の人間に、描かれた人物のひととなりを見事に想像させてくれます。風景画ももちろんスゴイんですが。
遅れましたがブログ10周年の快挙!ひたすら尊敬申し上げます。
投稿: とらぬ狸 | 2016年3月 1日 (火) 16時28分
とらぬ狸さん、ありがとうございますm(_ _)m
>「おうしょっき」または「とろろあおい」…
おぉ、そうでしたか!
本文に振り仮名をふってない所を見れば、私も読めなかったのねんwwと反省しつつ、あらためて、振り仮名を追加させていただいときました~
感謝です。
投稿: 茶々 | 2016年3月 1日 (火) 17時09分