平将門・怨霊伝説
天慶三年(940年)2月14日、関東の大半を征服して「新皇」を名乗った平将門が、平貞盛と藤原秀郷に討たれ、乱は鎮圧されました。
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平安京に遷都したあの桓武天皇のひ孫にあたる高望(たかもち)王が、“平”という姓を賜って上総の国に下り、その地を治める受領となりました。(5月13日参照>>)
(地方のその土地に住んで行政をするのを受領、京の都にとどまったまま行政をするのを国司と言います)
この高望王の孫が平将門(たいらのまさかど)です。
父・良将(よしまさ)の領地を受け継いだ将門は、同族同士の内紛に討ち勝ち、さらに関東各地へその勢力を伸ばします。
やがて、常陸(ひたち)国府、下野(しもつけ)国府、上野(こうずけ)国府を攻略しますが(11月21日参照>>)、将門自身には「朝廷に取って代わろう」という意志はありませんでした。
将門が、敵としていたのは、あくまでその地を治める国司や受領であり、彼らを派遣する朝廷ではなかったのです。
当時は、新しく赴任した国司や受領がその権力を傘に着て、横暴な振る舞いを重ねていました。
見回りと称しては、一般の民家に押し入り、めぼしい金品を奪う・・・といった行為が当然の事のようにまかり通っていたのです。
根っから親分肌の将門が、困った民衆や豪族に「何とかして~」と頼られる→相手をいさめに行く→相手は兵を出して抵抗する→強いから勝っちゃう・・・簡単に言えばこんな構図です。
事実、この時点でも将門は、摂政・藤原忠平に「領国は奪い取りましたが、忠平さんへの恩義は忘れてませんよ」という内容の手紙を送っています。
やがて、東国一帯に勢力を広げるにあたって“新皇(しんのう)”を名乗り、国守や役人を自らが任命し始めます(12月15日参照>>)。
それでも、まだ、将門には朝廷を倒す気持ちは無かったのです。
しかし、ちょうど時を同じくして西国・瀬戸内でも藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こしていて(6月20日参照>>)、京の都では、「東の将門は、西の純友と共謀して反旗をひるがえし、同時に上洛するつもりではないか!」と、もっぱらの噂になり、公家たちは毎日怯えて暮らす事になります。
こうなると、朝廷もじっとしてはいられません。
将門の行動を国家への反逆とみなした朝廷は、藤原忠文を征東大将軍に任命し、東海・東山道に「将門追討」の命令を下します。
それに応じて兵を挙げたのが、平貞盛(さだもり)&藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)の同盟軍。
そして天慶三年(940年)2月14日、午後2時頃、強風の中、同盟軍が将門の陣営を襲う形で、激しい戦闘が始まります。
風下に陣を取った将門軍は、有利に駒を進め、同盟軍の中陣を撃破・・・勢いづいて、そのまま追捕を続け、同盟軍は敗走します。
勝利に沸く将門軍・・・しかし、将門軍の多くは、直属の武士ではなく、将門を慕って集まってきた近隣の豪族や農民でしたから、勝利を確信した将門は、ここで一旦彼らを家に帰してしまいます。
その事を敏感に察知した同盟軍は、すくさま反撃を開始。
急に風向きが変わり、戦況も一気に同盟軍有利に向き始める中、将門自らが先頭に立って激戦が繰り広げられます。
そんな時、事態の幕切れはあっけなく訪れます。
秀郷が放った1本の矢が、「全身が鋼鉄の体である」と噂された将門の唯一の弱点・・・こめかみを貫きます。
-天下に未だ将軍自ら戦い死することはあらず、誰か図らむ-
翌日には、「将門討伐」の報告が朝廷に伝えられ、朝敵・将門の首は4月の終わりには都に届けられました。
しかし、将門の怨霊伝説はここから始まります。
京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐る事はなかったと言います。
ある晩、その首が空高く舞い上がり、胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。
そして、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと・・・人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。
やがて1307年に真教上人という僧が、将門の霊を供養し建てた石塔が、大手町のオフィス街の一角にある“将門の首塚”です。
この首塚は、この平成の世でも、動かせば祟りがあるとして恐れられています。
将門が、これほどまでに恐れられる怨霊となってしまったのはなぜなんでしょう?
たしかに、志半ばにして倒される・・・という、怨霊としての最低条件はクリアしていますが、歴史を見るかぎり、志半ばにして命を絶たれた人は大勢いるわけで、その中で突出して将門が恐れられるようになった要因があるはずです。
将門が新皇の名乗りをあげるきっかけとなった出来事に、そばにいた巫女に八幡菩薩が憑依し、「われか将門を天皇の位につけ、菅原道真の霊がとりつぐ」と言った、というくだりがありますが、これは、おそらく、将門の怨霊にスゴみを持たせるため、怨霊界の先輩である道真の名前を出しただけの、後から付け足された物語でしょう。
なぜなら、将門は一言も「天皇になりたい」などと言った事はありません。
先程も書きましたように、あくまで許せないのは、東国にやって来る国司・受領であって、朝廷ではありません。
そして、将門の身体が鉄でできていて、唯一の弱点が“こめかみ”である・・・というくだりは、将門の邸宅の近くから出土している岡崎前山の製鉄遺跡に由来する物でしょう。
当時、このあたりで、盛んに製鉄が行われていた事を考えると、腕に覚えのある職人が、自分たちを守ってくれる正義のヒーローに、一番すばらしい甲冑をプレゼントするのは、容易に推理できる事、そして、それが「全身が鉄」という伝説になっていく事も、簡単にわかりますね。
では、それらの伝説を後付けして、将門を大怨霊にしたてあげてしまったのは誰でしょう?
それは、他ならぬ朝廷ではなかったか?と思うのです。
朝廷は何よりも将門が怖かった・・・。
都では、はびこる藤原政権に民衆は不満ムンムン・・・それなのに東国では、民衆のハートをバッチリ掴んだヒーローが力をつけて“新皇”を名乗りだす。
「彼を消せば何とかなるだろう」と思って、討伐してみたけれど、彼が死んでも、彼を愛する東国の人々の心はどうにもならない・・・。
死んでもなお、人気の衰えない東国のヒーローを、誰よりも怖かったのは、都にいた朝廷の人々であったに違いないと思うのです。
そして、そこに拍手を送るのは、民衆・・・彼ら民衆が、死んでもなお、朝廷を怖がらせる東国の英雄に、密かに感謝していた事は間違いないでしょうね。
京都・膏薬図子のくわしい場所は、管理人運営の本家HPの平安京魔界MAPへどうぞ→
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コメント
なるほど、、、歴史は権力者で作られる、という側面はありますよね。善人が悪人に、悪人が善人に。つまり、私達が信じてる歴史も、実際、その時代に行ってみれば全然違ってたりするかもしれないですね。タイムマシンがあれば、、、というのは冗談で、そこに人間の想像力が入る余地があり、歴史を学ぶ楽しさがあるのですね。なんだか自問自答(笑)
P.S 今回のグーグル・アース動画はかなり凄いと思います。多分、ですが(笑)
投稿: さときち | 2007年2月15日 (木) 00時11分
さときちさん、こんにちは~。
もう、古事記や日本書紀は藤原一門のための歴史ですからねぇ~。
足利尊氏と楠木正成も、戦前と戦後で、逆賊になったり忠臣になったりと、歴史に振り回されてますしね。
グーグル・アース動画、見ましたよ!
もともとグーグル・アース自体が時間を忘れてしまうくらい面白い・・・変な場所見つけたらより面白いですね。
投稿: 茶々 | 2007年2月15日 (木) 02時14分
今日テレビのニュースで平将門の話があったのでたまたま検索しましたらこんなに分かりやすい記事があったのでとても参考になりました。
堅苦しくなく読めるのって楽しいですね。
学生時代は暗記するばかりでその時代活躍した人たちがどのような思いで歴史が動いていたのかなんて教えてもらえませんでした。
学校の先生ももっと臨場感の溢れた授業をしてくれたらもっと楽しく歴史を学べたのにと思いましたしもっと歴史が好きになっていたんだろうなと思いました。
でも今さらですがとても歴史に興味がわきました。
ありがとうございました♪
投稿: 春 | 2012年5月27日 (日) 13時26分
春さん、こんにちは~
このブログを読んで「歴史に興味がわいた」と言っていただけるなんて、最高の幸せです。
更新の励みになるコメント、ありがとうございました。
また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2012年5月27日 (日) 15時49分
わぁ♪
コメントをいただけるなんて夢のようです♪
ありがとうございました♪
また来ます♪
頑張ってください(*´∀`*)
投稿: 春 | 2012年5月27日 (日) 18時38分
春さん、こちらこそ、ありがとうございます。
また、来てください。
投稿: 茶々 | 2012年5月28日 (月) 13時43分
私の住まいの近くにも将門が生まれたという場所があります。あくまで伝説ですが。
将門を討つための祈願を行った場所に建てられた成田山新勝寺にも何度も行きましたし、将門の首塚にも何度も行きましたが、特に何の問題も無く、無事に生きながらえています。まあ生きているだけで、幸せ度は低いんですけど…。
将門、足利尊氏、上杉謙信などは人に頼られてやむなく行動した結果、人生が大きく変わってしまったように感じられます。
結果がどうであれ、充実した幸せ度の高い人生であったのではないかと、勝手に思っております。
投稿: とらぬ狸 | 2015年5月 8日 (金) 21時40分
とらぬ狸さん、こんばんは~
>将門、足利尊氏、上杉謙信
皆、人望があったんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2015年5月 9日 (土) 02時02分
茶々さん、おはようございます。
将門を朝敵にしたのは藤原ですが、俵藤太も藤原です。何だか公家の藤原が武官の藤原に尻拭いさせた感じをします。多分俵藤太も貞盛も内心は将門気持ちはわかると思ったのではないでしょうか?
多分将門、純友は後の頼朝、清盛みたいに事をしたかっただけと思います。地方政権を認めろでしょう。
ところで織田の先祖の藤原利仁将軍がこの時に活躍するのですが、奈良時代だと旅人、家持、宇合、麻呂みたいに結構高位の貴族が戦闘に出ましたが、田村麻呂以降はいないのは何故なのでしょうか?
投稿: non | 2016年2月19日 (金) 10時18分
nonさん、こんにちは~
桓武天皇や嵯峨天皇以降は、平氏や源氏になりましたものね~
投稿: 茶々 | 2016年2月19日 (金) 14時28分
茶々さん、
最後の源氏が正親町源氏ですね。
でも何故日本の貴族は残ったのですか?中国だとこういう貴族は唐が滅んだ後に滅び、その後は官僚だけです。
欧州の貴族は自ら戦いますので武士に近いです。何故日本みたいな何もせずただ陰謀しか能がない役立たずが残ったのかなと思いました。江戸時代では教養も武士や町人の方が高いので、?です。
投稿: non | 2016年2月20日 (土) 10時11分
日本の貴族と言うのは茶々さん、本当に珍しいのです。欧州などでは貴族は戦います。風流だけと言うのは無いです。と言いましてインドみたいな神官でも無く海外において説明する時によく分からないのです。例える例が無いのです。
よく似ているのは半島の両班ですが、でも試験はありますし、日本みたいに安穏としていません。生活に関してもそんなに不自由でないのです。それと日本みたいに君主と事実上の実験者が別々に住んでいるのと身分も違うと言うのは説明ができません。今でもなんと説明したら良いのか分かりません。
欧州でも逆賊にされた人はいますが、ジャンヌダルク、ロビンフッドは英雄です。日本みたいに逆賊だから駄目だと言うのは聞いたことが無いです。この国は一体何なのかと考えてしまいます。神田明神の件でも欧州とか私が住んだ台湾、インドネシアだと武力での反乱がおきるのに日本は何も言わないので不思議です。
投稿: non | 2016年2月20日 (土) 11時20分
茶々さん、こんにちは。
私自身が貴族的な生活と言いますか趣味で生きていますので情けないと思っています。そんな中で苦しんでいる人を見ますと将門、純友に思えます。そう言う人に何故光が注がれなかったのかなと思う事が多いです。
風邪はまだ治りきっていません。今日もゆっくり過ごします。
投稿: non | 2016年2月21日 (日) 14時23分
nonさん、こんにちは~
日本の皇室は世界に類をみない存在で、その伝統は、それを守って来た日本人の誇りでもあります。
投稿: 茶々 | 2016年2月22日 (月) 15時15分