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2007年3月 5日 (月)

大奥スキャンダル絵島の真相

 

正徳四年(1714年)3月5日、大奥最大のスキャンダルを起こした絵島が、信州高遠へ追放されました。

・・・・・・・・・

大奥と言えば、やはり岸田今日子さんのナレーションによるあのドラマを思い出しますが、最近のリメイク版も、かなりの人気だったようで、映画にもなってます。

それにしても・・・
「将軍さまってなんて幸せなんだ!大勢の女性をはべらかして、めくるめく酒池肉林の世界・・・」って、世の男性たちは、うらやましがってませんか?

しかし、ホントの所はけっこう何だかんだの制約があったみたいですよ。

毎月のうち10日くらいは、『御精進日』という日があって、その日は亡き親戚やご先祖の参拝に行かなくてはならないので、大奥への出入りは無し

そうなると、残る3分の2の日のうちの何日かになるわけですが、当然、早いうちに今夜ご指名のお女中を打診しておかないと、準備が整いませんから、まだ昼間のうちに予定を通達。

連絡を聞いた大奥側は、寝室の用意や、指名されたお女中の身支度にかかります。

・・・で、だいたい夜の10時ごろになって、将軍さまが寝室にお入りあそばされるわけですが、お相手するお女中は1時間前には、寝室に入って準備万端整えて、ふとんの横でスタンバイ。

・・・と、ここで気になるのはふとんの数・・・なんと一つの部屋にふとんが川の字に、(一本多い)4組敷かれております。

真ん中のふたつに寝るのは、当然、将軍さまと、ご指名を受けたお女中。

そして、その両脇には、『お坊主』と呼ばれる頭を剃った女性が、背中を向けて寝るのですが・・・彼女たちは、絶対に後ろを振り向かず、眠らず、一晩中将軍とお女中を監視する・・・言わばガードマンなのです。

そして、翌日には、お相手したお女中と横に寝ていたお坊主が、昨日の夜どうだったか、二人がふとんの中で話した言葉さえも一言一句もらさず、何回ヤッタ・・・もとい・・・何度おたわむれをあそばされたかなども、御年寄(位の高いお女中)に報告しなければならなかったのです。

もう、屁もこけない状況ですな~。

そんなこんなで、毎回、将軍さまのご要望にお答えしていたお女中も30歳を過ぎる頃になると、ご正室であろうがご側室であろうが、皆『御褥辞退(おしとねじたい)と言って、要するに定年を迎えるわけです。

しかし、定年になっても、大奥を出られるわけではないので、将軍さまのお声もかからないまま、そこに居続けなりません。

当然の事ながら、不満をもんもんと抱え込む・・・唯一の希望はいかに大奥で権力を握ってブランド品で着飾るか・・・そんな事しか楽しみなんてありゃしませんからね~

それで、ドラマのような女同士の戦いが起こっちゃったりするわけです。

・‥…━━━☆

・・・で、今回、大奥最大のスキャンダルと言われる『絵島・生島事件』を起こした絵島さんは、そんな大奥のお女中の中でもトップクラス!

七代将軍・徳川家継のお母さん・月光院に仕えていた大年寄で、当時、千人くらいいたお女中を仕切っていた権力者です。

そんな彼女が、この正徳四年(1714年)の1月12日、その月光院さんの名代で、前将軍・家宣さんのお墓参りのため、沢山のお女中を引き連れて、芝の増上寺へ出かけのです。

そして、その帰り道、ちまたで人気のお芝居を見物して、その後、宴会へ繰り出した・・・宴会には、途中から舞台を終えた人気役者の生島新五郎も駆けつけておおいに盛り上がります。

それで、大奥の門限に遅れてしまった・・・実は、絵島さんの罪はそれだけなんです。

なぜ?それが、大奥最大のスキャンダルになってしまうのでしょう?

大奥のお女中は普段は外に出る事はできませんが、この寺院の参拝の時だけは、OK・・・少ない自由な時間を有意義に楽しもうと、“参拝→芝居見物→宴会”というコースは、大奥の誰もがやってる通常のパターンでした。

しかも、絵島さんは、盛り上がる事を覚悟して、事前に『遅延届』なる物も提出ずみ。

たしかに、100人ほどの女中たちが芝居小屋を占拠してしまったり、トップスターお目見えの宴会で少しはしゃぎ過ぎた感はありましたが、死罪2人・遠島40人をはじめ1500人が処分を受けるほどの大スキャンダルだとは、とても思えません。

ドラマや映画では、絵島が大奥での権力を欲しいままに好き放題し、あげくの果てに、好きになったイケメン役者の生島を、“衣装箱”の中に荷物と一緒に潜り込ませて男子禁制の大奥に誘い込み・・・というシーンがよく描かれていますが、これは、お芝居を面白くするための後世の創作です。

彼女の罪状は、あくまで『不行=遊興』だけなのです。

臭いますね~。
お察しの通り、実は、この事件には大きな権力争いが絡んでいるんです。

当時、大奥では、この絵島さんの仕えていた七代将軍・家継の母・月光院派前将軍・家宣の正室・天英院派に真っ二つに別れていたのですが、やはり現役将軍の母である月光院派のほうが明らかに優勢、この権力の差は大きい物でした。

そんな天英院に近づいたのが、老中・秋元喬知(たかとも)で、月光院には、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)新井白石といった人物がくっついていたのです。

秋元は彼らを・・・天英院は月光院を・・・この絵島事件は、それぞれに追い落としたい人物を、一掃できる絶好のチャンスであると彼らは睨んだんでしょうね。

結果、妹を監督できなかったという事で絵島の兄・白井平右衛門と、絵島に遊興をすすめたとして水戸藩・奥山喜内二人が死罪。

役者・生島新五郎のいた“山村座”は廃絶・・・そして、正徳四年(1714年)3月5日、当の絵島さんは信州高遠へ追放となるのです。

秋元喬知は、この機会に腐敗した大奥を立て直すという大義名分を掲げて、多くの者を処罰しますが、結局、処分されたのは月光院派の者ばかりでした。

しかし、話はここで終わりません。

将軍・家継が亡くなった後の後継者争いが、そこに絡んで来るのです。

実は、この事件が起きるまでは、月光院側は次期将軍として尾張吉通を押していて、実際に吉通が有力でした。

しかし、この事件をきっかけに勢力を盛り返した天英院派

結局、在位四年でこの世を去った家継の後継者には、天英院と秋元の推す紀州吉宗になってしまうのです(8月13日参照>>)

紀州からやって来た暴れん坊将軍は、江戸に来るなり、間部詮房と新井白石を免職し、大奥の改革に取り掛かります。

事件から8年後の享保七年(1772年)には、絵島以外の事件関係者はすべて罪を許され、絵島だけが信州に追放されたまま、その生涯を閉じました。

ドラマやお芝居では、大奥最大のスキャンダル・稀代の悪女として描かれる事の多い絵島さんですが、どうやら彼女は権力闘争に巻き込まれた犠牲者のようですね。 

Oookutyoucc
大奥のイメージってこんな感じかなぁ・・・
紫・・・蝶・・・しかもいっぱい
 .

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コメント

画像をもらいます!

とっても綺麗ですねw

投稿: 黒猫7 | 2011年3月 5日 (土) 20時49分

黒猫7さん、こんばんは~

イイ感じで使っていただけるとウレシイです。

投稿: 茶々 | 2011年3月 6日 (日) 00時54分

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