今日は新撰組の日
文久三年(1863年)2月27日は、新撰組の前身である「浪士組」が結成されたという事で、「新撰組の日」という記念日なのだそうです。
ちなみに、「新撰組」と「新選組」。
局長の近藤勇自身が、どちらの字も使っていたので、「撰」でも「選」でもどちらでも間違いではないのだそうです。
屯所の看板には「新選組」と書かれていたので、そちらが優先・・・というお考えもありましょうが、ウチのPCでは、キーボードに【しんせんぐみ】と打ち込むと【新撰組】と変換され「選」の字だと、いちいち変換しなおさなきゃならないので、どっちでも良いなら、今日のところは「新撰組」と表記させていただきます。
・・・・・・・・・・
新撰組はもともと、将軍・徳川家茂が上洛するにあたって、その警備を担当する者を広く募集した事にはじまります。
全部で200人くらいの浪士たちが集まり、将軍にさきがけ京に上ります。
しかし、京に到着後、この組織の言いだしっぺだった庄内藩の清河八郎が勤皇派と通じ、この浪士組を天皇配下の兵にしようとしている事が発覚(2月23日参照>>)。
将軍のための組織だと思って集まった浪士たちは、組織が空中分解の形になってしまい、一旦、浪士組は江戸に帰る事となりました。
しかし、その中にいた幾人かが、あくまで「将軍の警護という最初の目的を貫きたい」として、京に残る事を主張します。
その「残る派」の中にいたのが、天然理心流・試衛館という道場を開いていた近藤勇とその門下生たち・・・
そして、芹沢鴨を中心とする水戸出身の者たちでした。
50人余りの集団となって、京都・壬生村の八木邸や前川邸を屯所とした彼らは「壬生浪士組」と名乗り、文久三年八月の政変(8月18日参照>>)で長州藩を退去させた京都守護職・松平容保(かたもり)から、尊皇派の不逞行為の取り締まりを任される事になります。
この頃、集団の名前が「新撰組」という名前になります。
やがて、局長・芹沢鴨と対立した近藤勇は、彼の暗殺を実行し、新撰組トップの座につきます(9月18日参照>>)。
そして、いよいよ彼らが脚光を浴びる時がやってきます。
元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋騒動」(6月5日参照>>)です。
挽回を企んでいた尊皇攘夷派の志士たちが密会をしていた池田屋に斬り込み、彼らの再起を防いだのです。
この事で、一気に新撰組は有名になり、隊士の人数も130~40人にの膨れ上がります。
その後、蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)にも活躍し、彼らは大いに名を上げます。
しかし徐々に時代は維新へと流れていきます。
「大政奉還」(10月14日参照>>)
「王政復古の大号令」(12月9日参照>>)、
そして「鳥羽伏見の戦い」(1月3日参照>>)。
この鳥羽伏見の戦いで大打撃を受けた幕府・・・当然、行動をともにしていた新撰組も大打撃を受けます。
戦いで亡くなる者・・・隊を離れる者・・・新撰組は少しずつ縮小されていきます。
敗北した幕府軍の榎本武揚の軍船で、新撰組も江戸に向かい、その後、新政府軍の甲府への進軍をくいとめるため、新撰組は「甲陽鎮撫隊」と名前を改めて戦いますが、敗退(3月6日参照>>)。
やがて、近藤勇は下総流山で捕えられ、新政府軍によって板橋の刑場で斬首(4月25日参照>>)。
試衛館時代から近藤と行動をともにしていた沖田総司も病死(5月30日参照>>)し、それでも新撰組は会津で奮戦しますが、ご存知のようにこの会津も落城(9月22日参照>>)します。
そして、今度は函館に行って、蝦夷共和国を目指していた先ほどの榎本武揚ら旧幕府軍とともに新政府と戦いますが、この戦いで、近藤の右腕だった土方歳三が死亡。
新撰組は降伏し、その4日後には旧幕府軍も降伏・・・ここに、戊辰戦争が終結(5月18日参照>>)し、新撰組も終わりを告げました。
新撰組の日に新撰組の事を書いていたら、何だか新撰組を題材にしたドラマのあらすじのような記事になってしまいました~。
結成の話を書き出したら、どこで切って良いかわからず、結局最後まで書いちゃいましたが、新撰組のファンの方にとっては、もう知り尽くしてるお話で申しわけないです。
とは言え、現在のように新撰組が人気物になったのはけっこう最近の事なんですね。
昭和の始め頃までは、「幕府の飼い犬となったコロシの集団」としてマイナスなイメージが先行していたようで、新撰組の関係者や家族などは、その事を隠して生活をしている人も多かったそうです。
しかし、昭和に入って「新撰組始末記」が発表され、やがて戦後になって、小説や映画・ドラマなどで描かれるうち、「滅び行く幕府に忠誠を貫いた誠のヒーロー」として、判官びいきの日本人のハートをガッチリと掴んだんですね。
時代劇は、その描く主人公によって内容がずいぶん変ってきます。
歴史は、多方面から見る事が必要で、いろいろな解釈の仕方がある事を痛感させられますね。
新撰組の屯所・前川邸やゆかりの壬生寺、隊士のお墓のある光縁寺のくわしい場所は本家HP「京都歴史散歩」でどうぞ→
.
★あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 「大手違い」…本当はもっと早いはずだった徳川家定と篤姫の結婚(2024.12.18)
- 幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英(2024.10.30)
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
コメント
初めまして。
とても面白く拝見させていただいております。
絵もすばらしいですね。
とても、教養のあるお方と拝読しております。
まだ、今朝、津田梅子を検索していて始めて見つけたブログですので、これから、じっくり読ませていただき、コメントしたいと思います。
新撰組は、特に土方歳三の強烈な生き様に惹かれています。
住まいの近くの近藤・土方離別の地は何度も訪れております。
単なるテロリストが、幕末の歴史に飛び出してきた。司馬遼太郎を初めとする影響は大きいでしょうが、日本人の判官びいきは無くしてはならない気質のような気がいたします。
投稿: さと | 2007年3月20日 (火) 11時40分
さと様、はじめまして・・・コメントいただきありがとうございます。
土方さんは、新撰組の中でも特に魅力的な人ですね。
局長の近藤さんより人気があるのもうなづけます。
私もかなりの判官びいきで、そのせいで、源義経と木曽義仲・・・敵対するふたりの両方のファンというミョーな結果になっております。
>日本人の判官びいきは無くしてはならない気質・・・
私もそう思います。
投稿: 茶々 | 2007年3月20日 (火) 13時38分
今日「龍馬伝」のガイドブック前編が出ますが、新撰組のメンバーがまだ発表されていません。誰になるでしょうか?龍馬と新撰組は因縁が深いので、中盤から登場すると思います。04年のメンバーが記憶に新しいので、もしかしたら一部の隊士が「再任」と言う人も。
ちなみに「篤姫」では新撰組が登場しませんでしたが、「徳川慶喜」では坂本竜馬が登場しなかったです。
また幕閣や将軍の配役も15日時点で未定です。
投稿: えびすこ | 2009年12月19日 (土) 08時43分
えびすこさん、こんにちは~
新撰組は、龍馬をつけねらう闇の組織=影っぽい感じに扱われるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年12月19日 (土) 15時10分
午前に書店で配役を確認しましたが、人物相関図で「新撰組幹部」の所がなく、まだ未定ですね。言うまでもなく薩長土肥が大半の勤皇の志士。来年は西日本出身者が主要人物となりますね。
余談。土方歳三の子孫と言う人がビリヤードの選手だとか。
投稿: えびすこ | 2009年12月19日 (土) 19時39分
えびすこさん、こんばんは~
そうですね~
特に土佐は盛り上がるでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年12月19日 (土) 22時43分
再来年が「新撰組発足150年」に当りますね。隊士の末裔の方同士は現在でも交流があるんでしょうか?
以前「(大河ドラマの)新撰組!は好きな作品」と言っていましたが、どういう点が好きですか?
投稿: えびすこ | 2011年2月16日 (水) 09時19分
えびすこさん、こんにちは~
>どういう点が好きですか?
脚本家が「新撰組好き」だとわかるところですかね。
具体例は出しにくいですが…
投稿: 茶々 | 2011年2月16日 (水) 12時36分
茶々さま、こんにちは。
きょうは「新撰組の日」なんですね。
前回の大河、やっと新撰組が登場しましたね。
長州の桂が新撰組から逃げるシーンがありましたが、これから「池田屋」など見せ場がきますね。
じつは前から疑問に思っていたのですが、長州藩っていつ頃から公家たちを抱き込んだりしはじめたんでしょうか?
ペリー来航で条約うんぬんの頃には、すでに長州派の公家たちがもう何人も朝廷内にいるようなイメージで・・・。
ペリーさんと関係なく朝廷工作していたとしたら、何かきっかけがあったのでしょうか?
抱き込むとしたらお金をばらまいて味方につけると思うのですが、それは長州藩が出していたということですか?
幕末=長州攘夷志士くらい当たり前のように思っていましたが、ふと考えてみると、「あれ?いつからやってたの?」「朝廷工作とか急にはできないよね?」みたいな疑問が・・・。
・・・すいません、不勉強なもので。こんなことも知らないで幕末ファンとか(汗)
投稿: きょちゃ | 2013年2月27日 (水) 14時18分
きょちゃさん、こんばんは~
そうですね~
抱きこんだというよりは、最初から(ペリーが来た時点で)朝廷にも攘夷派と佐幕派がいたわけで、その中の攘夷派の公家が、攘夷色が強い長州を頼ったという事だと思います。
とは言え、朝廷内の佐幕派は開国派だったわけではなく、あくまで「幕府に攘夷をやってもらいたい派」だったと思いますが…
「八重の桜」では、たぶん次回にやると思いますが、「八月十八日の政変」で攘夷派の公家たちを追い出す公家の中心人物が中川宮朝彦親王という方なので、以前、書いたその方ページ>>を見ていただくとわかりやすいかも…
もちろん長州の方も攘夷派ばかりだったわけではなく、攘夷派(革新派)と保守派の間で揺れ動いていて、藩の方針がコロコロ変わります…これは椋梨藤太さんのページ>>で見ていただくとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2013年2月28日 (木) 03時40分
お返事ありがとうございました。
さっそく、中川宮さんと椋梨藤太さんのページを拝見しました。
長州も藩内にいろいろ葛藤があったのですね。
長井雅楽さんの「航海遠略策」など、私たちのようにその後の歴史を知っているわけではない当時の状況下では、まさに現実的で常識的な意見のように思えますが。
あの坂本龍馬でさえ、本当に大政奉還がなるかどうか、ぎりぎりまで危ぶんでいたという話を聞いたことがあります。時代の流れが速すぎて、半年・一年先を予測できていた人は誰ひとりいなかったんじゃないかと思います。
幕末はみんなが命がけで、よりよい未来をめざして生きていたんですね。あらためて感動しました。
それにしても、いつもながら、茶々さまの知識量の膨大さには圧倒されてしまいます。これからも楽しみにしています。
投稿: きょちゃ | 2013年2月28日 (木) 08時22分
きょちゃさん、こんにちは~
>幕末はみんなが命がけで、よりよい未来をめざして生きていたんですね。
ホントにそう思います。
一寸先は闇の時代で、皆、命がけだったと思います。
攘夷の先駆けとなった水戸藩にも佐幕派はいましたし、逆に、当時は藩主の父が公武合体を推し進めていた薩摩藩にも攘夷派いました。
そんな中で、藩内での政権交代をくり返しながら、それぞれの藩の方針が固まっていったのでしょう。
投稿: 茶々 | 2013年2月28日 (木) 14時23分