島原の乱・終結
寛永十五年(1638年)2月28日、反乱軍がこもっていた原城を、幕府軍が総攻撃!島原の乱が終結しました。
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寛永十四年(1637年)の10月、救世主・天草四郎をリーダーに祭りあげ、農民による代官殺害事件をきっかけに勃発した島原の乱(10月25日参照>>)。
士気の上がる反乱軍でしたが、やはり相手は戦いのプロ・サムライです。
なかなか敵の城を攻め落とせないため、やがて、反乱軍は原城に武器や食糧を運び込み、籠城する作戦をとり始めました。
島原藩は島原藩で、戦いのプロが素人を相手にしてるワリには、防ぐ一方で相手に打撃を与える事ができず、ちょっと手こずり過ぎです。
このあたりで、「やっぱ島原藩だけでは、乱の鎮圧はムリ」・・・と判断した幕府は、この頃になってやっと思い腰をあげ、11月9日、板倉重昌と石谷貞清を中心とした幕府の反乱鎮圧軍を派遣したのです。
そして、12月5日、いよいよ原城に最初の総攻撃をかけます。
立てこもる反乱軍の数は2万7千。
しかもそれは女・子供も含まれた数で、その中で武士と言えば旧・小西の家臣のわずかだけ。
対する幕府軍は五万の大軍でした。
・・・にもかかわらず、反乱軍は城を防ぎきります。
20日に、もう一度、総攻撃をかけますが、これも失敗。
幕府軍は、大量の死傷者を出してしまいます。
明けて正月元旦に3度目の総攻撃。
今度こそ3度目の正直!とばかりに、一気に城を落とす作戦にでますが、指揮を執っていた板倉重昌が鉄砲で撃たれ即死。
石谷貞清も負傷し、死傷者4千人という大打撃を被ってしまいます。
そこへ、駆けつけてきた幕府の援軍・松平信綱(3月16日参照>>)と戸田氏鐘という二人のおエライさん。
実は、彼らは援軍ではなく、乱の鎮圧後の処理をするために派遣された方々だったのですが、ここで散々たる結果を目の当たりにしたお二人さん。
乱後の処理どころか、鎮圧もされていないこの状況を見てさっそく方針転換。
持久戦に持ち込んで、反乱軍の食糧がつきて士気が下がるのを待つ作戦に出ると同時に、九州の大名を総動員させる事にします。
この報告を江戸で聞いた三代将軍・徳川家光も、北九州一帯の大名に乱討伐に当たるよう命令を下します。
もはや、地方農民の一揆、食いぶちを失くした浪人の反乱の域を越え、幕府一丸となっての天下分け目の合戦の様相・・・鎮圧に向かう幕府軍は12万を越す大軍となりました。
ここらあたりで、イイところをアピールして、ポルトガルに一歩差をつけたいオランダまで幕府軍に加わり、海から最新鋭の大砲で、砲撃を繰り返します。
さすがに、これは、「国内の事にオランダ船動員は恥ずかしい」という武士たちの声が高まり、2週間程で中止されましたが・・・
しかし、そんな幕府軍に、必死に耐え抜く反乱軍。
たとえ、先導した者が食いぶちを失くした浪人であっても、宗教を軸に固まった民衆の力はスゴイ!
何せ彼らは、はなから殉教覚悟でやってますから・・・。
しかし、やはり、まわりを大軍に囲まれている以上、徐々に食糧や弾薬が尽きてくるのは当たり前です。
この状態を打開しようと、反乱軍は2月21日の夜、3千人が原城を出て幕府の陣に夜討ちをかけました。
もちろん、襲われた幕府軍にも多くの死者が出ましたが、圧倒的に数が勝る幕府軍を一度の夜討ちで崩せるはずはありません。
この夜討ちを、反乱軍の「ガマンの限界」と判断した松平信綱。
最後の総攻撃を2月28日にかける事を決定します。
しかし、総攻撃の前日、なぜか佐賀藩の軍隊が、突然攻撃を開始してしまったため、あわてて、幕府軍も全軍が一丸となって原城めがけて突っ込んで行ったのです。
その激戦は翌日まで続き、寛永十五年(1638年)2月28日原城は落ち、ここに島原の乱は終結しました。
反乱軍は十字架を握りしめたまま、女性も子供も老人も、一人残らず討ち取られましたが、幕府側の被害も大きく、死傷者は1万人を越えたと言います。
しかし、3ヶ月も戦って、ここまで苦労したにもかかわらず、戦国時代の合戦ではなく、乱の鎮圧であったため、戦った者たちへの恩賞は、指揮をとった松平信綱が川越六万石、天草四郎の首を挙げた熊本藩士・陣佐左衛門(じんすけざえもん)が知行千石を賜ったのみで、他の者にはまったくありませんでした。
幕府を震撼させたこの乱はその後のキリシタンへの規制をいっそう厳しくさせる事になります(12月23日【切支丹禁止令と戦国日本】参照>>)。
また、宣教師へのつながりが指摘されていたポルトガル人の渡航を禁止し、協力してくれたお礼なのか、オランダとだけ出島での通商を認め、幕府は鎖国への道を強化する事になります。
ところで、先日の島原の乱勃発(10月25日参照>>)の時、この乱を「一揆か?」「聖戦か?」というのともう一つ「浪人の反乱か?」と様々な見方がある事を書きました。
しかし、もう一つの見方もあります。
それは、島原の乱の22年前の大坂夏の陣・・・。
そのページで、炎の中、大坂城を脱出した豊臣秀頼は九州まで落ち延び、旧小西の家臣の保護のもと隠れ住んだという秀頼生存説なるものがある事を書かせていただきました(5月8日参照>>)が、実は、その秀頼の子供・・・つまり秀吉の孫が、かの天草四郎であったという話があるのです。
もちろん、これはかなり荒唐無稽な話で、いわゆるトンデモ切なわけですが、「もしも○○だったら・・・」という、妄想を掻き立てられる話でもあります。
もし、そうだとしたら・・・だからこそ、家光は幕府総動員で、徹底的に根絶やしにする必要があり、二度とこのような事が起こらないよう厳しい弾圧をしなければ安心できなかったという事になります。
また、この乱の後、島原藩主・松倉勝家は、江戸で斬首されています。
その罪状は「所領にて逆徒蜂起せしめた為」となっていますが、ひょっとしたら豊臣の一族を放置してきてしまった罪による物かも知れません。
そうなると、この島原の乱は、戦国最後の合戦・天下分け目の戦いであったとも言えるのですが・・・
3万7千人もの人が亡くなっているにもかかわらず、バチカンが彼らの死を殉教と認めない島原の乱は、いったい聖戦なのか?一揆なのか?それとも天下を狙う豊臣の逆襲だったのでしょうか?
大坂城落城の後には、子供たちの間で
♪花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて・・・♪
という、秀頼脱出を連想させる童歌が流行ったそうですが、私の実家は大阪城のすぐ近く・・・子供の頃は、「秀頼さんは抜け穴から逃げた」と、やっぱり噂してましたね。
とてもわくわくする話です。
ただし、秀頼は、身長190cm、体重が130kgくらいあった巨漢と言われていますので、少なくとも花のようではなかったとは思いますが・・・。>
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*天草四郎の生存説については2009年2月28日のページでどうぞ>>
*島原の乱のその後については2012年2月28日のページでどうぞ>>
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