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2007年3月31日 (土)

次世代に残したい歌

 

大正九年(1920年)3月31日、作曲家・山田耕作さんらによって「日本作曲家協会」が設立されました。

山田耕作さんと言えば・・・
交響曲なども作曲されていますが、何と言っても「赤とんぼ」「待ちぼうけ」などの数々の童謡を思い出します。

・・・で、本日は「童謡」を思い出したところで、以前から気になっていた「日本の唱歌」について書かせていただきます。

Nihonsankei900o

先日の「青い目の人形」(3月18日参照>>)の時にも書かせていただきましたが、最近は音楽の教科書もさま変わりして、以前、教科書に載っていたような歌は少なくなり、代わりにユーミンなどニューミュージック系(これも、もう古いか?)の曲が載っているそうですね。

今朝のニュースでは、森山直太郎さんの「さくら」や、北島三郎さんの「祭」も新しく掲載されるとか・・・。

もちろん、「音楽」は読んで字の如く、楽しまなければ音楽じゃないわけですから、旧仮名遣いの、子供たちに意味のわからない、現在の生活に密着しないような曲ばかりではダメですし、時代とともに歌が変わっていくのは当然の事だとは思います。

とは言え、「次世代に残したい」と思う歌はあるわけで・・・そんな中で、時々音楽番組などで歌われる童謡や唱歌で、歌詞を変えて歌う・・・あるいは、排除して歌う・・・という行為はどうなんでしょう?

私、個人的には、今、楽しむ音楽とは別に「次世代に残したい歌」なのですから、その時代背景とともに、やはり、何とかそのままの状態で残していく事はできないのか?という気もしないではないのです。

たとえば、「冬の夜」という歌をご存知でしょうか?

『ともしび近く 絹縫う母は 春の遊びの楽しさ語る・・・』という歌詞で始まる歌です。

この2番の歌詞で
『いろりのはたに 縄なう父は・・・』の後、ここ10年ほどで、2~3回ほどしか聞いてませんが、最近では、
『いろりのはたに 縄なう父は 過ぎし昔の思い出語る・・・』という歌詞で歌われます。

これは、もとの歌詞は
『いろりのはたに 縄なう父は 過ぎし戦(いくさ)の手柄を語る・・・』という歌詞です。

これは、現在の放送コードに引っかかる物なのでしょうか?
それなら、放送する時は歌詞を変えるしかないとは思いますが・・・。

その後には・・・
『居並ぶ子供は 眠さ忘れて 耳を傾けこぶしを握る・・』と続くのですが、この部分はそのまま歌われています。

歌詞を変えた事によって意味の通じない歌になってしまっていますね。

昔の思い出話で、子供はこぶしを握りません。
戦争の話だからこぶしを握って聞き入るのです。
そこんとこの微妙な描写が完全に無視されてしまっています。

たしかに、次世代へどのように伝えてよいものやら、迷うところではあります。

もちろん、戦争は良くありませんし、決して繰り返してはいけない事は重々承知ですが、歌詞を変える事によって微妙なニュアンスまで変えてしまう事が良い方法なのかどうか?

かと言って音楽番組でいちいち歴史的背景を説明していると、それは音楽番組ではなくなってしまうわけですし、その時代背景の解釈自身が右や左の様々な意見があるわけですから、その説明だけで大討論会を開くハメになってしまいますしね。

「われは海の子」の7番、「蛍の光」の3番・4番などは、戦後に「軍国主義的な物は排除する」という方針のもと排除されたのでしょうが、「次世代に伝えたい歌」の歌詞がカットされる・・・というのも、しかたない事ですが胸が痛いですね。

私の大好きな歌に「里の秋」という歌があります。

『静かな 静かな 里の秋・・・』という歌詞で始まる歌です。

その中に、『ああ、母さんとただふたり 栗の実煮てます いろりばた』という部分があって、私は子供の頃から長い事、「なんでお母さんとふたりなんだろう?お父さんはどこへ行ったんだろう?」と思っていました。

3番・4番の歌詞を聴くと答えがわかるんですよね。
お父さんは南方の戦地へ戦争に行ってるんです。

『ああ、父さんよ ご無事でと 今夜も 母さんと祈ります』という歌詞も出てきます。

戦争が、兵士だけでななく、その家族をも巻き込んでしまう事をつくづく感じさせられます。

歌詞を変えたり、カットしたり、という何やら「臭い物に蓋」をするような事ではなく、その時代背景とともに、「生きた教科書」として「次世代に残したい歌」「次世代を荷う子供たち」うまく伝えて行く方法はないものでしょうか・・・。
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2007年3月30日 (金)

お花見の歴史は万葉から

 

いよいよ、お花見の季節ですね~。
関西では見頃はまだ、もう少し先のようですが、ニュースなどを見ていると、関東の方では、けっこう咲いているみたいですね。

・・・という事で、今日は日本人の大好きな『お花見の歴史』について・・・

・‥…━━━☆

四季折々、美しい花の咲く日本列島では、数多くの「花」があるわけですが、単に「花」「花見」と表現する場合は「桜」の事を指すのが普通ですよね。

♪あおによし 奈良の都は 咲く花の
 にほふがごとく 今盛りなり♪

この場合も花はを指します。

桜は古くから歌に詠まれ、花見の対象とされてきました。

もちろん、日本に人が住んで、「花」を美しいと思った瞬間から「花見」という物は存在したでしょうが、行事としての「花見」の記録が登場するのは万葉の頃から・・・

ただし、万葉の頃のお花見と言えば梅が主流で、それが桜に変わるのは、奈良の終わり頃から平安の初め頃だそうですが・・・

もちろん、現在、皆さんの想像するいわゆる「花見」とも、少し違った雰囲気でした。

とは言え、今よりも娯楽のない時代ですから、古の人たちにとっても春は待ち遠しい季節。
花が咲いたらこぞって花見に出かける・・・といった光景は同じなのですが・・・。

実は、奈良・京の都の周辺では、旧暦の3月3日かその翌日が「花見にでかける日」とされていたのです。

これは、3日が“シガノ悪日”という「何をやっても悪い日」とされていた事による物です。

東北地方では“シガヨウカ”と言って、4月8日が、この悪い日とされていて、やはり花見の日のなっていたようです。

そして、もう一つ、「健康法」としての意味合いもあったようです。

花が咲く・・・というのは、樹木の勢いが最も良いという事で、その勢いの良い木の生命力を、吸収しようという事なのです。

日本には古くから、空気を揺るがせて波動を起こし、神を呼び込んで身を清めるとともに、魂を奮い立たせる「タマフリ」という儀式がありました(1月31日参照>>)

神主さんが、御幣(ごへい)というビラビラの紙の着いた道具で空気を揺らしてお祓いすのが「タマフリ」というヤツです。

神社で拍手を打つのも、鈴を鳴らすのも、音の波動によって空気を揺らす「タマフリ」です。

空気を揺るがす波動は、音だけではありません。
色も波動です。

満開に花を咲かせる元気な樹木の生命力の波動を、目で見て「タマフリ」とするのです。

もともとは、物忌み=運気の悪い時に、それを打ち払うために行われた「見るタマフリ」で、どちらかと言うと、祝い事ではなかったようですが、それが徐々に、「花見で悪い事も何もかも忘れちゃえ!そして運気も変えちゃえ!」的な発想に変っていったようです。

あの豊臣秀吉が、古の昔に天武天皇が勝利を誓って出陣した吉野で花見を開催したのも、先人の勝利にあやかるとともに、その樹木の生命力を受けとるという意味があった事でしょう(2月27日参照>>)

奈良時代の後半や平安の頃には、男女の出会いの場でもあり、その場で「即しっぽり・・・」という事も、けっこうあったようで、ある意味今の花見よりスゴイ!

現在のように、桜の下にゴザを敷いて宴会・・・という形になるのは、やはり室町から戦国にかけての頃から・・・

婆沙羅(バサラ)大名として知られる鎌倉時代から南北朝時代に活躍した佐々木道誉(ささきどうよ)は、足利幕府において、足利尊氏新田義貞に次ぐナンバー3の実力者ですが、その風流に対するこだわりもスゴかった・・・。

彼が京の大原で花見の会を催した時、4本の桜の大木の根本に、真ちゅう製の花瓶を造り、それを一輪挿しに挿した花に見立てたのです。

そして、その真ん中に巨大な香炉を置いて香を焚きあげる・・・絢爛豪華に咲き乱れる花と、漂う幽玄な香りは、さぞかし、夢のような世界だった事でしょうね。

前途の吉野の花見に続いて秀吉がおこなった、有名な醍醐の花見(4月7日参照>>)は、なんと「花見がしたいために桜を植えた」(約700本植えたと伝わります)という常人にはあり得ない感覚・・・しかも出席者1300余人で、秀吉お気にの女性同士が、その花見行列の順番を巡ってバトルする一場面もあったほど、参加者それぞれの名誉と威信をかけた大イベントだったようです。

そして、江戸時代には落語の「長屋の花見」に見られるとうに、一般庶民も花見をするようになるのですが、その頃には、もう、今でもお馴染みの桜の名所が、花見の名所として名前を連ねる事になります。

やはり、今も昔も「花見」は日本人の心のふるさとですね。

1週間前にひいた風邪がまだなおらない・・・今年、私は花見に行けるでしょうか・・・少し心配・・・

Sakuramanyoucc_1
今日のイラストは、
『万葉のお花見』をイメージしてみました。

やっぱり思い描いたのは、大好きな額田王ですね・・・
若き日の額田王が大海人皇子を桜の木の下で待ってる・・・て感じかな?

まぁ、この頃の花見は梅だったかも知れませんが、そこは、あくまで想像なので・・・
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2007年3月29日 (木)

秀吉包囲網・三木城籠城戦

 

天正六年(1578年)3月29日、羽柴(豊臣)秀吉が織田信長に反旗を翻した別所長治の居城・三木城を包囲しました。

・・・・・・・・・

天正の始め頃に、織田信長羽柴(豊臣)秀吉を大将とする討伐軍を編成し、山陽・山陰地方の平定に当たらせました。

その効果もあって、しだいに播磨(兵庫県)の諸大名たちは織田方に着くようになり、現在の神戸加古川あたりを治めていた別所氏も、天正三年(1575年)の7月には、当主・別所長治自らが信長のもとへ出向き、織田方への加担を申し出ています。

しかし、天正六年(1578年)の2月23日、長治は突然、織田方からの離別を一方的に宣言し、居城・三木城に籠城するのです。

その理由には、「信長のワンマンぶりについていけなかった」とか、「秀吉が気に入らなかった」とか、諸説ありますが、やはり、何と言っても、播磨全体に反織田の動きが活発になっていた事が考えられるでしょう。

現に、このすぐ後に、宇喜多直家が播磨上月城を奪うという出来事も起こっています。

そんな動きに乗じた安芸の毛利輝元が、織田に反発する播磨の諸大名に力を貸す・・・という事態になり、ますます播磨の反織田に気運が高まっていたのが、ちょうどこの頃だったのです。

Toyotomihideyoshi600 そして、三木城・籠城の知らせを聞き、天正六年(1578年)3月29日、秀吉が三木城を包囲する・・という事になったわけです。

籠城する長治軍は八千、包囲する秀吉軍は二万・・・秀吉は力戦を行わず、お得意の長期包囲戦で、じわじわと別所氏を追い詰めて行きます。

途中、尼子勝久・山中鹿之介(11月19日参照>>)の救援のため、先ほどの上月城へ出陣するなどもありながらも、三木城外の平井山に陣を取り、秀吉はひたすら包囲を続け、その間に城の周囲にある砦や支城を次々と落として行きます。

もちろん、別所方もず~っと城に篭もっているわけではありません。

時々は城の外へ撃って出て一戦交え、また籠城する・・・という事を繰り返していました。

その中では、10月の交戦で長治の弟・治定討ち死にするという痛手も被りながらも、翌年(天正七年)2月には、三千という大量の兵を動員して、秀吉の本陣を奇襲し、「あわや」という場面もありました。

しかし、結局、大勢に影響を及ぼす事なく、やがて天正八年(1580年)になると、当然の事ながら、三木城内は深刻な食糧不足と水不足に悩まされるようになります。

その事を察知した秀吉・・・今が攻め時との判断をし、残っていた周囲の砦と支城を一気に全滅させ、ますます三木城を孤立させます。

そして、ころあいを見計らって、秀吉の軍に加わっていた別所一族の別所長棟(ながむね)を介して、三木城を開け渡すように説得・・・

ここは、播磨でも一番東に位置する場所なので、毛利の援軍も期待できず、「もはや、籠城の継続はムリ」と判断した当主・長治は、天正八年(1580年)の1月16日に、残っていた少量の食料でささやかな宴会を開いて兵たちの苦労をねぎらった翌日、一族ともに自刃して果てたのです。

この後、稲葉・鳥取城(10月25日参照>>)、備中・高松城(6月4日参照>>)など、力攻めをせず、とかく長期包囲網作戦を行った秀吉も、さすがにこの時のまる2年に及ぶ包囲作戦には、かなりお疲れだった事でしょうね。

しかも、途中、秀吉の知恵袋となって活躍してくれた名軍師・竹中半兵衛が、平井山の陣中で病死していますから・・・(6月13日参照>>)

♪今はただ うらみもあらじ 諸人の
 いのちにかわる わが身と思へば♪
  別所長治・辞世

そして、三木城攻防戦を終えた秀吉は、この後、播磨宍粟郡に侵攻しますが、そのお話は【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】でどうぞ>>
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2007年3月27日 (火)

伊達騒動の影に幕府の思惑

 

寛文十一年(1671年)3月27日、大老・酒井忠清邸で行われていた仙台藩のお家騒動の審議中に刃傷事件が勃発し、いわゆる『伊達騒動』が双方の死亡という、何やら不可解な形で結末を迎えることになりました。

・・・・・・・・・

加賀騒動(6月26日参照>>)黒田騒動(3月2日参照>>)と並んで、江戸時代の三大お家騒動の一つに数えられる、このこの仙台藩のお家騒動伊達騒動・・・
(三大騒動の中に仙石騒動(12月9日参照>>)が入る場合もあります)

Datetunamura600a そもそもは、仙台藩主・綱宗が、江戸城・小石川掘の工事のため江戸にいた頃、毎日のように遊女のもとへ通い、遊びほうけていた事が原因で謹慎処分となって、家督を長男・綱村に譲るところから始まります(5月4日参照>>)

そして、後を継いだその綱村が、わずか2歳と幼かったので、叔父の伊達兵部宗勝)後見人としてサポートする事となり、兵部の側近であった原田甲斐とともに仙台藩を仕切る事になったのです。

しかし、そのやり方がわがまま放題で、反対する者はことごとく処分され、彼らが仕切っていた10年間で斬首や切腹・追放などの処分者が120人に及んだと言われ、とうとう我慢しきれなくなった反対派が、そのリーダーとして伊達一門の重臣であった伊達安芸を立て、幕府に訴えたのです。

・・・で、寛文十一年(1671年)3月27日江戸の酒井忠清邸でそのお家騒動の審議が行われていたわけです。

この日、仙台藩から召喚されたのは、訴えた反対派のリーダー・伊達安芸と、訴えられた側・兵部の側近・甲斐。

居並ぶ審議役は、その大老・酒井忠清稲葉正則をはじめとする老中の面々・・・。

安芸ら反対派の出した20か条の申し立てを、一つ一つ質問する忠清に、神妙な面持ちで答える甲斐でしたが、答えに詰まる場面も見られ、やや反対派が優勢の中、一旦質問コーナーが終わり休憩タイムに入ります。

そして、控え室で顔を会わせる安芸と甲斐・・・っと、そこで、突然甲斐が安芸に斬りかかり、太刀打ちする間もなく安芸はその場で絶命。

それを見ていた安芸の側近が、すかさず今度は甲斐に斬りかかり、甲斐もまたその場で絶命してしまいます。

結局、審議の場にいた二人ともが死亡し、ミョーな形でこの『伊達騒動』は終わりを迎えてしまうのです。

このお話は、後の世にお芝居や小説となって、兵部と甲斐は逆臣として悪の権化のように描かれる事が多いのですが、どうやら話は「好き放題やってた悪い重臣(兵部と甲斐)をたまりかねた正義のヒーロー(安芸)が訴えた」という、そんな単純な事では収まらないようなのです。

まず、最初の先代藩主の失脚の時点で、本来なら所領の没収などの処分を受けていなければならず、現に他の藩では同様の交代劇があった時は、何かしらの処分を受けていますが、仙台藩にはそれがありませんでした。

すでに、そこに、幕府の大物が一件に絡んでいる感をうかがわせます。

その大物とつるんでいたのは、当然その後、権力を握った兵部・・・という事になり、彼は、最終的には伊達家の乗っ取りを企んでいたとも言われていますが、それは後につけられる悪のイメージを強調するがための作り話だとも言われ、実際には彼が行っていた政治は噂される程、横暴なものではなかったようです。

当時、財政難に苦しんでいた仙台藩を立て直すべく、新田の開発や税の徴収制度の見直しなどもやっています。

しかし、その改革の中で、昔ながらの上級家臣たちの禄高に手をつけたのがマズかった・・・。

この仙台藩は、伊達家に代表される上級家臣の禄高が異常に高く、それが藩の財政を圧迫していたわけで、兵部らにしてみれば、「そこを見直せば、かなり楽になる」という計算だったのでしょうが、上級家臣たちが黙ってそれを見ているはずがありません。

そう、この兵部と甲斐を悪の権化のような汚名を着せたのは、禄高を減らされたくない上級家臣たちだったのかも?・・・

そして、当事者二人が死に、兵部を土佐に流罪にする事によって、このお家騒動に幕引きをしてしまったのは、兵部の後ろにいた幕府の大物・酒井忠清・・・その人

彼にとって脅威であったのは、加賀藩・薩摩藩に次ぐ力を持っていた仙台藩の大きさであり、仙台藩を弱体化する事が一連の行動の目的であったため、誰が悪人で誰が善人なのかは関係の無い事だった・・・と言えるのでは?

なにやら、この一連の騒動がスッキリしないのは、それが単なるお家騒動ではなく、幕府のの思惑が絡んでいるからに思えてならないのです。
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2007年3月26日 (月)

豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎

 

文禄元年(1592年)3月26日、朝鮮出兵の指揮をとりやすい肥前(佐賀)に向かうため、豊臣秀吉が京都を出発しました。

・・・・・・・・

ご存じの文禄の役です。

Toyotomihideyoshi600 それにしても・・・
豊臣秀吉は、この無謀とも思える朝鮮出兵を、なぜ、実行したのでしょうか?

実は、これだけの一大事にもかかわらず、多種多様な意見があって、その原因は大きな謎となっているんです。

たしかに、人並み外れた名誉欲や征服欲を持ち、体力にも衰えを感じはじめた上に、寵愛していた長男・鶴松が亡くなるなど、という事が重なった・・・と言えない事もないですが、いくら老いたとは言え、数々の激戦をこなし、天下人にまでなった人物です。

墨俣の一夜城(9月14日参照>>)中国大返し(月13日参照>>)などの、あの計画性と機動力も持っていたわけですし、一介の百姓からのし上がって、名誉も充分な程に得ているはず。

そんな秀吉の心の中が読み取れるかも知れない一通の書状が残っています。

それは、この朝鮮出兵を実行する七年前の一つの事件・・・

天正十三年(1585年)に起こったその事件によって処分した加藤作内(さくない)に対する処分理由や事件の経緯を書きつづった書状の中にあります。

その事件とは、最初は三十石の侍であった作内を、秀吉がたいそう気に入り、何かと取り立てて最後には美濃・大垣城を任すまでになりますが、多くなりすぎた家臣を養うため、その作内が「蔵入地(くらいりち)」に手をつけてしまった・・・というものです。

重要な要所であった大垣城の「蔵入地」には、いざ出陣!という時のため緊急の兵糧が納められていたのです。

この「蔵入地」というのは、直轄・・・つまり、ここの兵糧というのは、大垣城・作内の物ではなく、秀吉傘下全体の兵糧という事ですから、大垣だけのために使ってしまっては、「業務上横領」って事になります。

・・・で、激怒した秀吉が、作内の大垣城主を解任・・・という事になるのです。

その書状は
「石高の低い侍やった作内を取り立てて、大垣城を預けるまでにしたったのに、自分の家来のために蔵入分にまで手ぇつけるとは・・・。
俺は、あいつのためやったら日本はもちろん、
(中国)の国まで平定したろと思てたのに・・・。
分相応の家来を召抱えとったらえぇモンを、それ以上の家来を養おうとするさかい・・・ホンマなさけないやっちゃ」

・・・てな内容です。

しかし、この事件には、加藤作内の個人的な性格による物ではない、秀吉傘下の武将に共通する重大な事が秘められているのです。

それは、領地の問題です。

先ほども書いたように、大垣城は軍用の要所です。

重要な場所であればあるほど、その守りを強固にしなくてはならないわけで、作内も何も個人的な趣味で家来を増やしたわけではありません。

主君・秀吉の事を思えばこそ家来を増やし守りを固めようとしたのです。

これが、戦国の世なら近隣の領地を攻めて、奪った隣の国の領地を活躍した家来に分け与える事ができますが、秀吉の天下となった以上、それはもうできません。

そうなると、召抱えた家来の食いぶちが足らなくなったら、公共の米に手をつけるしか方法が無かったわけです。

これは、皆同じ・・・もはや、秀吉自身にも、その家臣たちにも、自分の家来に分け与える領地が、この日本には無くなってしまっていたのです。

この頃の秀吉にとって一番怖かったのは、自分の傘下の武将同士が領地を求めて争うという内紛状態になる事ではなかったかと思います。

そこには、そんな混乱を狙っている外国勢力もあったかも知れませんしね(10月12日参照>>)

続きのお話はブログ:4月13日【文禄の役・釜山上陸】へどうぞ→
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2007年3月25日 (日)

大阪・泉布観の一般公開

 

昨日、泉布観の一般公開に行ってきました~。
おかげで風邪が悪化・・・ダウン寸前ですが、行った甲斐ありのすばらしさでした~。

Senpukancc

・‥…━━━☆

泉布観は、桜の通りぬけで有名な・・・いや、硬貨で有名な造幣局から、1号線を挟んで向かい側に建っています。

明治四年(1871年)に、造幣局(当時は造幣寮)の応接所として建てられた大阪で最古の洋風建築で、重要文化財に指定されています。

完成の翌年には明治天皇もおいでになり、外国の皇帝や王族のもてなしに使用された物です。

「泉布」というのは、「貨幣」の古い言い方、観は館と同じ・・・これだけ明治の様式を残したままの洋風建築は、全国的に見ても数少ないそうです。

Senpukanberandacc_1

構造はレンガ造りの2階建て、建物の周りにベランダを配置した「ヴェランダ・コロニアル」という形式。

建物の外周にある柱は「トスカナ式」と呼ばれる物。

窓はほとんどがベランダに出られるようになっている「フランス窓」・・・ここからベランダに出てとうとうと流れる淀川の流れを見たのは、いずこからいらしたプリンスなのでしょうか・・・。

Senpukan2kaipcc

建物の中は、まさに鹿鳴館の世界ですが、豪華絢爛・・・というよりは、ベタベタした飾りつけをする事なく、あっさりとした・・・清楚という感じ・・・それでいて優雅です。

Senpukan1kaidannrocc

Senpukandanrotairuupcc 各部屋に、大きな鏡や暖炉があり、当時貴重品だったタイルがさりげなく使われています。

Senpukan1kaisyoumeicc 証明器具も、電気となった今もガス燈時代の物がそのまま使われています。

成立したばかりの明治・新政府が、貨幣造りの近代化のためにイギリスから機械や建築材料などを購入して、当時の技術の粋を集めて設けられた造幣局・・・。

当時のこのあたりは「川崎村」と呼ばれていて、大阪商人の別荘が建ち並び、淀川での舟遊びの場所でした。

その景観を崩す事なく、それでいて近代的な造幣局のお客様をお出迎えするにふさわしい最新技術の洋館建て・・・本当に力を注いで建てられたのがひしひしと感じられます。

Senpukantirecc なんと言っても驚いたのはおトイレです。

当時、どこから水源を取っていたのかは、今となっては不明ですが・・・なんと水洗なのです。

鉛の管が通っていて水が流れるようになってます。
見た目、現在の和式トイレと変わりません。

もう一つ驚いたのは、見学する時、玄関でスリッパに履き替えて中に入るのですが、このスリッパの数がちょうど50足。

そして、その注意書きには、「スリッパがないときは、中に入らないでください。」

混んでいる時は、誰かが出て来て、スリッパが戻って来たら次の人が入る・・・という事ですね。

さすがにに、明治四年の建築・・・いくら、当時の最先端でも、これだけの年月が経つと、たくさんの人の重さに耐えられないのだそうです。

Senpukanniwacc

当時は建物の横に日本庭園もあり、その庭園の池に剃り出す形で能舞台もあったそうですが、今はわずかにその跡が確認できる程度。

私は泉布観の中に入るのは2度目ですが、やはりまたまた感動でしたね。

鹿鳴館風のドレスを着た淑女が、廊下の向こうから歩いてくる・・・そんな妄想に浸っていました。

Senpukanfuzincc 今日のイラストは、
やはり鹿鳴館風の婦人泉布観のベランダに立っていただきました~。

・‥…━━━☆

詳しい行き方は本家HP:【大阪歴史散歩・泉布観の一般公開】のページで>>(別窓で開きます)
建物の間取り図や、別の写真もupしていますので、よろしければご覧こださい
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2007年3月24日 (土)

壇ノ浦・先帝の身投げ

 

寿永四年(1185年)3月24日は、平家滅亡・・・あの壇ノ浦の合戦のあった日です。

壇ノ浦の合戦も、義経の八艘飛びなど、名場面が数々ありますが、今日は『平家物語』をベースに「先帝の身投げ」の部分を中心に書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

都を落ち(7月25日参照>>)
一の谷の合戦(2月7日参照>>)
屋島の合戦(2月19日参照>>)
と、敗北した平家は、九州から壱岐箱崎に城を築くつもりでしたが、もう、そこには源氏の手の者がおり、まわりの豪族たちもほとんど源氏についてしまったため、一旦、彦島(山口県)に本拠を設ける事にします。

西へと移動する平家を追って、源氏の源義経も水軍を編成し、西へと移動します。

源氏の水軍が近づいて来た事を知った平家は、平知盛(清盛の三男)平家水軍の総大将に、23日の夕方から24日の明け方にかけて田ノ浦に軍を集結させ、壇ノ浦で迎撃をする作戦に出ます。

やがて白々と夜が明けると、お互いの目の前に軍が集結しているのが確認できました。

潮流の速度と方向の変化が激しい壇ノ浦・・・しかし、その事は平家も源氏も研究済み。

午前8時に開始された決戦は、平家が駒を有利に進めていきます。

正午頃には、源氏の陣形も乱れてしまい、守るので精一杯の状況・・・さらに、ちょうどこの頃、潮の流れが東向きに変わり、ますます平家軍が有利に・・・

「もう、だめだ・・・」追い詰められた義経・・・戦闘員ではなく、舟の舵取りを弓で狙い撃ちするよう命令を下します。

屋島に引き続き、またもや武士道もへったくれもない義経の作戦ですが、これが見事に的中!

漕ぎ手を失った平家の舟は、折からの強い潮の流れに流されはじめ、そこに、ここぞ!とばかりに急襲する源氏軍・・・。

『平家物語』では、この逆転劇の影に、阿波民部重能の裏切りがあったとしています。

源氏に寝返った重能が、平家の作戦や、どの舟に誰が乗っているかなどと言う情報を流した・・・となっていますが、これは、あまりに劇的な形勢の変化を表現したいがための作者の創作ではないか?と言われています。

やがて、午後3時・・・一旦ぴたりと止まった潮の流れは、今度は東から西へ流れ始めます。

潮の流れも源氏の味方になってしまいました。
(合戦の状況については2008年3月24日もどうぞ>>

そして、壇ノ浦に追い詰められた平家軍・・・

「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた総大将・知盛は、自分の乗る小舟を、天皇の乗る舟に近づけて言います。

「もう、これまでです。見苦しい物はすべて海に捨ててください」

女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)戦況はどうなんですか?」と聞くと、
知盛は
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったのです。

その様子を見て、「本当にもうダメなのだ」と知った女官たちは、一斉に悲鳴をあげ大慌て・・・。

しかし、ここに知盛以外にもう一人、少しも慌てる事なく、覚悟を決め落ち着いた人が・・・。

それは、亡き清盛の妻・二位尼(にいのあま=平時子)でした。

自分の娘・建礼門院徳子が生んだ安徳天皇のそばに静かに近づいて
「私は女ですが、敵に手にかかるのは嫌です。天皇さまのお供をするので、一緒に行きましょう」と声をかけます。

「いったい、どこに行くの?」
まだ、8歳の安徳天皇にはわかるはずもありません。

「まず、東に向かって伊勢神宮にお別れの御挨拶をしてください。
そして、今度は西に向かって、西方浄土の仏さまにお念仏を唱えてください。
この国は情けない国ですから、これから極楽浄土というすばらしい所へ私がお連れしますから・・・」

二位尼は、宝剣を腰に刺し、自分の言うとおりに挨拶をし終えた安徳天皇を抱き上げると
「波の下にも都がありますよ」
と、天皇に言いきかすようにして、そのまま海へと身を投げました。

立派な宮殿で大臣・公卿を従えて、一門に「蝶よ花よ」と可愛がられた天皇は、舟の上の不自由な生活から、やがて海の底へと向かったのです。

『悲しきかな、無常の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、
情けなきかな、分段の荒き波、玉体
(ぎょくたい)を沈め奉る・・・・
雲上の竜くだって、海底の魚となり給ふ・・・』

「なんて悲しい・・・無常の春の風は花のような天皇を散らし、荒波は体を海底へと沈める・・・まるで、雲の上の竜が海底の魚となるように・・・」

平家滅亡の瞬間でした・・・。

二位尼・時世
♪今ぞ知る 御裳川(みもそすがわ)の 流れには
 波の下にも みやこありとは♪

Uminomokuzuturugicc 今日のイラストは、
二位尼・安徳天皇とともに、海のもくずと消えた『草薙剣』のイメージで

安徳天皇の生存説については2010年3月24日のページでどうぞ>>
 .

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2007年3月23日 (金)

鎌倉の大仏と奈良の大仏

 

暦仁元年(1238年)3月23日、僧・浄光の発願により、鎌倉の大仏の建立が開始されました。

今日は、鎌倉の大仏のお話と、やはり、同時に思い出す奈良の大仏・・・この違いについても書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・

鎌倉幕府の正史・『吾妻鏡』によれば、そもそもは奈良の大仏の姿に感動した源頼朝が、鎌倉にも大仏を造ろうと考えたとされますが、結局は頼朝の生存中に実現する事はなく、頼朝の死後に遠江(とおとうみ・静岡)の僧・浄光たちの勧進(寄付を集めて諸国を廻る事)によって、暦仁元年(1238年)3月23日から寛元元年(1243年)にかけて、鎌倉にて、高さ八尺(約24m)の木造阿弥陀坐像が造られた・・・と記されています。

しかし、実はもう一つ、建長四年(1252年)にも、高さ八尺(約24m)の金銅釈迦如来像を造りはじめた事が伝えられています。

そして現在、いわゆる「鎌倉の大仏」と呼ばれているものは、高徳院に鎮座する高さ11mの金箔押しの阿弥陀如来像。

はてさて、これは??・・・鎌倉には大仏様が三体おられた?・・・という事になるのでしょうか?

これに関しては、
現在の高徳院の大仏が、建長四年から造られた金銅像で、その前に造られた木造像とはまったく別の物・・・
という説と、
先に造られた木造像は、後の金銅像の鋳型を作るための原型であった・・・
という説があります。

木造の仏像がまったく別の物だとしたら、「現在残っていない」という事ですから、すでに壊されている事になるわけですが、せっかく造った物を破棄して造りかえる・・・というのは、考え難い、という事で、現在では、後者の「原型であった」という説が有力視されています。

ところで、冒頭に書いた通り、「大仏」と言えば、この「鎌倉の大仏」「奈良の大仏」を、同時に思い起こしてしまいますが、同じ「大仏」と呼ばれるこの二体の仏様は、建立された過程も、そのお姿も、まったく違った仏様なのです。

奈良の大仏は聖武天皇の発願により国家事業で建立された仏様

そのお姿も『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・・・『華厳(けごん)の教えに基づく蓮華蔵界の救主で、「ビルシャナ」とは、「すべてを照らす」という意味で、太陽であり宇宙全体の事でもあり、「大日如来」と呼ばれる事もあります。

一方の鎌倉の大仏は、「鎌倉幕府に認可された」というだけで、あくまで一介の僧・浄光の努力により、長い年月を費やしてやっと建立に至った悲願の大仏です。

そのお姿も、西方浄土にいる『阿弥陀如来』・・・これは、お釈迦様の悟られた姿で“永遠”の象徴であると言われています。

「阿」は英語で言うところの「アンun・・・否定の意味です。

「弥陀」「メーター(計る)という事で、つまり「阿弥陀」というのは、「計れない」という意味・・・この場合は「計り知れない」あるいは「無限」と訳したほうがピッタリするでしょうか・・・。

ちなみに、鎌倉の大仏にも、もとは大仏殿があったそうですが、室町時代頃に風雨で倒壊してしまい(津波で流されたの説もあり)、現在は露座されておられます。

なんせ、3月12日のページ(3月13日参照>>)にも書かせていただいたように、国家事業で建立された奈良の大仏でも、度重なる兵火で燃えてしまい、江戸時代の僧の努力で今のお姿があるわけですから、国家がタッチしていない鎌倉の大仏様なら致し方ないところ・・・

いや、もはや奈良の大仏が、造像当時の部分が台座の一部のみになっていまっている事を考えると、むしろ、造像当時のまま、ここまで残ってくださった事を奇跡と思うしかありませんね。

なんとか、今の状態を維持して、後世に残していただきたいものです。

Mandarahotokecc_1
今日のイラストは、
「曼荼羅風」にしてみました~。

あくまで「風」です・・・本物の曼荼羅はちゃんと仏様の階級通りに並んでいただかないといけませんから・・・
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2007年3月22日 (木)

埴輪の使用目的は?

 

大化二年(646年)3月22日、大規模なお墓の建設や、家来などの殉死を禁止する法律薄葬令が発布されたそうですが、大規模なお墓と言えば、仁徳天皇陵などに代表される巨大古墳を思い出しますね。

・・・って事で、今日は巨大な古墳のお話を・・・

・・・・・・・・

仁徳天皇陵の大きさは全長486m、10tトラックで25万台分の土が使われているとの事。
昔と同じ方法で今造るとしたら、工事期間は約15年、総動員数680万人、費用は796億円かかると言われています。

現代の最新ユンボを使って建造したとしても2年半かかり、人員は2万人と少ないものの、費用は20億円はかかるそうです。

仁徳天皇陵に使用された埴輪の制作費だけでも、手づくりなら60億円、機械で大量生産しても16億円くらいかかるだろうと言われています。

やはり、この大きさは「権力の証し」って事だったんですかね。

Oozin_003a1000
全国2位の応神天皇陵(大阪府羽曳野市)

ところで、古墳に大量に並べられた埴輪・・・この埴輪が、殉死者の代用だったというのは本当なんでしょうか?

『日本書紀』によりますと、垂仁天皇の二十八年。

天皇の弟・倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなり、身狭桃花坂(むさのつきさか)に葬られた時、やはり、何人かの近親者や家来が、陵域に生きながら埋められ、殉死させられました。

それからしばらくの間、昼も夜も泣き叫ぶ声が聞こえたため、天皇は今度、皇后の日葉須媛(ひばすひめ)が亡くなった時は、もう殉死をやめて、何かそれに代わる方法をと考えます。

側近の野見宿禰(のみのすくね)が提案するには「出雲から土師部(はじべ)を呼び寄せ、埴土で人や馬など、様々な物を造らせて、これを代わりにしましょう」との事。

Haniwagamacc この意見が採用され、この土物(はに)「埴輪」と呼ぶ事にしよう・・・となった、というものです。

しかし、考古学の検知から見ると、この記述は時代があわないのだそうで、このお話は、天皇がやさしい人だという事と、土師(はじ)氏の活躍を語りたいがための創作であると考えられています。

今では、埴輪は供物用の土器が進化した物ではないか?というのが一般的なようです。

Haniwacc 供物を入れるための器に様々な「かざり」をつけているうちに、人や馬の形のなり、さらに「かざり」の方が重要視されるようになったと言うのです。

後期の古墳にある埴輪の並びかたを見てみると、供献や葬送儀礼に反する並べ方がされている物が多々あるそうで、おそらく、最終的には単なる古墳の「かざり」であったのだろう、という事です。

Umagatahaniwacc それにしても、「魏志倭人伝」「邪馬台国」から「大和政権」が確立するまで・・・この歴史が空白になっている4世紀に、突如として現れる巨大古墳たちは、何やらその間のミステリーの謎解きのヒントを提示してくれているかのようですね。

ただ、古墳の中でも天皇陵とされる物は、宮内庁の管理下にあるため、学術的な調査ができないのが歴史好きとしては残念な気がしますが、よく考えれば、御先祖様のお墓をあばくわけですから、やはり、ご子孫のかたの賛成なしには、ムリという物でしょうね。

つい最近、大規模な石組みが発見された大阪・高槻市の今城塚古墳。

ここは、「真の継体天皇陵」と囁かれていますが、宮内庁がこの近くにある茶臼山古墳を継体天皇陵としているため、逆に、今城塚古墳のほうは発掘調査が可能となり、考古学者の方々はわくわくしながら調査なさってるようですね。

新たな発見に期待します。

HPでは、古墳の種類や造り方についてビジュアルでわかりやすく解説しています。
よろしかったらコチラからどうぞ→

写真でご紹介した応仁天皇陵、埴輪の窯跡などがある大阪・古市古墳群への歴史散歩コチラからどうぞ→

Tokeikofuncc
今日のイラストは、
何となくミステリアスな「時の旅人」という雰囲気で・・・。

タイムマシンが欲しいですね~。
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2007年3月21日 (水)

うかれ女・和泉式部の恋のテクニック

 

今日、3月21日は、平安時代の歌人・和泉式部のご命日・・・年ははっきりしないのですが、応徳元年(1084年)頃ではないか?と言われています。

・・・・・・・・・

和泉式部は、越前守・大江雅致(まさむね)の娘で、和泉守・橘道貞の妻となったので「和泉式部」呼ばれるようになり、本名は定かではありません。

あの『百人一首』には、彼女の歌が収められていますので、御存知のかたも多いでしょう。

♪あらざらむ この世の外(ほか)の思ひ出に
 今ひとたびの 逢ふこともがな♪

(病魔に犯されている私は)もう、長くはないわ。。。せめてあの世へのお土産に、もう一度だけ、あなたに会えないかしら」

おぉ・・・悲しい・・・切ない・・・この恋を何とかしてあげたくなるような歌じゃありませんか!

もしも、男友達に元カノからこんなメール(歌)が送られてきたら「会いに行ってやれよ!」と、9割がたの男性諸君が友達の背中を押すに違いあいませんよね。

・・・と、思ったあなた。

見事に和泉式部のテクニックにハメられ、恋のアリ地獄に引きずり込まれてしまいましたね。

実は彼女は、あの藤原道長から「うかれ女(め)というニックネームをつけられるくらいお盛んな女性だったのです。

Heianhime120 「うかれ女」とは・・・
かっこよく言うと「恋多き魔性の女」
下世話な言い方をすると「オサセ」

とにかく次から次へととっかえひっかえ恋に走っています。

以前、結婚の歴史(1月27日参照>>)でも書きましたが、平安時代の恋愛事情というのは、かなり自由奔放で、男性も同時に何人もの女性のもとへ通うのは当たり前

女性だって、積極的にアピールされれば、つい受け入れてしまうのが常でした。

なんせ、明確な婚姻届を提出するわけではありませんし、通い婚で、男が通って来ているから夫婦・・・しかし、その男はひょっとしたら、明日はもう通って来ないかもしれないわけで、もし、そうなって「バツイチ」になっても、勲章にこそなれ、汚点になるような事はなかった時代です。

そんな自由恋愛の時代に、さらに「うかれた女」とは・・・

実は、彼女の場合、ほとんど自分からのアピールから始まった恋

自由な恋愛であっても、女性はあくまで受身の態勢だった時代に、かなり積極的な彼女の態度が「うかれ女」なるニックネームをつけられる要因となったのです。

まず、彼女の最初の結婚相手は、和泉式部という呼び名のもとにもなる和泉守・橘道貞・・・和泉式部、15歳の時でした。

道貞は、この時点でかなりのオッサン。

少女時代から浮名を流した彼女が、こんなオッサンと結ばれたのは意外ですが、それ以上に以外なのは、そんな若い嫁がいるにもかかわらず浮気が止まらない道貞さん。

結局、他に女を作って逃げるように地方に赴任して行き、最初の結婚生活はthe end

しかし、彼女は嘆きません。

「アンタの事なんか、一生思い出さないわよ!」という、捨てゼリフを残して、さっさとサヨナラしています。

それまでは、何だかんだ言いながらも、未だ受身の恋だった彼女が、積極的に行動を起こすようになるのはここから・・・さて新たな恋の始まりです。

冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王という超エリートのイケメン・モテモテ皇子と恋に落ちるのです。

為尊親王も、かなり積極的で、祭りの夜に同じ車に二人で乗り、わざわざ簾(すだれ)を開けて、都じゅうに二人の関係を見せつける・・・なんて事もやってましたが、残念ながらこの恋もそう長くは続きませんでした。

それは、為尊親王の病死・・・んじゃぁ、しかたないよね。
・・・と、思ったのもつかの間。

なんと、彼女は為尊親王の葬儀で、お経をあげに来た僧侶と関係を持ち、ついでに警固についた侍とも関係を持ってしまいます。

さらに、その翌日、稲荷参拝の途中で見かけたイケメンもゲット

そりゃ、「うかれ女」とも言われますよ~。

それなのに、まだ、彼らには「高貴な香りがしない」と、今度は、亡き為尊親王の弟・敦道(あつみち)親王に、猛アタック!

すでに、二人も妻がいる敦道親王が、「なかなか和泉式部に会いに行けない」と言うので、彼女のほうから、彼の別荘に会いに行ったり、駐車場に止めた彼の車に出向いたり・・・と、当時の受身重視の女性には考えられない行動力を発揮する彼女。

そんな彼女に夢中になってしまった敦道親王は、とうとう彼女を宮廷へと招き入れます。

「ヤッター、これで毎日会えるじゃん!」って思ったのもつかの間、またまた敦道親王が病死してしまいます。

やがて、彼女は、ときの天皇・一条天皇の后・彰子に仕えますが、ここで、あの紫式部と同僚になり、「うかれ女」というニックネームもこの頃つけられるのです。

しかし、そんな彼女も年はとります。

結局、藤原道長のすすめに応じて、丹後守・藤原保昌(やすまさ)と、2度目の結婚をして年貢の納め時を向かえます。

それにしても、彼女のスゴイ所は、これだけの男遍歴があるにもかかわらず、彼女の事を憎む人がいない・・・という事です。

たしかに「うかれ女」というニックネームをつけられました。
あの紫式部にも「けしからん女」と悪口を書かれました。

しかし、あれだけ他人の悪口を日記に書きたおす紫式部でさえ、「けしからん」と言いながらも、「歌がうまくて、手紙が上手で頭の良い人」と、心から憎いとは思っていないようです。

しかも、声をかけた男が皆振り向き、夢中になるというモテぶりです。

実はそれこそが、彼女の恋のマル秘テクニック

最初の歌をもう一度思い出してみてください。
哀れを誘う恋に破れた女・・・。

そう、彼女は「フラレ女」を演じきっているのです。

もちろん、それは恋が終った時だけではありません。

恋が順調に進んでいる真っ最中でも「私はいつか捨てられのね」と歌ってみたり、「私ってどうして、いつもこうなんだろう」と嘆いてみたり・・・。

男には、「寂しがり屋で一人にしておけない女」と見せ、同性の女には「私より不幸な人・・・」と思わせる事に成功しているのです。

Dscn4700a700 まさに、見事なテクニック!

恋の悩みも聞いてくれるという京都の貴船神社には、彼女の歌碑が立っています。(写真→)

恋に破れ、訪れた彼女・・・。

♪もの思へば 
 沢の蛍も わが身より
 あくがれいづる
 魂かとぞみる♪

「恋に悩んでここまで来ると、川一面の蛍・・・その光は、まるで私の魂が体から抜けて出ていってるようだわ」

すると、神様が男の声で歌を返したのでそうです。
(彼女がそうだったと言い張るので・・・)

♪おく山に たぎりて落つる 滝の瀬の
 玉散るばかり ものは思ひぞ♪

「しぶきをあげて飛び散る山奥の滝の水玉の(魂が抜けて飛び散った)よう君、そんなに悩まなくていいよ」

いやはや、神様にまで、「フラレ女」を演じきるとは、たいしたもんだ。

こうなると、恋のテクニックというよりは、もう生まれながらにして身についたワザとしか言いようがありませんね。

最後に彼女の恋テクの歌を・・・もう、現代語訳はいりません、雰囲気でわかります。

♪つれづれと 空ぞ見らるる 思ふ人
 天下り来む ものならなくに♪

♪憂(う)きことも 恋しきことも 秋の夜の
 月には見ゆる ここちこそすれ♪

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2007年3月20日 (火)

神社の鳥居の起源・種類

 

桜の開花予想が毎日のニュースで聞かれる今日この頃・・・今年は「気象庁の計算ミス」という話題もついて、神社・仏閣巡りには最高の季節を迎えようとしています。

何も遠くまでいかなくても、身近で、静かに落ち着ける場所はいくらでもあるはず・・・そこに名も無き春の花たちが可憐に咲いていれば、なおよろしい。

・・・て、事で今日は、神社の鳥居に関する豆知識を書きたいと思います。

・‥…━━━☆

Kitannotenmangutoriicc まず、だいたいおわかりでしょうが、鳥居は神域を示す物・・・つまり、「そこから中は神様の領域ですよ」とういう意味です。

漢字での表記も様々あります。

「天門」「神門」「華(花)表」「額木」「鶏栖」「助木」「華門」「鶏居」「衡門」「華極」「鳥井」・・・と、これ全部「鳥居」の事です。

Hasihimezinzyatoriicc

しかしながら、鳥居の起源はと言うと、これが、多々あってはっきりしません。

とりあえず、私が知るかぎりの由来を書かせていただきますね。
 

  • 朝鮮半島から伝わった説
    朝鮮半島の廟や村の入り口に建てられた赤い門・紅箭門(こうせんもん・フンサルムン)が、日本に伝わった。
  • タイから伝わった説
    タイの高門(ソム・プラト)が日本に伝わった。
  • 古代の防御策説
    古代の竪穴式住居の集落で家を守るために入り口に二本の柱を立てて垣根のようにした。
  • 「於不葺御門」説
    延暦二十三年(804年)に建てられた「於不葺御門(うえふかざるもん)」が、屋根の無い門だと思われる事から、これが起源ではないか?という説。
  • 陰陽道起源説
    右の柱が女柱で、左の柱が男柱で陰と陽を表している。

この門のような物を「とりい(鳥居)と呼ぶ名前の語源も、色々あります。

  • 古代インド説
    古代インドで門をトラーナ(Torana)と呼ぶから。
  • 中国の門柱=華表説
    華表と書いて「とりい」と読む苗字があるのが、その証拠である。
  • 「通り入る」説
    神社に入る時必ず通るので「通り入る」と呼ばれ、それが訛った。
  • 大臣参拝説
    大臣のようにエライ人が通るので「臣入る(とみいる)」と呼ばれ、それが訛った。
  • 「ここで待っとけ」説
    昔、身分の低い人の事を「鳥」と呼んでいて、身分の高い人が神社に参拝する時、従っている低い人は中に入れてもらえず、「鳥はここに居ろ」と、ここで待つように言われた場所だから・・・。
  • 「鴨居」と同じ説
    住宅のなげしの下にある横木の事を「鴨居」というのと同様に「鳥居」と呼ばれるようになった。
  • 「門居」変化説
    門の事を門居(かどすえ)と呼んでいたのが、門=戸であるところから「とすえ」と呼ばれていたのが、さらに変化して「とりい」となった。
  • 記紀神話由来説
    神話の「天の岩戸隠れ」の時、天照大神を出すために長鳴鳥(ながなきどり・鶏)を横木に止まらせたという話から、この横木の事を「鶏栖(とりい)」「鶏棲木(とりすぎ)」と呼んだ事から。

起源も、名前の由来も、どれも、決め手となる物がないのが現状ですが、これは、「それだけ古い時代から鳥居という物が存在した」という証しでもあるわけで、ひょっとしたら、神話が誕生するもっと以前にその起源がさかのぼる可能性もあって、とてもわくわくしますね。

Toriimeisyoucc 鳥居の形は、二本の縦柱に、笠木・島木・貫という3本の横木から造られている単純な形なので、一見どれも同じように見えますが、実はちょっとずつ違います。

その少しの違いが一つ一つの種類だと見ていくと、ものすごい種類の数になるのですが、大きく二つに分けて、「神明」系と、「明神」系に分かれます。

「神明」系は、シンプルで横木には島木がなく、笠木と貫の二本で、縦柱もまっすぐな物が垂直に立っています。
見た目、直線的な感じがするのが、この「神明」系でしょう。

素材も丸太などをそのまま使用したりしている物もあり、そこもシンプルです。
伊勢神宮靖国神社熱田神宮鹿島神宮などが、この「神明」系の鳥居です。

それに比べて「明神」系は、仏教建築の影響を受けていて、やや曲線的。
横木は、笠木の下に島木が添えられていて、両端が反っているのもあります。
これを「反増(そりまし)と言います。

柱も地面に垂直ではなく、やや斜めに立ち、根元に行くほど太くなっている物もあります。
これを、「ころび」と言います。

奈良の春日大社や大阪の住吉大社、京都・石清水八幡宮や安芸の宮島の厳島神社も「明神」系になります。

Toriisyuruicc

また、奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社のように、横木がなく、縦柱二本の間に縄を張り巡らせたような物もあり、これも鳥居です。

Dscn0566a900
大神神社の鳥居

また、数は少ないですが、寺院に鳥居がある場合もあります。
大阪の生駒にある宝山寺や東京・品川の東福寺弘法大師堂などにも鳥居があります。

今年は今頃になって寒い日が続いてますが、春は確実にやって来ています。
春の香りを求めて、お近くの神社の鳥居がどっち系なのか、見に行ってみてはいかがですか?
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2007年3月19日 (月)

真田幸村(信繁)、最後の手紙

 

慶長二十年(1615年)3月19日付けで、真田幸村義兄・小山田茂誠・之知宛に最後の手紙を送っています。

・・・・・・・・・

前の年の11月に勃発した大坂冬の陣(11月29日参照>>)

12月4日の真田丸の攻防(12月4日参照>>)では、真田幸村(さなだゆきむら=信繁の作戦で、見事!徳川家康に一泡ふかせた豊臣軍でしたが、じわじわと精神的に追い詰める家康の作戦に、開戦から1ヵ月後の12月19日、結局、豊臣側は不利な条件を承知で講和に応じました。(12月19日参照>>)

講和条件の中に、「豊臣秀頼が大坂城内に浪人を招き入れた事を罪に問わない」というのが含まれていたため、九度山を脱出して(10月9日参照>>)馳せ参じた真田幸村も、ひとまずは安全を保証されたわけで、お正月を迎える頃は、ひとときのやずらぎをかみしめていたようです。

最後の手紙の前に、幸村さんは正月24日付で、実の姉・村松さんに手紙を出しています。

「今回は、思いがけず合戦となって、我々も大坂城に来る事になってしまったけれど、その気持ち、わかってくれますよね。

僕も、もう死ぬかも・・・って思ってたけど、とりあえず講和って事になって、無事、何とか生きてます。

こんな状況だから、明日はどうなるかわからないけど、今んとこ無事に平穏な日々を過ごしてます。

いろんな事、話たいんだけど、何やかんやで忙しくって・・・。
とりあえず、近況報告しとこうと思ってね。」

今風にすると、こんな感じですかね。

勇猛果敢な武将からは想像できないようなやさしい手紙に、いかに心穏やかに過ごしていたかが伺えますね。

しかし、心穏やかな時もつかの間、家康は豊臣方がやるはずだった外堀の埋め立て工事を、「お手伝い」と称して、徳川方の人夫を総動員して一気に仕上げ、講和条件に入っていなかった内堀まで埋め立て始めます。

家康と秀忠が大坂を去るのを見届けた豊臣方は、当然約束になかった内堀を掘り起こし始め、新たに浪人を集め始めます。

しかし、この行動を家康はお見通し・・・というより、はなから狙ってた感がありますね。

家康は徹底的に、豊臣を潰したいわけですから・・・。

やがて、3月12日、家康のもとに「大坂方が挙兵の準備をしている」との報告が入ります。

家康は、すぐに駿府を出て、京都の二条城にいる秀忠のもとへ行き、次の戦いに向けての準備を始めます。

最後の幸村さんの手紙はちょうどこの頃書かれた物です。

日付は慶長二十年(1615年)3月19日・・・

宛先は、本家の信州上田藩主・真田信之の家臣・小山田壱岐守茂誠(しげよし)と、その子・主膳之知(ゆきとも)

この茂誠さんは、先ほどの姉・国松さんの旦那さんなので、つまり義兄と甥っ子に宛てた手紙という事です。

「秀頼さんは、随分僕の事を信頼してくれてるみたいなんですけど、なんせ浪人から取り立ててもらった立場でしょ・・・大坂城には、大勢の直臣がいるから、気ぃ使いますよ。

とにかく、毎日頑張ってます。

何事もなければ良いなぁ~とは思ってますが、今の平和もいつまで続くかわからないし、明日どうなるかも予想できないこの頃です。

僕は、もうこの世にはいないものと思っていてください」

大坂城内が、少しあわただしくなってる雰囲気が手紙にも出ていますね。

事実、この後、3月26日には、徳川方で一回めの軍儀が開かれ、4月13日には、大坂城でも徳川を迎え撃つための作戦会議が開かれます。

幸村さんの思いとはうらはらに、5月の大坂夏の陣に向けて徐々に時代は動きはじめました。
(大坂の陣について【大坂の陣の年表】でどうぞ>>)

結局この3月19日の手紙が、真田幸村の最後の手紙となります。

Yukimurategamicc 大好きな幸村さま・・・
いつまで若いままやねん!
やっぱ、イラストにする時は20代の雰囲気で・・・。
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2007年3月18日 (日)

青い目の人形・到着

 

昭和二年(1927年)3月18日、アメリカから送られた「青い目の人形」が日本に到着しました。

・・・・・・・・

「青い目の人形」という歌をご存知ですか?
♪青い目をしたお人形は
 アメリカ生まれのセルロイド・・・♪

という歌いだしで始まる唱歌です。

最近は音楽の教科書にも載ってませんし、若いかたはご存知ないかも知れませんね。

私が小さい頃は、ほぼ全員が知ってるけっこうメジャーな童謡でしたが、最近はまったく耳にする事がなくなりましたね。

この歌は、この昭和二年(1927年)3月18日に、アメリカから送られた人形たちの事を歌った歌なのです。

当時、日本とアメリカの関係は、以前と比べて徐々に冷たいものになりつつありました。

日本で20年間、宣教師を務めていたシドニー・ギューリックさんは、その事を嘆き、何とかできないものか?と考えてしました。

そして、彼はアメリカに帰ったのをきっかけに「アメリカの人形を日本の子供たちにプレゼントして、民間レベルでの交流をやってみよう」と思いつきます。

この運動は、彼の予想をはるかに超えて大きく広がり、教会や学校関係者・約260万人分もの募金が集まります。

こうして集められた募金で用意された1万2千700体の青い目の人形には、それぞれにパスポートが用意され、着替えのお洋服や靴まで持たせてもらって、船に乗り、太平洋を渡って、この日、日本にやって来たのです。

到着した人形たちは、小学校や幼稚園に送られ、各地で歓迎式など行われ大いに盛り上がりました。

もちろん、その後、日本からもお礼に・・・と、人形を受け取った学校の児童たちからの寄付で購入した58体の日本人形がお返しとして贈られました。

しかし、この人形たちは、後の世界情勢にその運命を翻弄される事になります。

そう、太平洋戦争です。

それぞれの人形が海を渡ってから14年後、日本とアメリカは敵と味方に別れて戦う事になってしまいました。

敵国の産物となってしまった人形の多くは処分され、日本では敵国・アメリカの象徴として見せしめのように、大勢の目の前で壊されたりもしました。

しかし、中には、非国民と呼ばれる事を覚悟して、大事に持っていた人もいたのです。

幸いな事に、現在のところ、日本では200体の「青い目の人形」の現存が確認されているそうです。

その中の一つ、群馬県の小学校に送られた「メリー」という名前の人形は、その小学校の教頭先生が大事に箱に入れて保管されていたそうです。

その先生がおっしゃるには、「私は、自分の教え子たちを、戦争へ行かせたくはなかった。このお人形のように大事に箱にしまっておきたかった。」のだそうです。

子供たちの身代わりだと思って大事にしていたんですね。

そして、アメリカに渡った日本人形は、そのうちの約半数が無事確認されているそうです。

その中の一つ、ノースカロライナ州立自然博物館に戦時中にもかかわらず飾られ続けていた「ミス香川」という名前のお人形には、「我々は平和と善意を、そして人間どうしが自由であるという信念を、今も捨ててはいない。この人形はかつての親善を表す友情の人形である」という意味の説明文がつけられていたそうです。

現存する人形たちは、戦火をくぐり抜けた友情の証し・・・次の世代にも受け継いでいってもらいたいお話です。

Aoimeningyoucc
今日のイラストは、
両国のお人形にしっかりと手をむすんでもらいました~。

握ったその手は、もう、離さないでね!
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2007年3月17日 (土)

謙信の死後・御館の乱

 

天正七年(1579年)3月17日、上杉謙信の後継者争い・御館の乱の最終決戦・御館の攻防戦がありました。

・・・・・・・・・

前年(天正六年)の3月13日に、この世を去った上杉謙信(3月13日参照>>)

以前、このブログでも書いたように、女だと疑われてもしかたがないくらい、女性との浮いた噂のなかった謙信(ブログ:1月21日参照)には、あたりまえですが実子がいません。

彼には、姉・仙桃院(せんとういん)の子・景勝北条氏政の弟・景虎(氏秀)、能登畠山・政繁と、三人の養子がいたのですが、上洛を決意し「さぁこれから天下を狙うゾ!」と思った矢先の急死でしたから、誰を後継者にするか、まったく明確にしていなかった事で、当然、後継者争いが勃発する事になります。

三人の養子の中で、政繁は、重臣である上条氏を継いだので、この時の後継者争いは景勝と景虎の二人の争いとなります。

そんな中で、謙信の死後、景勝はすばやく行動を起こします。

景勝は、上杉家の本拠地であった越後・春日山城を占拠し、「謙信の遺言であった」と言い切って、上杉家の家督を相続する事を宣言します。

しかし、そんなもん、景虎が黙って見過ごすはずはありません。

なんせ、「景虎」です。
謙信が「謙信」と名乗る前の「景虎」という名前をもらっている以上、自分が後継者になってもおかしくない!と思っていたはず・・・。

それから間もなくの5月5日には、大場(上越市)景勝派と景虎派の最初の激突となり、それからは越後内は真っ二つに分かれる事となりました。

その後、5月16日には、景虎方が春日山城下にに侵入、民家3千軒を焼き払い、春日山城を取り囲む形になりました。

景虎は、かつて謙信が建てた関東管領・山内上杉憲政(のりまさ)の館である御館(おたて)に拠点を置き、優位に戦いを進めて行きます。

この時点で景虎の兄・北条氏政と、その氏政の妹を妻に持つ武田勝頼は、景虎につく事を表明・・・まさに鬼に金棒。

この戦いは景虎が勝利するものと誰もが思い始めていました。

しかし、景勝が占拠していた春日山城には、謙信の残した膨大な遺産が残っていたのです。

この巨額の軍資金の存在は、徐々に景勝に運気をもたらしていきます。

やがて、景勝は、その大金を積んで武田勝頼を抱き込む事に成功し、この争いに干渉しない約束を取り付けました。

こうして、形成は景勝に傾きながらも、まだまだお家騒動は続き、春日山城下も御館も、町並みがほとんど灰になってしまうほど・・・

そしていよいよ天正七年(1579年)3月17日、御館が、武田からも孤立し、北条からの援軍も雪で来ないと判断した景勝は、御館に総攻撃をかけます。

壮絶な戦いの末、落城する御館・・・景虎は、その中から脱出し、兄を頼って信州を経て小田原城に向かおうとしますが、景勝軍に追撃され、越後・鮫ヶ尾城で包囲。

追い詰められた景虎は3月24日「もはやこれまで!」と切腹し果てました。

その間にも、景虎の息子の道満丸と道満丸を守っていた御館の主・憲政は殺されてしまいます。

最初は人質として越後にやって来た景虎・・・。

その後、謙信の養子となるわけですが、思えば戦国という時代のために数奇な運命に煩労された人ですね。

かなりのイケメンで、謙信も大いに気に入っていたそうで、一説には景虎には関東管領としての山内上杉氏を景勝のほうには戦国大名としての上杉氏を継がせたいと思っていたらしいと言われていますが、

謙信さん・・・急死とは言え、ちょっとその事を何かにしたためておけば・・・と思ってしまいますね。

それでも、やっぱり戦いは起こったのでしょうか・・・。

Bisyamontencc_1
今日のイラストは、
後継者争いのイメージで・・・。

毘沙門天は四天王で十二天の一つ。
常に説法を聞く事から多聞天とも呼ばれ、須弥山(しゅみせん)・中腹の北側に住み、夜叉を率いて北方を守ります。

謙信が帰依した戦勝護国の神は、謙信亡き後の上杉家を、どのように思って見たでしょう。
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2007年3月16日 (金)

日本で最初のバーゲン!

 

明治四十一年(1908年)3月16日、東京の松屋呉服店が、この日から18日までの3日間「安売りをすると宣言し、新聞紙上に大々的な広告を打ち出しました。

・・・・・・・・・・

これは、今で言うところのバーゲン・・・

そう、この明治四十一年(1908年)3月16日・・・日本で初めてのバーゲンセールが実施されたのです。

当日は開店前から長蛇の列。

朝・10時の開店と同時に、売り場にはお客が殺到し、てんやわんやの大騒ぎ・・・開店1時間後の11時には、入場制限をするほどだったそうです。

なんか、今とかわらない光景にほのぼのした気分になっちゃいますね~。

その内容を見てみると・・・

女丸帯:平日=20円を
     
当日=16円
お召し縮緬(ちりめん):平日=15円
     
当日=12円
秩父銘仙類:平日=5円を
     
当日=4円

んん?
そんなに大騒ぎするほど安くもありませんね~。

半額にもなってない・・・2割引って感じでしょうか。

しかし、この時代「有名店が正札から値引きをする」なんて事は考えられない事だったんです。

さらに、大々的に新聞広告までやって、今までの常識を打ち破ったこの商法。

もちろん、これが大成功した事によって現在の半期に一度の有名ショッピングモール・有名ブランドバーゲンにつながっていくわけです。

常識を打ち破った商法・・・と言えば、少し時代をさかのぼって江戸は延宝元年(1673年)、常識を打ちち破る呉服店がオープンしました。

その店の表の看板には、「よろず現金、掛け値なし」と書かれています。

それまでの呉服商というのは、すべて訪問販売で、しかも支払いは年2回のまとめ払いでした。

時代劇などで、お嬢様が自宅の座敷に反物を並べて「どれにぢようかしら?」なんてシーンを見かけますよね。

あれは、別にお金持ちだから呉服屋を家に呼んで買い物するんじゃなくて、ごく一般の人もそういう買い方だったのです。

ところがそれを、ま逆に・・・“店に商品を並べてお客さんが現金を持って買いに来る”という、今ではあたりまえのシステムをここで、初めてやってのけたのです。

それが、越後屋呉服店・・・現在の三越です。

店構えは大きく、広いフロアに種類別に反物を陳列し、ある者は絹織物、ある者は羽二重・・・と商品別に担当を受け持った何十人もの手代が、お客さんの対応をします。

先に書いたように、すべて店頭販売の現金払い、値切っても一切値引きはしない、そのかわり、すべての商品に値札をつけ、いくらなのかを明確にし、その値段は他店より安い。

しかも、反物が一反もいらない時は半分に切って切り売りしてくれるし、急ぎの場合は、少し待っている間に、常駐しているお抱え職人が即座に仕立ててくれるという、まさにズボンのすそあげ方式。

今の小売店の基礎がここに集約されてますね。

この合理的な新商法は、またたく間に江戸中の大評判となり店は大繁盛しました。

まぁ、その後の財閥の発展を見れば、繁盛した事は言わないでもわかりますが・・・。

ついでに、余談ですが、この越後屋・・・無料の傘の貸し出しもやってました

お店で買い物している間に、外で雨が降り出して来て、困ったお客さんに「どうぞ、ご使用ください」と傘を差し出します。

その傘には、大きく『越後屋』の名前が書かれていて、その傘をさして町を歩くお客さんは、まさに歩く広告塔・・・まく考えましたね。

今ではあたりまえの商法・・・でも最初に考えた人はすばらしい!

何十年・何百年経ってもその方法が行われているというのは、いかにすばらしかったがわかりますね。

Selecc
今だとこんな感じの広告なのかな?・・・と、
想像して書いてみました~。
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2007年3月15日 (木)

邪馬台国はどこか?を見て

 

今日は、本当は別の話題を準備していたのですが、昨夜の10時からの『歴史の選択~邪馬台国はどこか?』を見たために、急激に自分の中で盛り上がってしまい、今日は邪馬台国について書かせていただく事にしました。

・‥…━━━☆

私は、単なる歴史好きで、専門家ではありませんから、それこそ番組中で、アナウンサーさんがおっしゃっていたように、「命賭けてる人」もいらっしゃるわけで、そんなかたがたから見れば、笑う価値すらないものですが、単なる歴史好きは単なる歴史好きなりに、自分の考えのような物があるわけで、まぁそこんとこは素人の独り言だと思っていて下さい。

今日の番組では、「邪馬台国は畿内か?九州か?」というので、アナウンサー二人がそれぞれの意見の代表者の立場をとって、遺跡や出土品、古墳や魏志倭人伝の記述などから様々な史料を取り上げて「このような史料があるから九州だ」「いや畿内だ」と提示して、携帯電話と地デジで視聴者が投票する、という進行でした。

そんな中・・・
私は、初めて歴史の教科書を見たときから、ず~っと不思議に思っているのですが、なぜ?まず『邪馬台国』ありき、『魏志倭人伝』ありき、なのか?が、どうもわからないのです。

私が、学校で習ったのはずいぶん前なので、現在の教科書にどのように記載されているのかよくわからないのですが、『古事記』と『日本書紀』というわが国の歴史と『魏志倭人伝』はそんなに差がある物なのでしょうか?

たしかに『古事記』『日本書紀』というのは、それまでの歴史書を抹殺して、大和朝廷が書き上げた物ですが、それらが100%デタラメで、『魏志倭人伝』が100%正しいのでは決してないはずです。

どちらにもウソの部分があり、どちらにもホントの部分があると思うのです。
たしかに、畿内か?九州か?の論議も重要な事ですが、どれがウソでどれがホントなのかという事の重要性が教科書(私の時代の教科書です)からはまったく見えて来なかったのです。

そもそも『邪馬台国』『卑弥呼』の事が記されている『魏志倭人伝』・・・『魏志』は中国の晋の時代に編さんされた『三国志』の一つで、その中に倭人の項があり、そこに『邪馬台国』と『卑弥呼』が出てくるんですよね。

それは、の前のの時代に貢物を持ってきた邪馬台国の使者が、自分の国の話をしたのを聞いた漢の時代の人の事を聞いた魏の時代の人が書いた本を見ての時代の人が書いたという事になってたと思います。

「友達の友達の話やねんけど・・・」と言った話の怪しさは誰もが感じるところです。

1299年のマルコポーロ『東方見聞録』でも、日本の位置や蒙古襲来の出来事がかなり正確に書かれている反面、「日本人は食人の風習がある」といった事も書かれています。

ただ、『東方見聞録』が、マルコポ-ロ個人の記録であるのに対して、『魏志倭人伝』は国をあげて正確な歴史書を作ろうとして書かれているので、同じように考えるのは良くないかも知れませんが、やはり、間違った事が書かれている部分があるのは確かです。

もちろん、その事を日々研究されている専門家のかたもたくさんおられるわけですが、一般的な場所で議論される事が少ないような気がしています。

・・・で、今日の番組のテーマでもある「畿内か?九州か?」という事に関しては、私は女性のアナウンサーさんがおっしゃってたように、九州から畿内に移動したのではないか?と思っています。

ただ、「九州にあった邪馬台国が、畿内に移って大和政権になった」という表現とは少し違って、九州にあった時から大和政権であったというニュアンスです。

おそらく、邪馬台国からやって来た使者は、自分の国の名前を聞かれて大和(やまと)と答えた。
・・・で、それを聞いた中国の人が漢字で書いたので『邪馬台国』という表記になったのでしょう。

現在でも、中国の人は固有名詞を、聞いた音に漢字をあてて表記しますよね。

たとえば、ビル・ゲイツさんの事を、『比尓・盖茨』と漢字で表記して、「ピーアル・カイツー」と発音してます。

それと同じように「やまと」と聞こえたから『邪馬台』と漢字で表記して、邪馬台という国だから『邪馬台国』

当時から、国内では大和と言っていたのだでしょう。

ですから『卑弥呼』は「ひめみこ」ではないかと・・・。

最初の女帝・推古天皇(3月7日参照>>)の名前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)

夫・天武天皇の後を継いで、藤原京を完成させた持統天皇鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と呼ばれていました。

きっと、邪馬台国から・・・いえ、大和から来た使者が王の名前を「○○のひめみこ」と言ったのを、「ひめみこ」の部分だけ取って『卑弥呼』と書いたんでしょうね。

そして、大和の国は長い時間をかけて九州から畿内へ移動って来たのだと思います。

長い時間・・・というのは、人が長い時間をかけて旅をしたという意味ではなく、都が長い時間をかけて移ったという事です。

ですから、私としては九州も畿内も、邪馬台国であり大和政権であったと思います。

これは、『記紀』に見る神武東征の話と一致する事でもあります。

もちろん、移動した先々には、スサノヲと大国主の出雲王朝も、ニギハヤヒとナガスネヒコの河内王朝などの国もすでに存在していて、それらを占領、あるいは統合しながら・・・という事になりますが・・・。

やはりここは、専門家の方々に、『魏志倭人伝』と『記紀』との事実の部分の点と線を結びつけていっていただいて、遺跡からの史料を重ね合わせ、更なる解明に期待したいと思います。

Himikocc 卑弥呼・邪馬台国と言えばこんなイメージでしょうか・・・。
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2007年3月14日 (水)

五箇条の御誓文・発表

 

慶応四年(1868年)3月14日、新政府が『五箇条の御誓文』を発表しました。

・・・・・・・・・・・

時代は戊辰戦争(1月3日参照>>)の真っ只中。

有名な西郷隆盛と勝海舟の会見(3月14日参照>>)は、13日と14日の二日間に渡っておこなわれましたが、まさにその同じ日、新政府は『五箇条の御誓文』を発表したのです。

会見によって回避されましたが、本当なら明日15日は新政府軍が江戸城に総攻撃をかける予定でした。

まさに、日々、一刻、と時代が動いていた事を感じますね。

『五箇条の御誓文』とは、16歳になった明治天皇神に誓った新政府の基本方針で、藩の連合ではなく、天皇を絶対君主として位置づけている宣言です。

.。..。..。..。..。..。..。.

一、広ク会議ヲ興(おこ)
   万機公論
(ばんきこうろん)ニ決スベシ
 「会議を開き、議論によって決定する」

一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経輪ヲ行フベシ
 「上司と部下が心を一つにして財政の確立を図る」

一、官武一途(かんぶいっと)庶民ニ至ル迄
   各
(おのおの)其志ヲ遂ゲ、
   人心ヲシテ倦マザリシメン事ヲ要ス

 「公家も武家も庶民も一緒になってそれぞれの目的を遂げ、
  生きがいをなくさないように」

一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
 「古い習慣を改め、国際的な法に基づいて行動する」

一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ
 「世界の知識を取り入れ、天皇国家の基礎を高めて行く」

.。..。..。..。..。..。..。.

と、以上の五つが『五箇条の御誓文』です。

今の民主主義の時代から見ると、とりたてて言う程の事でもないような5項目ですが、これらは、みんな、江戸時代には考えられない事だったんです。

強固な身分制度の中では、武家も庶民も同じように生きがいを持つなどありえなかった事ですし、鎖国制度の下、広く世界に目を向けるという事もありませんでした。

しかし、やはり、この『御誓文』も、この形になるまでは、何人もの人の手によって、何度も修正が加えられているのです。

何回かの修正の後、最終段階で修正を担当した土佐出身の福岡孝弟(たかちか)

実は彼の案では、一つ目の広ク会議ヲ興シ・・・」の部分は、
列侯(れっこう)会議を興し、万機公論ニ決スベシ」だったのです。

この列侯会議というのは、大名たちが参加する会議の事。

以前は、公武合体を強く押していた土佐藩だったため、福岡の案では、武士に少し気を使った形になっていたのですが、「列侯会議ヲ興シ→広ク会議ヲ興シ」にする事によって、完全に武士という幕府の形を受け入れないという感じに変りましたね。

そして、もう一つ、4番目の旧来ノ陋習ヲ破リ・・・」の文。
ここには、
「貢士期限ヲ以テ、賢才ニ譲ルベシ」という事が書かれてありました。

この案を出したのは、新政府で財政を担当していた由利公正(4月28日参照>>)

これは、「期限付きで最初は武士の代表者によって会議を行い、徐々に優れた者に譲る」という意味ですが、それを「旧来ノ陋習ヲ破リ・・・(古い習慣を改め)」の文に変える事によって、やはりここでも武士の影をきっぱりと排除していますね。

この最後の修正を加えたのは、あの長州藩の木戸孝允だったと言われています。

こうして、徹底的に武士の影を排除した『五箇条の御誓文』

これこそが、維新という物ですね。

Kikutoaoicc
今日のイラストは、
それぞれの花の季節は違いますが、「皆で協力して・・・」の御誓文の通り、菊と葵に仲良く並んでいただきましょう。
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2007年3月13日 (火)

東大寺・大仏殿の再建に尽力した公慶

 

宝永二年(1705年)3月13日、奈良・東大寺で大仏殿の屋根を支える“大虹梁”が柱上に据えられ本格的な再建工事がスタートしました。

・・・・・・・・

Dscn4365a1000 「奈良の大仏さん」で全国に知られる東大寺

奈良観光の中心でもあり、歴史好き、お寺好きでなくても、修学旅行などで一度は訪れた事のある人も多いはず。

御存知のように東大寺は、天平十五年(743年)に第45代・聖武天皇の発案で、全国に置かれた国分寺・国分尼寺の中心になるお寺として建てられました。(4月9日参照>>)

それは、周囲1㎞四方を築地塀で囲み、本尊・盧遮那仏(大仏)を安置する金堂(大仏殿)を中心に七堂伽藍が建ち並ぶ壮大な物でしたが、残念ながら今は模型でしかみる事はできません。

現在、皆さんが目にする大仏殿は、天平時代に建てられた物ではなく、今日のお話の元禄・宝永年間に建てられた物で、世界一の木造建築として現在も燦然と輝く大仏殿ですが、あれでも、もとの天平時代の物の3分の2の大きさだそうです。

実は、東大寺の壮大な伽藍は、治承四年(1180年)の平重衡の南都焼き討ち(ブログ:3月10日参照)と、永禄十年(1567年)の松永久秀の兵火(10月10日参照>>)でほとんど焼失してしまっていたのです。

その元禄・宝永の再建に力を注いだのは、江戸時代の龍松院公慶という僧です。

彼は、この東大寺再建のために、全国を勧進(寺を再建するために広く寄付を募る事)して回り、苦労に苦労を重ねて、やっと、この宝永二年(1705年)3月13日大仏殿の屋根を支える“大虹梁”が柱上に据えられるという最も重要な工事までこぎつけました。

そして、翌月の4月10日には上棟式を迎え、盛大な祝宴が開かれました。

大仏殿の再建はまだ途中ではあったものの、このまま順調に工事が進むであろうと見てとった公慶は、先人に習って伊勢神宮に参拝をしようと、6月1日に奈良を出発します。

そして、そのまま奈良には帰らず、江戸に向かいます。

東大寺再建にあたって大変協力的だった第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院病に臥していたのを心配しての江戸行きでした。

しかし、この江戸行きが公慶の運命を大きく変えてしまうのです。

江戸に着いて間もなく、桂昌院は亡くなってしまいますが、その季節は6月下旬から7月にかけて・・・旧暦の6月下旬から7月と言えば、夏の盛りの最も暑い頃。

献身的に亡き桂昌院を供養する中、公慶は体調を崩してしまいます。

そして、7月12日突然の下痢に襲われ、翌日には亡くなってしまいました。

大仏殿の工事は順調に進んでいるとは言え、志半ばでこの世を去るのは、さぞかし無念であった事でしょう。

やがて、遺体は弟子たちによって奈良に運ばれ、公慶が最も力を注いだ東大寺への埋葬を願い出ますが、東大寺は本来天皇家のお寺(正倉院は現在でも宮内庁の管理です)であるため、皇族以外の人物を埋葬する事ができませんでした。

Dscn4344a1000 現在、公慶さんは、東大寺近くにある五劫院(ごこういん)というお寺にひっそりと眠っておられます。

公慶さんが、その人生の大部分を費やした東大寺・再建は、東大寺だけでなく、古の都・奈良の復興へもつながりました。

もし、公慶さんがいなかったら、あの大いなる甍(いらか)を誇った平城宮が、跡形もなく一面の田んぼと化していたように、現在の東大寺の姿も無かったかもしれません。

未来への世界遺産は、常に偉大なる人々の努力によって守られているんですね。

Koukeisaikencc
今日のイラストは、
五劫院にある公慶さんのお墓・五輪塔

今こそ、大仏殿の勇姿をゆっくりとご覧になっていただきたい。

五劫院への行き方や地図はHPの
【奈良坂から正倉院へ】のページに掲載しています→

関連記事:ブログ3月23日【鎌倉の大仏と奈良の大仏】もどうぞ>>
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2007年3月12日 (月)

理想のリーダー・上杉鷹山

 

文政五年(1822年)3月12日は、あの上杉鷹山さんおご命日です。

・・・・・・・・・・・

先日の新聞アンケートでも、「理想のリーダーは?」の質問に、二位の徳川家康を大きくひき離して堂々の一位を取った上杉鷹山(うえすぎようざん)・・・

彼は、なぜ、こんなにも人気があるんでしょう?

「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
 成らぬは人の 為さぬなりけり」

誰もが聞いた事があるこの名言・・・実は、この言葉を残したのが上杉鷹山。

彼は、財政難に苦しむ米沢藩を、その知恵と努力でみごと復活させた武士・・・というより政治家と言ったほうが良いでしょう。

彼は日向の国(宮崎県)は高鍋藩主・秋月種美(たねよし)の次男として生まれます。

幼い頃から、かなり成績優秀だったようですが、この時代の常として、やはり跡継ぎは長男・・・彼はあくまで、その次でした。

しかし、そんな彼が9歳の時、母方の縁で婿養子の話が持ちあがります。

相手は、出羽・米沢藩の藩主・上杉重定の娘・幸姫(よしひめ)

重定には男の子がなく、将来、この幸姫との結婚を前提に養子に入るという事でした。

高鍋藩はたかだか3万石・・・それに比べて米沢藩は15万石の願ってもない良縁でした。

そして、養子として迎えられた初日、祝宴が設けられますが、なぜか、そこには幸姫の姿はなく、不思議に思いながらも、祝ってくれる関係者に鷹山は笑顔で答えていました。

たしかに、この時代は今と違って、「結婚相手に結婚式当日に初めて会う」というケースは多々ありましたが、さすがに祝宴が開かれれば、普通、そこに顔ぐらいは出すでしょう。

やがて宴会もおひらきとなり夜も更けて、彼は部屋に案内され、そこで、初めて幸姫と会います。

薄暗い部屋で、うずくまるように座っている幸姫・・・彼女は、重度の障害者だったのです。

今で言う“ダウン症”だったと言われています。

この時代、まだ障害者に対する理解は、今ほど明るい物ではありませんでしたから、幸姫の両親でさえ、彼女の事を隠すように育てていたのが現実でした。

わずか3万石の次男坊の自分に、なぜ、予想以上の良縁が舞い込んできたのか?を悟った鷹山・・・しかし、驚きはしましたが、嫌ではありませんでした。

後に、鷹山は幸姫の事を「彼女は、神様が僕にくれた天使だ」と言っています。

事実、この先、何度も彼女の笑顔に救われる事になります。

やがて、16歳になった鷹山は、将軍・徳川家治の前で元服し、名前の一字をとって治憲(はるのり)と名乗り、翌年、上杉家の家督を継いで米沢藩主となります。
(鷹山という名前は、藩主を辞めて隠居してからの名前ですが、今日は鷹山さんの名前で呼ばせていただいてます。)

しかし、当時の米沢藩の財政はたいへんな物でした。

家臣も領民も貧困にあえいでいる上に、度重なる凶作がさらに追い討ちをかけます。

しかも、以前からいる家臣たちにとっては、鷹山は新参者

何かにつけて、ことごとく冷たく当たられる毎日・・・疲れ果てて家に帰ってフーッとため息をつくと、彼の足元にコロコロとまりが転がってきます。

ふと見ると、目の前には幸姫・・・まりを転がしてやると、うれしそうにそれを拾いあげ、また、鷹山に向けて転がしてきます。

彼女の笑顔には、打算も計算もありません。

あまりの辛さに、まわりが敵ばかりに見えていた鷹山は、味方だと言わんばかりの幸姫の笑顔に救われる思いがしたのです。

その日から、鷹山は家に帰ると幸姫と遊ぶのが日課になりました。

やがて彼は、藩の改革に乗り出します。

まずは、倹約です。

鷹山自らが食費を減らし、衣服は綿に代え、使用人の人数も減らします。
初めてのお国入りの時も、祝宴の費用を極力抑えます。

しかし、一人分の費用を抑える代わりに、より多くの人間を招待し、身分の低い者にも、藩主自らが声をかけて、一丸となって財政回復に取り組もうという意志も示します。

しかし、そんな鷹山の方針は、格式高い上杉家を重んじる、昔ながらの上級家臣の反感をかう事になります。

家老や重臣などは、倹約を叫ぶ鷹山の前で、わざときらびやかな着物を着て登場したりと、あからさまな行動に出てきます。

そんなある日、またまた、疲れはてて家に帰ると、部屋の中に紙くずが散乱しています。

ふと見ると、畳や障子が墨で真っ黒に・・・。

何事があったのかと驚く鷹山の前に、紙くずにうもれるように、墨で顔中が真っ黒になった幸姫が・・・。

世話をしていた女中に聞くと、「千代紙で姉様人形を作って、その人形に墨で顔を書こうとしていたのだ」と言います。

それが、目がゆがんだり、口が書けなかったり、なかなか思うようにいかず、何度もやりなおしているうちにこんな事になってしまったのです。

その話をしていると、近づいてくる幸姫・・・どうやら、やっとお気に入りの人形ができたようで、その人形を必死で鷹山に見せながら「よし・・よし・・・」としきりに話します。

「この人形は私・・・ほら、見て、私の人形を作ったの」と彼女は言っているのです。

その姿を見て、鷹山は、結婚してからの幸姫の成長を感じるのです。

「人は努力すれば、たとえ、どんなにゆっくりでも、確実に成長して行くものなのだ」
鷹山はまた、幸姫に心を救われるのです。

やがて、重臣たちは、鷹山が推進してきた政策や鷹山自身に対する不平不満を書き綴った『訴状』を提出し、反乱を起こします

しかし、もう、ひるみません。

幸姫の笑顔によって、彼は確実に強くなったのです。

3日後には、7人の重臣を、切腹・閉門の処分とし、更なる改革に臨みます。

今度は、『班田の礼』

鷹山は、自ら鍬を持って、自分の家の庭にも畑を造ります。

その行動に触発された若き家臣たちが、「俺も、私も」と、手伝いはじめます。

最初は、「武士が農作業など・・・」と言っていた者も徐々に手伝いはじめ、やがて、労働奉仕にまで出かけるようになります。

当時は、武士が農民を手伝って労働奉仕するなど、考えられない事でした。

葉は蚕の餌となり、幹では家具が作れ、樹皮は和紙の原料となる桑を率先して植えていきます。

漆塗りの原料となる(うるし)の木も100万本植えました。

新田の開発、橋の架け替え、河川の改修など、上杉家あげての労働奉仕・・・そして、鷹山自身も自ら領内を巡回し、領民の不満を聞き、世襲制だった代官を辞めさせ、優秀な人材を投与。

農業生産に成果を挙げた者には、身分の分け隔てなく表彰します。

鷹山は産業開発にも力を入れ、越後から縮緬(ちりめん)業を導入、これは後の米沢織へと成長し、やがて米沢藩は財政再建されます

後に、老中となった松平定信も、鷹山の改革をおおいに推奨しています。

ところで、余談ですが・・・
この上杉鷹山の人気というのは、不景気になる度にグンと上がのだそうです。
・・・て、事は、やはり人気投票で1位だった今は不景気、って事なのね。
Youzankoicc2
今日のイラストは、
やはり鷹山さんのイメージで・・・。
お名前には鷹がついてますが、鷹のイメージではなく雄々しい鯉かな?

その、たゆまぬ努力で百瀬の滝を登って龍になっていただきたい!
 .

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2007年3月11日 (日)

風林火山・孫子の兵法

 

『故に、
其の疾
(はや)きこと、の如く
其の徐
(しず)かなること、の如く
侵掠
(しんりゃく)すること、の如く
動かざること、の如く
知り難きこと、
(かげ)の如く
動くこと、雷霆
(らいてい)の如し。 

郷を掠(かす)むるには、衆を分かち
地を廓
(ひろ)むるには、利を分かち
権を懸
(か)けて動く。 

「迂直の計」を先知する者は勝つ。
此れ軍争の法なり。』

ご存知、武田信玄が旗印として使用していた『風林火山』・・・これは、中国は春秋時代の呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の一説を引用した物です。

今日、3月11日(1582年)は武田勝頼さんのご命日・・・

つまり、武田氏が滅亡した日(2012年3月11日参照>>)・・・まだまだ、勝頼さんに関しても書き足りないこと山の如し、なんですが、とりあえず今日は、その旗印のもととなった『孫子』について書いてみたいと思います。

・‥…━━━☆

上記の一説の意味は、
「疾風のように早いかと思えば、林のように静まりかえる、
燃える炎のように攻撃するかと思えば、山のように動かない、
暗闇にかくれたかと思えば、雷のように現れる。
 

兵士を分散して村を襲い、守りを固めて領地を増やし、
的確な状況判断のもとに行動する。
 

敵より先に「迂直の計」を使えば勝つ。
これが、合戦の法則だ」
 

だいたいこんな感じです。

「迂直の計」とは、「迂」=曲がりくねったり、「直」=まっすぐ行ったり・・・わざと遠回りをして油断させておいて電撃的にたたみかける・・・つまり、静と動、陰と陽、飴とムチ、ボケとツッコミ、悟空とベジータ(フュージョンで戦闘力・倍増)・・・とにかく、正攻法と奇襲作戦のような「相反する物を巧みに使え」って事です。

この通り、『孫子』は、とても二千五百年前に書かれた物とは思えない、現代でもバッチリ通用する兵法書です。

「吉だ!」「凶だ!」と、合戦の勝敗を占ってたような時代に、これだけ利に叶った科学的かつ合理的な兵法が存在する事に驚きます。

三国志の曹操も、八幡太郎義家も、もちろん武田信玄徳川家康といった戦国武将も、そして、あのナポレオンも・・・“不可能”が載ってる辞書は持っていなくても、『孫子』は持っていたんです。

遠い昔の戦いだけではありません。
『孫子』が説く、
「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」

つまり「情報を集めろ」という事・・・敵の情報も、そして自分自身の事も、調べつくした上で、「勝てる相手とだけ戦え」と言っています。

これは、第二次世界大戦後に開発されたオペレーション・リサーチの考え方・・・現在のビジネスにも通用する思想です。

また、次のようにも語られています。
『百戦百勝は善の善なる物にあらず、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる物なり』
「百戦百勝してもエラくない、戦わないで勝つのがベストだ」

そのためには、情報を集めるスパイに最高の待遇を与え、誰よりも大切にしなければならないのです。
まさに、情報戦線です。

しかし、どうしても戦わなければならない時・・・。
いざ、戦うとなると、先ほどの『風林火山』です。

守る時はジ~っと息をひそめて、攻める時は一気にたたみかける。
『始めは処女の如く、後には脱兎の如し』
静と動を使い分けるんですね~。

『孫子』は優れたリーダーについても語ってくれてます。
臨機応変に行動でき、常にバランス感覚を持っている事。
『智者の慮(りょ)は必ず利害に雑(まじ)う』
利益を考える時は、同時に損失も考慮しなければならない」

目の前にぶら下がったおいしそうな物に、すぐ飛びつくようではリーダーの資格な~し。
食べた時の満足感と、その後の体重増加を、瞬時にして計算できる人でなくてはならないのです。

必死になって一所懸命に頑張る事は、一般的には良い事ですが、リーダーは一つの事に必死になる人ではダメなのです。
必死になると、人は周りが見えなくなります。

リーダーは一つの事にこだわる事なく、広い視野と余裕を持ち、部下たちを必死にさせる人でなくてはならないのだそうです。

『利に合(がっ)して動き、利に合せずして止(や)む』
リーダーたるもの、怒りにまかせて行動を起こしてはなりません。
「状況が有利であったら動き、不利だと見たら中止する」・・・やはり、臨機応変な状況判断が大切なんですね。
リーダーの場合、失敗は部下全員に跳ね返ってきますから・・。

「僕はリーダーの器じゃないから、関係ないや!」と思ったかた・・・これは、リーダーになる人だけが知る事ではなく、リーダーを選ぶ側も知っておいたほうがいい事だと思いますよ。
誰の傘下に入るかで、人生大きく変っちゃう事もありますから・・・。

はてさて、日本のリーダーたちは、臨機応変な状況判断ができる人たちなのかな?

『孫子』には、さらに、「リーダーがやってはいけない事」なんて言うのも書いてありますし、まだまだ現代にも役立つ名言・金言がたくさんなのですが、ページにも限りがある事ですし、今日はこのへんで・・・また別の機会に書かせていただきたいと思います。

それにしても、茶々の高校時代・・・よく当たると評判の手相占い師に「アンタは諸葛孔明の生まれ変りだ」と言われたあの日、有頂天になって『孫子』関係の本を読みあさった日々・・・あれから、○十年・・・どこからも軍師へのお誘いがない・・・大器晩成にも、ほどがある!
 

Sonsihatacc
今日のイラストは、
やはり『風林火山の旗』をメインに「風雲・急を告げる・・・」といった感じのイメージで書いてみました~。

★『孫子の兵法』目次>>

ブログにupした孫子関係の個々の記事を、本家ホームページで【孫子の兵法・金言集】>>としてまとめています・・・よろしければご覧あれ!(別窓で開きます)
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2007年3月10日 (土)

平家の公達・平重衡と輔子

 

寿永三年(元暦元年・1184年)3月10日、先の一の谷の合戦で捕えられた平重衡が、鎌倉に護送されました。

・・・・・・・・・

平重衡(たいらのしげひら)は、あの平清盛の五男。

個人的には、平家の公達のの中では、この重衡さんが一番魅力的だと思っています。
(ですから、今日の記事はちょっと長い・・・思いのたけをこめております)

それは、『平家物語』の作者も、彼の事が大好きで、その影響を多分に受けていると思いますが、平家物語以外でも、彼の事を悪く書いてある書物に、未だお目にかかった事がありません。

建礼門院・徳子(重衡の妹)(12月13日参照>>)に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)もその著書に書いています。

「をかしきことをいひ、またはかなきことにも人のためにびんぎに心しらひありしなどしてありがたかりし」
(ユーモアもあるし、その上ちょっとした事でも相手の都合の良いように、気をつかってくれて、私たち女官は助かりました~)

また、他にも
「心さまなつかしく、なさけしくもてなし、みめも、れいの一もとゆかりにやいち良くて、打ちわらひ給へけるなどこそ、ことにみまほしけれ。牡丹の花匂ひおほく咲き乱れたる朝ぼらけに、初郭公(ほととぎす)の一声音信たるほどとや聞えむ」
(親しみやすくて、情が深くて、顔も光源氏のように男前で、特に笑顔がステキ。牡丹の咲き乱れる香りのする朝に、ほととぎすの鳴く声が聞こえた時みたいな爽やかな人)
などと、もうこれ以上ないくらいの表現です。

宮中で彼が宿直を担当した夜などは、宵の口、仲間を集めておもしろい冗談を言って大笑いさせ、今度、夜も更けてきた時間帯には、おどろおどろしい話をして、「見回りできねぇよ」と震えさせてみたり・・・。

男友達からも人気の的、しかも、その上歌もうまく、琵琶もたしなむ・・・。

そんな、カッコイイ彼の奥さんは、藤原邦綱の三女・輔子(すけこ)
ふたりは、たぶん・・・オフィス・ラブの末の恋愛結婚。

なぜ、そう思うかと言いますと、輔子のお父さんは、清盛の部下のような立場の人。

重衡さんは、今をときめく清盛の息子ですよ!
しかも、男前やわ、性格良いわ、頭良いわ・・・。

まわりが勧めた結婚なら、清盛さんと同等か、あるいは天皇家にかかわるお姫様とでも充分お似合いです。

まして、正室として迎えるわけですから・・・。

でも、彼は輔子と結婚しました。

輔子は、建礼門院・徳子が、高倉天皇と結婚した時、その世話係の女官として仕えるようになります。

徳子が15歳、兄の重衡は一つ上なので16歳、輔子も同じくらいの年齢だったはずです。

やがて、徳子が22歳で安徳天皇を生むと、輔子はその乳母としてお世話をします。

当時、天皇家では、乳母はふたり置く事になっていて、一人はベテランを起用していましたが、輔子の年齢を考えると、当然彼女は新米のほうで、帥典侍(そちのすけ)と呼ばれていた40歳くらいの女性がもう一人ベテラン乳母として仕えていました。

しかも、この帥典侍という人は、単に乳母だけでなく、当時の宮廷の女官の総監督みたいな事もやっていて、たしかに仕事はできるが、その分、重箱の隅をつつくような文句も言う・・・どこの職場にでもいる、いわゆる“お局”のような人でした。

誰もが煙たがるそんなオバさんとも、輔子はけっこううまくやっていたようで、そんなところが重衡さんの目に止まったんですかねぇ。

そんなにカッコイイ重衡さんが気に入ったのですから、きっと彼女も魅力的な人だったんでしょうね。

ともに、性格が良さげなご夫婦・・・子供がいなかった二人は、甥っ子にあたる安徳天皇をさぞかし大事に育てた事でしょう。

そんな重衡は武将としても優れていました。

以仁王源頼政との宇治の橋合戦(5月26日参照>>)には副将軍として、尾張の墨俣(洲股)の合戦(3月16日参照>>)や水嶋・室山の合戦では大将軍として、みごと勝利しています。

源頼朝木曽義仲が挙兵してからは、富士川の合戦(10月20日参照>>)などで、ちょっとカッコ悪い体たらくを見せてしまう平家の中では、ほぼ負け知らずの名将と言えるでしょう。

そんな中で、治承四年(1180年)の12月、重衡25歳の時、彼の運命を左右する戦いに相対する事となります。

世に言う『南都焼き討ち』です(12月28日参照>>)

当時、各地の源氏の生き残りが挙兵した事を受けて、延暦寺園城寺興福寺といった武装した僧兵の多くいた寺院が、次々と源氏と手を結び、平家に反旗をひるがえし始め、やがて、「三寺の僧兵たちが、まもなく六波羅(平家の本拠地)に攻め込んで来る」という噂が立ち、平家は重衡を将軍に、この日、奈良を攻めたのです。

奈良坂般若寺の近くで始まった合戦は夜まで続き、真っ暗闇の中、明かりをとろうとつけた大松明から火がつき、そのまま南都一帯に火が燃え広がってしまいました。

目の前の般若寺はもちろん、東大寺・大仏殿や興福寺の伽藍もことごとく燃えてしまいました。

合戦には、勝利した重衡でしたが、国家の財産でもあった大仏などを炎上させた罪は、重衡一人にかぶせられる事になり、彼はこの時から大罪人の汚名を着せられる事になるのです。

やがて、木曽義仲との倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)で痛手を被った平家は、安徳天皇を奉じて都落ち(7月25日参照>>)をし、運命の一の谷に落ち着きます。

そして、やって来る一の谷の合戦(2月7日参照>>)

この時29歳の重衡は、大手・生田の森の副将軍として(2013年2月7日参照>>)、おそらく初めてと思われる大敗を経験します。

戦いに敗れ、軍を引き揚げる途中、須磨を過ぎたところで馬を射られてしまった重衡。

乗り換え用の馬に乗っていた家臣はそのまま逃げ去り、不覚にも彼は源氏の梶原景時によって生け捕りとなってしまいました。

やがて、一の谷から、さらに西の屋島に移動した平家軍のもとに、「重衡の命と三種の神器を取り替えよ」との後白河法皇の命令が届きます。

清盛の妻で、重衡の母である二位尼(にいのあま)は涙ながらに、「何とか重衡の命を助けてやって欲しい」と願いますが、やはり、それには平家全体のこの先の運命がかかっているわけで、聞き入れられる事はありませんでした。

奥さんの輔子は、おそらくこの時に愛する夫が敵に生け捕りになった事を知ったでしょう。

この時、手紙を書く事を許されなかった重衡は、使者を通じて口頭で、妻・輔子に言葉を送っています。

「都落ちをしてからは、俺はお前にずいぶん慰められたけど、きっとお前もそやろから、こないして俺が捕らわれの身となってしもた事を悲しんでる事やろうけど、夫婦の契りは永遠やというから、後の世に生まれ変ったら、必ずまた会おうな」

~あきません・・・もう涙・涙ですわ~

そして、「NO!」の返事を受け取った源氏側は、寿永三年(元暦元年・1184年)3月10日死を覚悟した重衡を鎌倉に護送するのです。

鎌倉に行った重衡には、頼朝さん直々の尋問が待っていました。

その堂々たる受け答えに、頼朝も、景時も「あっぱれなる大将軍」と感激し、彼を死刑囚とは思えない最高の待遇で留置します(千手の前の話:6月23日参照>>)

ここにも、重衡さんの人柄の良さが伺えますね。

やがて、さらに西へ行った平家には、壇ノ浦の戦い(3月24日参照>>)という運命の日がやって来ます。

「もはや、これまで!」と二位尼をはじめ平家の人々は、次々と船から身投げをし・・・と、ドラマなどでも、ほぼ全員が海に飛び込むような状況に描かれていますが、実際に飛び込もうとした人は平家の血筋の人だけで、雇われている立場の女官などは、皆、呆然とそこに座っているだけの状態でした。

先程登場した女官の総監督をしていた帥典侍でさえ、何をどうして良いかわからず、ただ立ち尽くしていました。

そんな中で、平家の血筋以外で入水しようとしたのは輔子ただ一人・・・同じようにボ~っとしていた徳子をうながし、自分も入水を計ります。

しかしながら、源氏の兵の放った矢で、袴の裾を船端に打ちつけられ、それを抜き取ろうとしている所を捕えられてしまうのです。
(ドラマでは、よく徳子のエピソードとして描かれますが、実際には輔子の話として記録されてます)

御存知のように、この時、徳子も源氏の兵によって、海から引き揚げられ助けられています。(12月13日参照>>)

そして、ここに平家は滅亡します。

その後、輔子は都に戻され、日野(現在の京都市伏見区)にいる姉の家に身を寄せていました。

そんな、彼女に辛いニュースが飛び込んで来ます。

大仏炎上に怒りまくっている奈良の僧たちが「重衡をこっちによこせ!」と大騒ぎし、重衡は鎌倉から奈良へ送られる事になり、東海道を経て、京から奈良街道を南に下るというのです。

そう、日野という場所はその奈良街道沿いにあるのです。

奈良に行けば当然死刑が待っています。

Sigehirabosyo600
奈良街道沿いにある平重衡の墓(くわしい場所は本家HP:京都歴史散歩「醍醐」へどうぞ>>
 .

死を目前にした夫が、この前の道を通る・・・二人は思いがけず最後の対面を果たすのです。

「もう、一度会いたい、という望みが叶って安心して死んで行ける」と重衡。

「あんたが、生きてると聞いたから、もしかしたら会えるかも・・・って、その望みだけで今日まで生きて来たんよ」と輔子。

輔子は気丈にも、用意した新品の着物に夫を着替えさせます。

そして、つかの間の対面の後、去って行く重衡・・・見送る輔子・・・愛しい人の残り香のついた衣をギュッと握り締め、彼女はおそらく、涙を我慢したに違いない。

ここは、人目をはばからず泣き崩れるよりも、その気持ちを抑え、夫の姿が彼方に消えるのを眺めるほうがよっぽど辛い。

彼女の気持ちを察した重衡は、もう一度振り返り「泣くなよ!契りがあれば、必ずあの世で会える!」と言います。

この時、振り返った重衡も笑顔であって欲しい・・・たとえそれが、無理やりな作り笑いであっても・・・。

この二人は、きっとそんな人だったと、私は勝手に想像しています。

なぜなら、それからまもなく、奈良に向かう道中の木津川沿いにて、重衡は斬首されるのですが、死を目前にした重衡は、悟ったように落ち着き、少しの見苦しさもなかったと言います。

妻の輔子のほうも、夫の死を聞いた直後、首なき胴体を人に頼んで、その日のうちに日野の法界寺に運ばせ供養した後、般若寺にさらされていた首も貰いうけ、骨にして高野山に送り、すべての後始末を終えてから、姉の家を出て、徳子の待つ京都・寂光院へと向かっています。

この一連の行動を見る限り、貴族の華麗さと武士の強さを持った夫と、妹の可愛さと母の強さを持った妻は、決してお互いの前では取り乱したりしなかったように思うのです。

二人が、きっと、もう一度生まれ変わって、ステキな恋をしている事を願って止みません。

Sigehirabotancc
今日のイラストは、
やはり最後の別れ・・・気丈な輔子さんも、夫が見えなくなった後は、その衣を抱きしめながら涙に暮れたのだろうと思います。

平家物語などで、牡丹の花に例えられる事の多い重衡さん。
少し季節は早いですが、輔子さんのそばで咲き誇ってもらいました。

般若寺・奈良坂のくわしい場所や地図は、本家HPの【奈良敵氏散歩:奈良坂から正倉院へ】のページ>>をご覧ください。
般若寺のコスモスの写真もupしてます。
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2007年3月 9日 (金)

甘藷先生と芋代官

 

享保二十年(1735年)3月9日、サツマイモ栽培に成功した青木昆陽が、著書『蕃藷考(蕃藷=サツマイモ)を発表しました。

・・・・・・・・・・・・

青木昆陽は、元禄十一年(1698年)に、江戸は日本橋の魚屋の子供として生まれます。(八百屋じゃなかったのね)
通称は文蔵さん。

青年の頃、京都にて儒学を学び、27歳で江戸八丁堀に塾を開きました。

享保十四年(1729年)に起こった享保の大飢饉で、人々の飢えをしのぐため痩せ地に育つサツマイモ栽培に目をつけた幕府。

その2年前に、サツマイモの栽培に成功していた昆陽を、幕府役人に登用し、書物奉行にまで昇進させます。

幕府の推奨により、サツマイモ栽培はまたたく間に全国に広がり、多くの人を餓死から救いました。

人々は畏敬の念を込めて、青木昆陽を「甘藷(かんしょ)先生」と呼びます。

甘藷(かんしょ)とは、先ほどの蕃藷と同じで、サツマイモの事です。

甘蔗と書いてこちらも「カンショ」と読みますが、こちらはサトウキビの事だそうです。

サツマイモの原産地は中央アメリカ

コロンブスがヨーロッパに持ち帰り、その後、中国(中国地方ではなく中華人民共和国のほうです)・沖縄を経て、九州から西日本に広まりました。

もちろん、第一人者は昆陽さんで、結局は全国的にサツマイモの名前で普及するのは、やはり昆陽さんのお力による物なのですが、当初は伝えられた経路から、西日本では唐芋(からいも)琉球芋などの呼び方がされていて、飢饉の救世主として、有名無名を問わず、多くの人がこのサツマイモ栽培に力を注いでいたのです。

そして、ここにもう一人・・・「芋代官」と呼ばれる人がいます。

今回の昆陽さんの『蕃藷考』の発表をさかのぼること3年前の享保十七年(1732年)・・・やはり、悪天候とイナゴの被害によって、西日本一帯が飢餓に襲われます。

かつて、戦国時代には、毛利VS尼子の抗争(11月19日参照>>)で、紆余曲折の歴史を歩んだ大森銀山・・・

その大森銀山の代官をしていた井戸正朋(まさとも)という人がいました。

彼は、長年勘定役を務めていましたが、前年の享保十六年に、突然、大森銀山の代官に抜擢されたばかりでした。

正朋さんも、3年前から続く享保の大飢饉の対抗策としてサツマイモの栽培に力を注いでいたひとりで、その栽培は大いに役立っていましたが、この享保十七年の飢餓は、それでも乗り切るのが困難だったのです。

誠実な彼は悩みますが、飢餓に苦しむ領民を見捨ててはおけず、天領(幕府のご用地)にある幕府の米蔵に手をつけてしまいます。

そう、年貢に差し出すために確保してあったお米を、領民に配ったのです。

結局、この罪によって彼は、享保十八年に代官をクビになり、移送先で帰らぬ人となってしまいました。

しかし、正朋の職をかけた涙の決断によって、大森銀山では一人の餓死者を出す事もなく、この飢饉を乗り切る事ができたのです。

この後、領民たちは、感謝の意を込めて代々「芋代官」と呼んで、彼の偉業を語り継いと言います。

Satumaimohanacc
今日のイラストは、
『サツマイモの花』です。

昔、ドラマで「人知れず忘れられた庭に咲き、人知れずこぼれ散る、細かな白い大根の花」というのがありましたが、このサツマイモの花も、人知れず咲いているんですよね。

普段、目にも止めない花たちの中に、つつましく可憐なやさしさを感じますね。
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2007年3月 8日 (木)

日本の輸入品好きは昔から

 

寛文八年(1668年)3月8日は、江戸幕府が長崎貿易のご禁制の品を定めた日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

・・・という事で、それに関連して、思ったのは、日本人はつくづく「外国製の輸入品が好きだなぁ」という事です。

現在でも耳にする事の多い外国の偽ブランド品のニュースですが、ニセモノが出回るというのは日本人がそれだけ、外国の品物に弱いという事。

でも、日本人の外国製品好きは、なにも今に始まった事ではありません

遠く奈良時代、皆さんもよく御存知のように奈良の正倉院には、シルクロードを通ってやってきた数多くの外国からの輸入品が納められています。

ペルシャ製のワイングラス、東南アジア原産の香木、有名な五絃の琵琶はラクダの絵が書かれたインド製です。

トルコ石やラピスラズリが散りばめられた鏡もあります。
(正倉院の宝物についてはHPの【正倉院のページ】を見ていただくとありがたいです→)

しかし、正倉院のお宝は、言わば国際交流の証しみたいな物で、いわゆる「外国製品好き」とは、ちと別の物かも知れません。

そうすると、最初の「外国製品・ブランド品ブーム」と言えるのは、やはり平安時代になりますね。

源氏物語に登場する人々は、仏事の時に一世一代の輸入ブランド品で仏堂を飾っています。

今では、仏事と言えば、お葬式や法要で何かと地味に行いますが、当時は仏事と言えば、人が集まる一大イベントで、言わばパーティのような物。

中国製の錦でお堂の柱を飾ってみたり、お経の巻物に金糸・銀糸を織り交ぜてみたり、ここぞとばかりに見栄を張ります。

女性の小物なんかもそうです。

すずり箱や、薬箱、櫛入れなどには、わざわざ最初はついていない金の細工をほどこすのが大流行だったとか・・・。

今、携帯にいろんな飾りをくっつけるのとよく似てますね。

しかし、やはりこういった流行は高貴なお姫様のみに許される事。

とても庶民には手の出せる物ではありません。

次に外国製品ブームがやって来るのは、室町時代

明との勘合貿易が始まって、「唐物」と呼ばれた輸入品が、急激なブームを巻き起こします。

絹織物や薬・砂糖などの他、書画や漆器・陶磁器などが人気だったとか・・・。

しかし、「唐物には贋作が多い」という、どこかで聞いたような話も、当時からちらほら。

でも、この時代でも、やっぱりまだまだ庶民の手に入るような物ではなかったようです。

次に、徳川家康の遺産。

これは「外国製品ブーム」ではありませんが、徳川家康の残した遺産に・・・もちろん、金・銀などが多数なのですが、その中に、かなりの外国製品があったとか・・・。

薬や朝鮮人参、香料の他にワインも・・・。

そして、びっくりするのはシャボン四十七貫。
四十七貫と言えば、約180kg・・・どんだけ、体洗いたいねん!

・・・結局、外国製品を庶民が手にするようになるのは、鎖国が解かれ、明治時代になってからの事。

それも、文明開化直後は、欧米に追いつけ追い越せとひたすら頑張っていた人々が、少し落ち着いて心のゆとりを持ち始めた頃。

明治三十七年(1904年)12月20日に、三井呉服店から名称を変更し、日本初のデパートとして営業を開始していた三越呉服店が、4年後の明治四十一年(1908年)、ルネッサンス式の洋風三階建ての新店舗をオープンします。

食料品を除くすべての部門の商品を取り揃え、呉服屋から最新式の百貨店へ変貌し、やっと庶民の手の届くところにやってきました。

3年後には、エレベーターを備えた白木屋がオープン。

続いて、京都の大丸呉服店、大阪の高島屋など近代的な百貨店が次々とオープンし、庶民をも巻き込んだブームとなって花開くのです。

「今日は帝劇、あしたは三越」というコピーが、庶民の間でも大流行したそうです。
やっと庶民も、海外ブランド品を手にする事ができました~。

Rurihaicc_1 
今日のイラストは、いつかは本物を見てみたい正倉院の宝物『瑠璃杯(るりのつき)』。

以前【正倉院展に行ってきました】のページ(10月27日参照>>)で書きましたが、正倉院展に展示されるのは、膨大な宝物の中から順番に展示されるので、同じ宝物は10年に一度くらいしか展示されないのだそうです。

ペルシャ製のガラスに足の部分の細工は唐で施されています。

私も何度か正倉院展に行ってますが、まだ、この瑠璃杯を見た事がないんです~。
この透明感と輝きを一度この目で見てみたいと思ってます。
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2007年3月 7日 (水)

女帝・推古天皇の素顔

 

推古三十六年(628年)3月7日、日本で最初の女帝・推古天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

推古天皇と言えば、大臣・蘇我馬子と摂政・聖徳太子とで行ったトロイカ政治を思い出しますが、この三人の関係をどう見るかで、推古天皇という人のイメージがずいぶんと変ってしまいますね。

今まで語られて来た通説の通り、聖徳太子がスゴイ政治力の持ち主だったとすると
「本来ならば太子が天皇になるべきであるけれども、年が若いし蘇我氏の手前もあるので、歴代天皇の兄弟・額田部皇女(←推古天皇の名前)に天皇になってもらって、馬子と太子にサポートをさせる」というパターンです。

これだと、推古天皇は完全に飾り物・・・ただの看板という事になります。

そうではなく、蘇我馬子が当時の一番の権力者だったとすると
「推古天皇も聖徳太子も、天皇家でありながら、蘇我氏の血を引く人物・・・そのふたりを天皇と摂政にすえる事で蘇我氏の権力が増大する・・・馬子にとって、この二人はまさに、女子供だった」というパターン。

これなら、推古天皇も聖徳太子も飾り物・・・蘇我馬子が実権を握っていた事になります。

多くの人が馬子VS太子の構図を描いてしまいますが、ここにもう一つ、推古天皇こそが真の権力者であった可能性も忘れてはいけません。

彼女が「ただの飾り物でなかったかも知れない」事が垣間見える出来事は、彼女が天皇になるずっと前・・・彼女の夫である第30代・敏達天皇が亡くなった事をきっかけに起こります。

Suikokeizucc_1 この時代、たとえ兄弟であっても母親が違っていれば結婚の対象になったので、推古天皇のまわりの人間関係はホントにややこしい・・・

とりあえず、右図(→)のような系図を書いてみましたが、本当はもっとたくさんの奥さんや子供が入り乱れていますが、ややこし過ぎるので、今日のお話に出で来そうにない人物は省かせていただきました。

この敏達天皇が亡くなった頃というのは、二代・三代前くらいから始まっていた物部氏VS蘇我氏の抗争が、まさにピークに達していた頃でした。(10月13日参照>>)

それを物語るエピソードがあります。

敏達天皇の葬儀の時の事・・・。

大臣だった馬子が、おもむろに弔辞を捧げはじめます。

それを横で見ていた物部氏のトップ・物部守屋(もののべのもりや)
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
と、笑ったんです。

実は、馬子はあまり体格の良い人では無かったのですが、この日は前・天皇の葬儀とあって、はりきってメッチャ立派な太刀を腰にさしていたんですね。

小さい人がでっかい刀を・・・というのを見てからかったんです。

そして、今度は守屋が弔辞を捧げる番。

さっき、からかった事もあり、まわりを取り囲む蘇我一族の視線は、ただならぬ鋭い視線でした。

守屋の額からは汗がしたたり落ち、手がブルブル震えます。

それを見た馬子・・・
「なんや、体に鈴でも着けといたら良かったな。さぞ、えぇ音で鳴ったやろな」
とからかい返しです。

天皇の葬儀という公式な場所で、こんなにもののしり合うほど一触即発の状態だった物部VS蘇我。

その戦いに終止符を打つきっかけになる事件は、まだ天皇の死の余韻が残る中で起こります。

額田部皇女が夫の喪に服して過ごしていたたある夜、彼女いる宮の前がにわかに騒がしくなります。

「開けろ!言うたら開けんかい!」
「いや~、それは困ります~」
「俺は天皇の異母弟や!俺も喪に服したい~っちゅーとんのや!開けんかい!」
「いや~それには手続きが必要ですし・・・いきなり来られても・・」
「何をウダウダ言うとーんねん!さっさと開けろや!」

しばらく押し問答が続いた後、侵入者は諦めて帰りました。

その侵入者を宮前で必死で止めていたのは三輪君逆(みわのきみさかう)という敏達天皇の寵臣でした。

宮前で大暴れしていたのは、穴穂部皇子(あなほべのみこ)・・・彼は自分でも言ってるように、亡くなった敏達天皇の弟。

当然、次期天皇候補の一人になるわけです。

この時期、後継者だった大兄皇子(用明天皇)が病弱だったため、すでに、その次の天皇候補が囁かれていたのです。

亡くなった先代・天皇の皇后である額田部皇女の発言は、その後継者争いに影響する事は確かです。

「自分が後継者にふさわしい」と、穴穂部皇子はアピールしたかった・・・彼が宮前で「開けろ!開けろ!」と言ったのは、そんな理由だったのかも知れません。

ここで、額田部皇女が穴穂部皇子の大暴れを見て、「怖い!怖い!」と部屋の隅で隠れているような女性なら、きっと最初に書いたように、馬子や太子のお飾りとして天皇の位に着いた人だと思われますが、実は彼女はそうではなかったのです。

きっと彼女は、穴穂部皇子の態度を見て、ほくそえみながら「馬鹿なオトコ・・・」って思ったに違いありません。

次の日の朝・・・宮廷内を噂が駆け巡ります。
「皇位を狙う穴穂部皇子が、先代天皇の皇后を犯そうとして宮に乱入した!」

そう、彼女は「穴穂部皇子にレイプされそうになった」と、蘇我馬子に告白したのです。

記録に残る彼女は絶世の美女で、しかもこの話が、何の疑いもなく皆が信じてしまうくらい、本当に魅力的な人だったようです。

穴穂部皇子にそんな気があったのか、無かったのか、どちらにしても宮廷中にそんな噂が広まってしまった以上、彼の怒りは収まりません。

穴穂部皇子は、物部守屋に命じて、あの日、宮の前で押し問答を繰り広げた逆を殺させてしまいました。

「待ってました!」とばかりに兵を挙げる馬子。

穴穂部皇子は、あっという間に殺され(6月7日参照>>)、その勢いのまま、戦いは物部VS蘇我の大合戦へと発展して行きます。

この戦いの間に、敏達天皇の後を継いだ用明天皇(大兄皇子)は、病気で亡くなってしまいますが、戦いの結果は蘇我氏の大勝利、ここに物部氏は滅亡したのです。

しかし、ここでもまだ、額田部皇女は天皇にはなりません。

彼女は、その発言権を生かし、次期天皇に泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推薦するのです。
この泊瀬部皇子が第32代・崇峻(すしゅん)天皇です。

しかし、実は、この崇峻天皇は、物部氏滅亡のきっかけを作った穴穂部皇子の弟なのです。

先の合戦の時、途中から蘇我側に寝返ったとは言え、なぜ、額田部皇女は敵方の弟を天皇に推薦したのでしょう?

もちろん、滅びたとは言え、あれだけの勢力を誇っていた物部氏への気遣いもあったでしょうが、もし、勝手な想像を許していただけるならば・・・「コイツは使える・・・」
彼女はそう思ったのではないでしょうか。

ひょっとしたら先の合戦での途中の寝返りも、崇峻天皇に何らかの圧力をかけていたのかも知れません。

「彼は、自分の言う事を聞く人間だ」と判断しての推薦ではなかったのでしょうか?

それを裏付けるように、崇峻天皇が思い通りにならないとわかった5年後、馬子が派遣した東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって、崇峻天皇は暗殺されるのです。

「大臣が天皇を暗殺する」という前代未聞の事件は、後にも先のもこの事件くらいでしょう。

確かに、不幸な死に方をした天皇や、暗殺されたのでは?と疑わしい天皇は他にもいますが、なんせ崇峻天皇の事件は正式な発表が暗殺なのですから・・・。

しかしそれが、まわりに文句を言わせず、まかり通ってしまうのは、この事件に額田部皇女・・・つまり次期天皇が関与していたからではないか?とも思えるわけです。

崇峻天皇の死を受けて、空白になった皇位・・・。
ここで、満を持して額田部皇女が、日本初の女帝・推古天皇として即位するのです。

Zyoteikikucc
今日のイラストは、
女帝をイメージして菊の花を描いてみました
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2007年3月 6日 (火)

源為朝・琉球王伝説

 

嘉応二年(1170年)3月6日、保元の乱に破れ、伊豆大島へ流されていた源為朝が自刃しました。

これが、日本で初めての切腹だと言われています。

*為朝の自刃は、治承元年(1177年)であるとも言われ、また日づけに関しても、4月6日説4月23日説など色々ありますが、とりあえず本日、為朝さんの事を書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・

75代天皇・崇徳上皇と77代・後白河天皇兄弟の、皇位と権力をめぐっての争いに藤原氏・平氏・源氏もそれぞれ親兄弟・親戚同士が入り乱れて戦う事になった保元の乱(2011年7月11日参照>>)

源為朝(みなもとのためとも)は、父・為義(ためよし)に従って、崇徳上皇チームに参加(2016年7月11日参照>>)・・・崇徳上皇側には父のほか、左大臣・藤原頼長(よりなが)平忠正(たいらのただまさ)らがいます。

対する後白河天皇チームには、為朝の兄・・・つまり為義の息子・義朝(よしとも)と、藤原頼長の兄で関白の藤原忠通(ただみち)と平忠正の甥である平清盛(たいらのきよもり)

乱が勃発する何日か前から、一触即発の状況で対峙する両陣営。

為朝のいる崇徳チームでは、源氏・平家の武士たちが様々な作戦を提言しますが、藤原頼長がことごとく却下。

この日の前日も、為朝は「今夜、敵に夜討ちをかけよう」と提案しますが、やはり聞き入れてはもらえませんでした。

そして翌日・7月11日の深夜、逆に、敵方の平清盛率いる300騎、源義朝率いる200騎が崇徳チームに夜討ちをかけ保元の乱の幕が切って落とされたのです。

まず最初に現れた清盛軍に対して、真っ先に駆けつけ奮戦する猛将・為朝・・・。

なんせ、為朝は若い頃、父・為義に勘当され九州に追放されたにもかかわらず、その九州の地を治めていた豪族をことごとく討ち破ったという“伝説の男”。

彼の強さに恐れおののいた朝廷が、父・為義に『為朝追討命令』を出しますが、それに従わなかった父が職を追われる・・・その事を知って彼は京へ戻り、父のもとでおとなしくしていた・・・という経歴のあるヤンチャ息子だったのです。

特に彼の弓の腕はすばらしく、この時も、先頭にいた武者の鎧を撃ち抜くなどは朝飯前・・・2番手、3番手の武者も撃ちぬき、恐れた清盛軍は一旦退却し、かわりに兄・義朝の率いる軍が目の前に現れます

「天皇の命令を受けてる・・・しかも兄貴に弓を向けるとは!なんちゅーやっちゃ!」と、大声でタンカを切る義朝に、為朝も言い返します。
「上皇の命令を受けてる・・・しかも父親に弓を向けるとは!なんちゅーやっちゃ!」

為朝の放った矢は、義朝の兜をかすめ、はるか奥のお寺の門の突き刺さります。

こうして始まった保元の乱・・・しかし為朝の奮戦もむなしく、機動力に勝る後白河チームの圧勝!

乱は4時間余りで決着がついてしまいました。

崇徳上皇は讃岐へ流罪、父・為義と平忠正は斬首されます。

為朝も、本当は斬首されるはずでしたが、後白河天皇が「これほどの武者を斬首したら後世に批判を受けるだろう」と、“伊豆大島への流罪”と決定されました。

それだけ、スゴイ名武将だったって事ですね。

ただし、「二度と弓が引けないように」と、この時に腕を傷つけられてしまいます。

ところがどっこい、為朝はこの伊豆大島でも大暴れ!・・・伊豆諸島を次々と征服し、国司に真っ向から立ち向かいます。

やがて、恐ろしくなった朝廷は『為朝追討軍』を派遣。

そして、嘉応二年(1170年)3月6日、八丈小島に追い詰められた為朝は、その場で切腹をし自らの命を絶つのです。

・・・と、話はここで、終らないのです。

そう、英雄の証しとも言える生存説なるものが、この為朝にも存在するのです。

もちろん、伝説の域を超えない物ですが・・・。

その伝説によれば、伊豆から脱出した為朝は、島々を転々とした後、九州へ・・・そして、沖縄にたどり着いたというのです。

そして、その土地の娘と結婚し、生まれた子供が琉球・舜天(しゅんてん)舜天王なのだそうです。

この説が生まれたきっかけには、もちろん為朝が通ったであろう道筋に、いわゆる伝説の地と言われる史跡が各地に残されている事が関わっているわけですが、何よりも、17世紀に琉球王国の摂政を務めた羽地朝秀(はねじちょうしゅう)なる、れっきとした政治家が『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)という史書の中で、この事を書いているからなのです。

“為朝=琉球王国の祖”

もし、これが、事実でないのだとしたら、朝秀さんという人物はなぜ、そんな事を書き残したのでしょう?

それは、17世紀当時の国際情勢にかかわりがあるかも知れません。

この頃、琉球王国は、中国と薩摩・島津藩と、両方の支配に悩まされていました(4月5日参照>>)

そんな、琉球王国の祖が、清和天皇の血を引く源氏・・・しかも英雄・源為朝であったとしたら・・・これは、高飛車な島津藩をビビらせるには、持って来いのお話である事は確かでしょうね。

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強弓の為朝さんのイメージは、
疾風のごとく空を舞う鷹のイメージ・・・

琉球王国に夢を馳せて、その鷹にデイゴの花にとまってもらいました。
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2007年3月 5日 (月)

大奥スキャンダル絵島の真相

 

正徳四年(1714年)3月5日、大奥最大のスキャンダルを起こした絵島が、信州高遠へ追放されました。

・・・・・・・・・

大奥と言えば、やはり岸田今日子さんのナレーションによるあのドラマを思い出しますが、最近のリメイク版も、かなりの人気だったようで、映画にもなってます。

それにしても・・・
「将軍さまってなんて幸せなんだ!大勢の女性をはべらかして、めくるめく酒池肉林の世界・・・」って、世の男性たちは、うらやましがってませんか?

しかし、ホントの所はけっこう何だかんだの制約があったみたいですよ。

毎月のうち10日くらいは、『御精進日』という日があって、その日は亡き親戚やご先祖の参拝に行かなくてはならないので、大奥への出入りは無し

そうなると、残る3分の2の日のうちの何日かになるわけですが、当然、早いうちに今夜ご指名のお女中を打診しておかないと、準備が整いませんから、まだ昼間のうちに予定を通達。

連絡を聞いた大奥側は、寝室の用意や、指名されたお女中の身支度にかかります。

・・・で、だいたい夜の10時ごろになって、将軍さまが寝室にお入りあそばされるわけですが、お相手するお女中は1時間前には、寝室に入って準備万端整えて、ふとんの横でスタンバイ。

・・・と、ここで気になるのはふとんの数・・・なんと一つの部屋にふとんが川の字に、(一本多い)4組敷かれております。

真ん中のふたつに寝るのは、当然、将軍さまと、ご指名を受けたお女中。

そして、その両脇には、『お坊主』と呼ばれる頭を剃った女性が、背中を向けて寝るのですが・・・彼女たちは、絶対に後ろを振り向かず、眠らず、一晩中将軍とお女中を監視する・・・言わばガードマンなのです。

そして、翌日には、お相手したお女中と横に寝ていたお坊主が、昨日の夜どうだったか、二人がふとんの中で話した言葉さえも一言一句もらさず、何回ヤッタ・・・もとい・・・何度おたわむれをあそばされたかなども、御年寄(位の高いお女中)に報告しなければならなかったのです。

もう、屁もこけない状況ですな~。

そんなこんなで、毎回、将軍さまのご要望にお答えしていたお女中も30歳を過ぎる頃になると、ご正室であろうがご側室であろうが、皆『御褥辞退(おしとねじたい)と言って、要するに定年を迎えるわけです。

しかし、定年になっても、大奥を出られるわけではないので、将軍さまのお声もかからないまま、そこに居続けなりません。

当然の事ながら、不満をもんもんと抱え込む・・・唯一の希望はいかに大奥で権力を握ってブランド品で着飾るか・・・そんな事しか楽しみなんてありゃしませんからね~

それで、ドラマのような女同士の戦いが起こっちゃったりするわけです。

・‥…━━━☆

・・・で、今回、大奥最大のスキャンダルと言われる『絵島・生島事件』を起こした絵島さんは、そんな大奥のお女中の中でもトップクラス!

七代将軍・徳川家継のお母さん・月光院に仕えていた大年寄で、当時、千人くらいいたお女中を仕切っていた権力者です。

そんな彼女が、この正徳四年(1714年)の1月12日、その月光院さんの名代で、前将軍・家宣さんのお墓参りのため、沢山のお女中を引き連れて、芝の増上寺へ出かけのです。

そして、その帰り道、ちまたで人気のお芝居を見物して、その後、宴会へ繰り出した・・・宴会には、途中から舞台を終えた人気役者の生島新五郎も駆けつけておおいに盛り上がります。

それで、大奥の門限に遅れてしまった・・・実は、絵島さんの罪はそれだけなんです。

なぜ?それが、大奥最大のスキャンダルになってしまうのでしょう?

大奥のお女中は普段は外に出る事はできませんが、この寺院の参拝の時だけは、OK・・・少ない自由な時間を有意義に楽しもうと、“参拝→芝居見物→宴会”というコースは、大奥の誰もがやってる通常のパターンでした。

しかも、絵島さんは、盛り上がる事を覚悟して、事前に『遅延届』なる物も提出ずみ。

たしかに、100人ほどの女中たちが芝居小屋を占拠してしまったり、トップスターお目見えの宴会で少しはしゃぎ過ぎた感はありましたが、死罪2人・遠島40人をはじめ1500人が処分を受けるほどの大スキャンダルだとは、とても思えません。

ドラマや映画では、絵島が大奥での権力を欲しいままに好き放題し、あげくの果てに、好きになったイケメン役者の生島を、“衣装箱”の中に荷物と一緒に潜り込ませて男子禁制の大奥に誘い込み・・・というシーンがよく描かれていますが、これは、お芝居を面白くするための後世の創作です。

彼女の罪状は、あくまで『不行=遊興』だけなのです。

臭いますね~。
お察しの通り、実は、この事件には大きな権力争いが絡んでいるんです。

当時、大奥では、この絵島さんの仕えていた七代将軍・家継の母・月光院派前将軍・家宣の正室・天英院派に真っ二つに別れていたのですが、やはり現役将軍の母である月光院派のほうが明らかに優勢、この権力の差は大きい物でした。

そんな天英院に近づいたのが、老中・秋元喬知(たかとも)で、月光院には、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)新井白石といった人物がくっついていたのです。

秋元は彼らを・・・天英院は月光院を・・・この絵島事件は、それぞれに追い落としたい人物を、一掃できる絶好のチャンスであると彼らは睨んだんでしょうね。

結果、妹を監督できなかったという事で絵島の兄・白井平右衛門と、絵島に遊興をすすめたとして水戸藩・奥山喜内二人が死罪。

役者・生島新五郎のいた“山村座”は廃絶・・・そして、正徳四年(1714年)3月5日、当の絵島さんは信州高遠へ追放となるのです。

秋元喬知は、この機会に腐敗した大奥を立て直すという大義名分を掲げて、多くの者を処罰しますが、結局、処分されたのは月光院派の者ばかりでした。

しかし、話はここで終わりません。

将軍・家継が亡くなった後の後継者争いが、そこに絡んで来るのです。

実は、この事件が起きるまでは、月光院側は次期将軍として尾張吉通を押していて、実際に吉通が有力でした。

しかし、この事件をきっかけに勢力を盛り返した天英院派

結局、在位四年でこの世を去った家継の後継者には、天英院と秋元の推す紀州吉宗になってしまうのです(8月13日参照>>)

紀州からやって来た暴れん坊将軍は、江戸に来るなり、間部詮房と新井白石を免職し、大奥の改革に取り掛かります。

事件から8年後の享保七年(1772年)には、絵島以外の事件関係者はすべて罪を許され、絵島だけが信州に追放されたまま、その生涯を閉じました。

ドラマやお芝居では、大奥最大のスキャンダル・稀代の悪女として描かれる事の多い絵島さんですが、どうやら彼女は権力闘争に巻き込まれた犠牲者のようですね。 

Oookutyoucc
大奥のイメージってこんな感じかなぁ・・・
紫・・・蝶・・・しかもいっぱい
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2007年3月 4日 (日)

杉田玄白、解体新書の話

 

明和八年(1771年)3月4日、杉田玄白・前野良沢らが死刑囚の解剖を見学し、翌日からオランダ語で書かれた医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始します。

・・・・・・・・・

若狭の国・小浜藩の医者・杉田玄白(げんぱく)は、江戸藩邸に滞在中に『ターヘル・アナトミア』と出会います。

もちろん、玄白には手が出ないような高額な医学書・・・彼はは何とか頼み込んで、藩にその医学書を購入してもらいます。

それは、ドイツの『解剖学図譜』という医学書をオランダ語に訳した物で、男子の後ろ向きと女子の前向きの全身図に身体各部の名前が記され、その意味が後ろの本文に書かれているという物でした。

そんな玄白のもとへ、タイミング良くニュースが舞い込んできます。

「小塚原の刑場で、死刑囚の腑分け(解剖)が行われる」というのです。

早速、この『ターヘル・アナトミア』を片手に、小塚原へ一目散に駆けつけます。

それが、明和八年(1771年)3月4日、玄白38歳の事でした。

やがて、解剖が進むにつれ、玄白は驚きを隠せません・・・本の絵と実際の内臓を見比べれば見比べるほど、実に正確に描かれているのです。

その本を横からチラ見ながら、同じように感激していたのが、中津藩の医者・前野良沢(りょうたく)

当然、その場で意気投合した二人は、「この本を日本語に訳して、わが国共通の財産にしよう!」と、張り切って翻訳を決意します。

しかし予想通り、いやそれ以上に翻訳の作業は大変なものでした。

図に書かれた臓器の名前のアルファベットを拾い、本文と照らし合わせて意味を考える・・・良沢などは長崎まで行って、通訳からオランダ語を習うといった所から始まります。

やがて、玄白の同僚・中川淳庵が加わり、三人で月に6~7回は集まって(それぞれ仕事もあるので・・・)必死の翻訳作業を続けます。

そうこうしているうちに、幕府の医者なども加わり、徐々に人数も増えていき、ほぼ一年半の歳月をかけて、ようやく全文の翻訳を終えました。

しかし、まだこの時点では、出版はできませんでした。

「もしも、不備があって出版禁止にでもなったら大変だ」と、何と!ここから11回も練り直して、やっとこさ4年目にして『解体新書』が刊行されるのです。

Kaitaisinsyo

玄白は晩年になって、その翻訳の苦労話を『蘭学事始』に書いていますが、彼らが何よりも苦労したのは、そのもとのオランダ語を適切に訳し変える日本語がない事でした。

漢方の用語に当てはめても、なかなかうまくいかない・・・。

つまり、日本では名前のついていない体の部分が数多くあったのです。
それで、彼らはその名前事態を作ります。

現在、医学用語として使われている名称には、この時に作られた造語がたくさんあります。

たとえば、“神経”という名称・・・これは、玄白らの弟子・大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)『重訂解体新書』という『解体新書』をフォローする改訂版に書いている事なのですが、「うまく名づける事はできないが、神霊とか、精とか、元気などはこの物の働きであって、形質が明らかではないので、これを神経と訳す事にする」とあります。
どうしてもうまく表現できない時は、彼らは漢字まで新しく作っています。

ところで、この日の解剖の見学と『解体新書』の発行によって、「それまでの日本文化の常識が180度ひっくり返される」という出来事が起こっています。

それは、この日解剖された死刑囚が女性であった事に端を発します。

少し、俗っぽい話になるのですが・・・。
玄白は、この女性の解剖に立ち会って、『ターヘル・アナトミア』に書かれてある“処女膜”が実際に存在する事を確認するのです。

もちろんこの名称も彼らの造語です。

処女という言葉は万葉の昔からありましたが、別の意味で使われていて、男性経験のない女性の事は、一般的には“乙女”と呼んでいました。

しかも、その事はそれまでの日本の文化においてあまり重要視されていなかったのです。
戦国時代に日本にやってきたルイス・フロイスも、その著書の中で「日本女性は処女の純潔を重んじない。それを欠いても名誉も失わないし、結婚も普通にできる」と書いています。

高貴なお姫様も、政略結婚で次から次へと、別の男性に嫁ぐという事もありましたし、一般人も、以前【結婚の歴史】(ブログ:1月27日参照)でも書いたように、婚前交渉は当たり前・・・むしろ、「試してからでないと結婚なんてできないワ」くらいの勢いでした。

それが、江戸時代になって儒教の教えが浸透してくるようになって、徐々に未経験が重要視され始めた頃に、グッドタイミングで“処女膜”なる物の存在を『解体新書』が発表しちゃったもんだから大変。

ちまたには“生娘(きむすめ)当て屋”(どうやって当てるんだ?)なる珍商売も生まれ、これまでの自由な男女間の性交渉を“不道徳”という見方をするようになったのです。

やがて、これは法律的にも規制されるようになり、“不貞”という事で、死罪や極刑を科せられる・・・という事になっていきます。

ちなみに、余談ですが、この『解体新書』。

前野良沢の名前が一切本文には出て来ないのですが、それは、良沢が長崎で勉強していた頃「みだりに名声を求めない」という事を大宰府天満宮に願掛けしていて、この本に名前を掲載する事を辞退したもので、決して玄白さんと著作権でモメたわけではありません。

慎ましいお人やなぁ~。

★外科の『解体新書』に対して、内科の『西説内科撰要』を発刊した津山洋学についても一読どうぞ>>
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2007年3月 3日 (土)

赤報隊・相楽総三、 諏訪に散る

 

慶応四年(明治元年・1868年)3月3日、赤報隊の一番隊長・相楽総三が下諏訪にて処刑されました

・・・・・・・・・

慶応二年(1866年)それまで敵対していた薩摩と長州が薩長同盟を結んだ(1月21日参照>>)事によって、時代は一気に維新へと進みはじめます。

新しい時代への期待と不安が入り乱れ、各地には一揆や打ちこわしが起こり、翌年の慶応三年という日本の一大転換期を迎えます。

この年の7月に愛知から始まった【ええじゃないか】(7月15日参照>>)の大騒ぎが徐々に各地へ広がる中、

10月には大政奉還(10月14日参照>>)
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)と、
表向きは武力に走る事なく時代が変っていくかに見えました。

しかし、このまま武力無しで、維新が進んで行けば、「幕府は細々とでも生き残り、いつかまた力をつけるかもしれない」と考えた薩摩の西郷隆盛らは、何とか武力に持ち込んで、この機会に徹底的に徳川をぶっ潰そうとします。

・・・かと言って、薩摩から幕府に兵を挙げれば、即・謀反となりますから、幕府のほうから攻撃を仕掛けさせなかれば・・・。

幕府のほうから行動を起こさせるために、西郷らは関東の各地で兵を挙げさせたり、旗本を襲わせたりと、社会を不安に走らせるテロ行為を頻繁に起こさせました。

結局この行為に我慢しきれなかった幕府は、薩摩の思惑通りに江戸薩摩藩邸を焼き討ちし(12月25日参照>>)、翌年の慶応四年(明治元年・1868年)の正月には、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと突入するのですが、この時のテロ行為を行っていた薩摩屋敷の浪士隊の中心人物相楽総三(さがらそうぞう)だったのです。

そして、戊辰戦争の最初の衝突であつ鳥羽伏見の戦いがおさまった正月8日に、総三は維新政府に対して建白書を提出します。

その中には「新政府の人気を得るためには、これまでの年貢を半減にすべきである」という内容が書かれていたのです。

「これは農民の心をつかんだ意見である」と、西郷隆盛や岩倉具視の指示を得て、「租税半減」の命令が下り、ここに、総三を隊長とする『赤報隊』が結成されるのです。

滋賀県の金剛輪寺にて旗揚げをし、「赤心(まごころという意味です)を持って国に報いる」という事から名前を付けた赤報隊は、先ほどの「租税半減」をスローガンに掲げ、官軍の先発隊として中仙道を東へ進んで行きます。

中仙道に点在する村々の民衆にとっては、あの「ええじゃないか」の騒ぎの後にやってきた赤報隊は、まさに農民の味方!彼らは、庶民のハートをがっちりキャッチする事に成功します。

しかし、鳥羽伏見から始まった戊辰戦争・・・。

当然の事ながら、維新政府の財政は苦しくなります。

三井などの豪商から借金を重ねるうち、その見返りとしての年貢米の重要性が高まってきます。

・・・と、ここで新政府はいきなり方針転換!

先の「租税半減」の約束を取り消してしまうのです。

そして、「租税半減」のスローガンを掲げていた赤報隊の事を、『官軍ノ名ヲ偽リ、無頼賊徒ノ所業』と発表。

つまり、「租税半減」は相楽総三らが勝手に触れ回った事で、彼らはニセの官軍であり、悪人の集まりである・・・と、したのです。

それは、結成からわずか20日の、1月29日の事でした。

しかし、これは西郷さんの最初っからの計画通りかも・・・なぜなら、維新政府の財政を見れば、年貢の半減なんて実現できるかどうか、はなから見当がついていたはずでしょう。

この事を裏付けるかのように、維新政府は、最初っから正式な書類は一切作らず赤報隊が官軍である証拠となる物を書面として残さなかったのです。

そして、慶応四年(明治元年・1868年)3月3日「にせ官軍」のレッテルを貼られた相楽総三は下諏訪で捕えられ、仲間であったはずの維新政府によって処刑されるのです。

これは、もちろん先に書いた財政の事と、もう一つ、あまりにも民衆の心を掴み過ぎた事による警戒心も含まれているものと思われます。

それにしても、ちまたには相楽総三さんに関する資料が少ない気がするのですが・・・どうなんでしょう?

維新政府がすべてを揉み消してしまったのでしょうか?
それとも、私が見つけられないだけなのかしら?

とにかく、後の世になって「にせ官軍」の汚名だけは晴らせたようなので、少しは心救われますが、幕末に散った志士の中では特に悲しみを感じさせられる人物です。

Sekihoutaicc
赤報隊のイメージで書いてみました~
赤報隊・相楽総三のイメージでどんなんだろう?相楽さんの顔は知らないし、花に例えると・・・最初はパッと咲いてパッと散る桜かなぁ~なんて思ったりもしましたが、やはり1月に咲いて3月に散る・・・真紅の落ち椿のイメージではないかと・・・こんな感じの絵を書いてみました・・・

★よろしければ、相楽総三中心に書かせていただいた2010年3月3日のページ【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る2】もどうぞ>>
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2007年3月 2日 (金)

北町奉行・遠山の金さん

 

天保十一年(1840年)3月2日に、あの“遊び人の金さん”こと、遠山左衛門尉景元が北町奉行に任命されました。

・・・・・・・・・・

この町奉行という役職に任命されるのは3千石以下の旗本に限られていて、その中では、町奉行は出世頭です。

まずは、火事場の見回り役から始まり、ここで町のようすや一般庶民の日常をお勉強

次に、お目付け役となり、法律の勉強をします。

この時点で、あんまりパッとしない人はここ止まり・・・これ以上の出世は望めません。

成績優秀だった場合は、遠国奉行として地方に派遣・・・ここで実際に奉行の仕事をしながら、部下への指導法や上司としての心得をお勉強します。

これがうまくいったら、今度は長崎奉行
ここで、外国人と接触してインターナショナルな知識を積上げます。

ここまで、行ったらたいしたもんですが、もしも、ここでも優秀とみなされたら、いよいよ最終段階の一歩手前・・・京都町奉行になります。

京都では、お公家さんと仲良くしてセレブな知識を身につけます。

さぁ、そろそろ江戸町奉行が手に届く所に来ましたが、ここで最後のお勉強・・・大坂町奉行として、一癖も二癖ある大坂人を相手に、その笑いのセンスを・・・いえ、天下の台所での商業の知識と大都市を仕切る奉行のセンスを磨いてもらいます。

こうして、実際に奉行の仕事をしながら様々なお勉強を終え、やっと江戸町奉行という大出世の頂点に立つわけです。

・・・と、これが一般的なお奉行様のエリート出世街道なのですが、天保十一年(1840年)3月2日北町奉行に任命された遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)さんは、作事奉行公事方勘定奉行から、地方周りや長崎・京都・大坂を飛び越え、一気に江戸町奉行に任命されるという異例の大出世!

エリートよりさらにエリートな出世ぶりです。

ちなみに、あの大岡越前こと忠相(ただすけ)さん(8月12日参照>>)も、伊勢山田(ようだ)奉行から、直で江戸町奉行に任命されています。

このお二人はやはり、よほど成績が優秀だったんでしょうね。

ところで、この町奉行という仕事・・・時代劇でよく見るお裁きのシーンでお分かりのように、今で言う裁判官のようなお仕事ですが、実際にはそれだけではありません。

裁判官のほかに、警視総監消防庁長官税務署長そして(県)知事・・・と、要するに町の事はぜ~んぶ奉行がやらなければならなかったのです。

そりゃもう、大変な激務で、桜吹雪を見せて犯人の自白を促している時間なんかありません。

実際には吟味方の与力が罪状などを事前に調べあげて、お奉行様は初審と判決を言い渡すだけとなっていました。

もちろん、遊び人に扮して事件に「いっちょ噛む」なんて事は当然無かったでしょうしね。

町奉行が北と南(大坂は西と東)に分かれていて、月交代で執務を行ったのも、その辺の激務に対する気遣いも含まれているのでしょうね。

ただ、それだけでも、ありません。

上にも書いたようにお奉行様は大変大きな権限を持っています。

この大きな権限は時として「ひとりよがりとなって、私的な判断で町を治めてしまう」という事に陥りかねません。

それで、一ヶ月交代でバランスをとってたんですね。

当然ですが、その月が当番じゃないから全面おやすみ~って事にはなりません。

自分が担当した月の未解決事件の整理もしていましたし、突発的な大きな事件にはやはり出勤していました。

・・・で、遠山の金さんが次のお奉行様にバトンタッチしたのが、天保十四年(1843年)の2月・・・って事は、わずか3年間?。。。(時代劇はもっと長かったゾ!)

この年数は、思ってた以上に早い感じがしますが、お奉行様としてはごく普通・・・平均的な年数なのです。

当時は、たいてい2~3年で新しいお奉行様が任命されていました。

これは、先ほどの激務・・・という事も関係あるのですが、何と言っても人間関係による物だったようです。

当時、月に3回の割合で、内寄合日(ないよりあいび)というのが設けられていて、南北両奉行所の連絡会のような物が開かれていたのです。

この、連絡会の中で、南と北のどちらか後から任命された奉行が、先に任命された奉行に「これで良いですか?」と、聞いて許しを得なければいけないという決まりがあったのです。

先任の奉行がイケズなオッサンなら、新任の奉行の決定にことごとく反対したりもするし、逆に「これは、当然だろ?」という事もいちいち相談しなければならないという、とても面倒な事になってたんです。

それで、新しい奉行が任命されると同時に、その奉行は先任の奉行の事を「あぁ、早くあのオッサン奉行やめてくれへんかな~」てな事を考えるようになって、自然と任期が短くなっていたというのですが・・・。

金さんも新任の奉行にそんな風に思われてたんですかね。

たしかに、相当良い人でも、実際上司となると、「んん?」って感じになっちゃいますからね。

人間関係は難しい・・・Σ(;・∀・)。

Sakurafubukicc
イラストは遠山桜をイメージしてみました~

実際の金さんの刺青は、「女の生首」だったんですけどね。。。
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2007年3月 1日 (木)

静御前の白拍子なる職業

 

文治二年(1186年)3月1日に、昨年、吉野で捕えられた静御前が鎌倉に入りました

・・・・・・・・・・・

平家追討の功労者でありながら、兄・源頼朝と不仲になり、追われる身となった源義経と行動をともにしていた恋人の静御前でしたが「女連れでは捕まってしまう」と泣く泣く分かれた直後、吉野山で捕まってしまいます。(11月17日参照>>)

そして、京の六波羅で北条時政から、義経の行方について詮議を受けるのですが、彼女は本当に義経の逃亡先を知りませんから答えようもありません。

やがて、彼女が義経の子供を妊娠している事もあり、本当は義経の行方を知っているのではないか?という鎌倉方の疑いもあり、母・磯禅師(いそのぜんじ)とともに、文治二年(1186年)3月1日、鎌倉に送られたのです。

その頃の義経は、本当に消息不明(逃亡してるんだから当然ですが・・・)「伊勢にいる」「いや兵庫にいる」と、噂が出るたんびに、時政は兵を出して駆けつけますが、到着してみると、その影すらない・・・といった状況に振り回されていました。

もちろん静御前は、鎌倉に到着してからも、頼朝などから質問攻めに合うわけですが、やはり答えは同じです。

・・・で、来月の4月には、例の名場面・「妊娠7ヶ月での静の舞い」って事になるのですが、「静の舞い」については、4月10日に書いた【鶴岡八幡宮・静の舞】>>のページで見ていただくとして、今日は、静御前の職業白拍子という物について、ちょっと書かせていただきます。

ドラマやお芝居などでは、かなり物静かな耐える女性として描かれる静御前ですが、私のイメージは(何度かこのブログでも書きましたが)、気の強い姉御肌のしっかり者という印象です。

一昨年の大河でも、義経がまだ鞍馬にいる頃に知り合って、そのまま愛を貫く純愛路線でしたが(主役がタッキーなら仕方がない)、実際には、義経が平家を倒し、頼朝に鎌倉入りを拒まれ、京に滞在している頃に、二人は知り合ったとされています。

頼朝と不仲になっているとは言え、当時の義経は都一のヒーローです。
一方の静御前も、都一の白拍子。

くっつくべくして、くっついた二人・・・といった感じ。

今で言えば、大統領か総理クラスの大臣か、世界的に大活躍のスポーツ選手の愛人になった国民的女優さんかアイドル・・・ってトコでしょう。

もちろん、男の方は若くてイケメンでなくては話になりませんが・・・。

静御前が白拍子という職業で、しかも一世を風靡した事を考えると、物静かな耐えるばかりの女性ではありえない事がわかります。

そんな女性では白拍子という職業で上にのし上がる事はできませんからね。

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白拍子というのは、水干(すいかん)という、武士がよく着ていた狩衣(かりぎぬ)をもう一段簡素化した服装で、頭に立烏帽子(たてえぼし)をかぶり、腰に刀をさす・・・要するに女性が男装をして、今様を歌いながら舞を舞う・・・という物です。

今様というのは、今風の・・・あるいは今流行りの・・・という意味で、要するに今で言うヒットチャートまっしぐらの曲って事です。

つまり、静御前は歌って踊れるトップアイドルって事になります。

しかも、この時代ですからステージは宴会場。

お酒のお相手もしますから、アイドルであり、ホステスであり、その上、望まれれば夜のお相手もするのですから、かなり、したたかでないと生き抜いてはいけません。

彼女が鎌倉で、かたくなに義経の事を話さないのは、「知らない」という事以上に、義経に対する愛情だけではなく、プロとしてのプライドがそうさせたのではないでしょうか。

料亭やクラブで政治家が何かを話していても、一流の芸者さんやホステスさんは、その内容を他人に口外したりはしません。

高級な水商売の人ほど、他言はしない物です。

そういう意味で静御前は、お相手の邪魔にならないよう、お荷物にならないよう、最大限プロに徹していた人だと思います。

・・・というか、そう思わないと、とてもじゃないがやってられません。
なんせ、『義経記』によると、この頃、密かに京都に潜入した義経さん・・・

以前、都落ちで船が難破した時(11月3日参照>>)、浜辺にほっぽらかしてきた十数人の女性の中のひとり、正室とおぼしき一条の姫の所に行ってたし、静御前とは途中で別れても、最後まで彼女を連れて、奥州・藤原氏のもとへ逃げています(4月30日参照>>)から、ドラマのような純愛だとショックに耐えられない結果となってしまいます。

本物の静御前は、ドラマよりもっと大人だったんでしょうね。
義経さんは、ドラマより女好きの破天荒?ってトコでしょうが・・・。

まぁ、一夫多妻制って事ですし、恋愛感が今とは違いますからね。

ところで、この白拍子という職業・・・平安から鎌倉時代が最盛期で、身分は低いものの、かなりもてはやされたようですが、戦国時代にはもう時代遅れとなって、「あるき白拍子」などと呼ばれるさすらいの芸人が多くなっていき、最後には歌舞伎などの芸能にその座を譲る事になります。

白拍子の舞は、曲舞いという物に受け継がれ、現在でもお寺のお祭りの時に行われる「踊り念仏」がそれだと言われています。

能を大成させた世阿弥の父・観阿弥も、曲舞の一座から踊りを学んだとされていますし、その観阿弥が教えをこうた曲舞座の末裔が祇園御霊会の舞女をつとめていたと言いますから、白拍子たちの舞は、様々な芸能に受け継がれていった事がわかります。

そして、もう一つ・・・今様も、後世に受け継がれていきます。

♪ひとつとせぇ~♪という、なじみの深いわらべ唄は、そのまま今様でも「数え歌」「物づくし」などど呼ばれて歌われていた歌詞です。

語呂がよく、響きも良く、世相を歌いこむ今様は、小唄端唄(はうた)都々都逸(どどいつ)といった民衆の歌謡として、後の世にもう一度、花開く事になります。

みなさんがよくご存知の「黒田節」は、今様の形式を色濃く残していると言われています。

「語呂がよく、響きも良く、世相を歌いこむ・・・」ひょっとして、ヒップホップも今様を受け継いでいるのかも・・・て思うくらい定義がピッタリ合ってますね。

やはり、今様はその時代のヒット曲って事ですね。

このお話の続きは4月8日【鶴岡八幡宮静の舞い】へどうぞ>>  
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