杉田玄白、解体新書の話
明和八年(1771年)3月4日、杉田玄白・前野良沢らが死刑囚の解剖を見学し、翌日からオランダ語で書かれた医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始します。
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若狭の国・小浜藩の医者・杉田玄白(げんぱく)は、江戸藩邸に滞在中に『ターヘル・アナトミア』と出会います。
もちろん、玄白には手が出ないような高額な医学書・・・彼はは何とか頼み込んで、藩にその医学書を購入してもらいます。
それは、ドイツの『解剖学図譜』という医学書をオランダ語に訳した物で、男子の後ろ向きと女子の前向きの全身図に身体各部の名前が記され、その意味が後ろの本文に書かれているという物でした。
そんな玄白のもとへ、タイミング良くニュースが舞い込んできます。
「小塚原の刑場で、死刑囚の腑分け(解剖)が行われる」というのです。
早速、この『ターヘル・アナトミア』を片手に、小塚原へ一目散に駆けつけます。
それが、明和八年(1771年)3月4日、玄白38歳の事でした。
やがて、解剖が進むにつれ、玄白は驚きを隠せません・・・本の絵と実際の内臓を見比べれば見比べるほど、実に正確に描かれているのです。
その本を横からチラ見ながら、同じように感激していたのが、中津藩の医者・前野良沢(りょうたく)。
当然、その場で意気投合した二人は、「この本を日本語に訳して、わが国共通の財産にしよう!」と、張り切って翻訳を決意します。
しかし予想通り、いやそれ以上に翻訳の作業は大変なものでした。
図に書かれた臓器の名前のアルファベットを拾い、本文と照らし合わせて意味を考える・・・良沢などは長崎まで行って、通訳からオランダ語を習うといった所から始まります。
やがて、玄白の同僚・中川淳庵が加わり、三人で月に6~7回は集まって(それぞれ仕事もあるので・・・)必死の翻訳作業を続けます。
そうこうしているうちに、幕府の医者なども加わり、徐々に人数も増えていき、ほぼ一年半の歳月をかけて、ようやく全文の翻訳を終えました。
しかし、まだこの時点では、出版はできませんでした。
「もしも、不備があって出版禁止にでもなったら大変だ」と、何と!ここから11回も練り直して、やっとこさ4年目にして『解体新書』が刊行されるのです。
玄白は晩年になって、その翻訳の苦労話を『蘭学事始』に書いていますが、彼らが何よりも苦労したのは、そのもとのオランダ語を適切に訳し変える日本語がない事でした。
漢方の用語に当てはめても、なかなかうまくいかない・・・。
つまり、日本では名前のついていない体の部分が数多くあったのです。
それで、彼らはその名前事態を作ります。
現在、医学用語として使われている名称には、この時に作られた造語がたくさんあります。
たとえば、“神経”という名称・・・これは、玄白らの弟子・大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)が『重訂解体新書』という『解体新書』をフォローする改訂版に書いている事なのですが、「うまく名づける事はできないが、神霊とか、精とか、元気などはこの物の働きであって、形質が明らかではないので、これを神経と訳す事にする」とあります。
どうしてもうまく表現できない時は、彼らは漢字まで新しく作っています。
ところで、この日の解剖の見学と『解体新書』の発行によって、「それまでの日本文化の常識が180度ひっくり返される」という出来事が起こっています。
それは、この日解剖された死刑囚が女性であった事に端を発します。
少し、俗っぽい話になるのですが・・・。
玄白は、この女性の解剖に立ち会って、『ターヘル・アナトミア』に書かれてある“処女膜”が実際に存在する事を確認するのです。
もちろんこの名称も彼らの造語です。
処女という言葉は万葉の昔からありましたが、別の意味で使われていて、男性経験のない女性の事は、一般的には“乙女”と呼んでいました。
しかも、その事はそれまでの日本の文化においてあまり重要視されていなかったのです。
戦国時代に日本にやってきたルイス・フロイスも、その著書の中で「日本女性は処女の純潔を重んじない。それを欠いても名誉も失わないし、結婚も普通にできる」と書いています。
高貴なお姫様も、政略結婚で次から次へと、別の男性に嫁ぐという事もありましたし、一般人も、以前【結婚の歴史】(ブログ:1月27日参照)でも書いたように、婚前交渉は当たり前・・・むしろ、「試してからでないと結婚なんてできないワ」くらいの勢いでした。
それが、江戸時代になって儒教の教えが浸透してくるようになって、徐々に未経験が重要視され始めた頃に、グッドタイミングで“処女膜”なる物の存在を『解体新書』が発表しちゃったもんだから大変。
ちまたには“生娘(きむすめ)当て屋”(どうやって当てるんだ?)なる珍商売も生まれ、これまでの自由な男女間の性交渉を“不道徳”という見方をするようになったのです。
やがて、これは法律的にも規制されるようになり、“不貞”という事で、死罪や極刑を科せられる・・・という事になっていきます。
ちなみに、余談ですが、この『解体新書』。
前野良沢の名前が一切本文には出て来ないのですが、それは、良沢が長崎で勉強していた頃「みだりに名声を求めない」という事を大宰府天満宮に願掛けしていて、この本に名前を掲載する事を辞退したもので、決して玄白さんと著作権でモメたわけではありません。
慎ましいお人やなぁ~。
★外科の『解体新書』に対して、内科の『西説内科撰要』を発刊した津山洋学についても一読どうぞ>>
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コメント
こんばんは!
杉田玄白 歴史の教科書に出てきましたねぇ~(^^)なんか当時に翻訳ができたのって凄いと思いました。
投稿: 見習い大工 | 2007年3月 4日 (日) 03時35分
おはようございます、見習い大工さん。
私もお医者さんじゃないんでよく知りませんが、アキレス腱の「腱」とか、口の中の上の部分の「口蓋」とかって名前も、この時、玄白さんたちが作ったみたいですよ。
そういう意味でも、たしかに「日本の財産」となりました~ホント凄いですね。
投稿: 茶々 | 2007年3月 4日 (日) 09時06分
何事も先達はあらまほしきことなり。日本で初めて何かを成した人たちの苦労はいかばかりか。チーム杉田はいい仕事しましたよね。
弛まぬ好奇心、持続する意思と情熱、感心させられます。
投稿: さときち | 2007年3月 4日 (日) 22時38分
さときちさん、こんばんは。
>日本で初めて何かを成した人たちの苦労はいかばかりか
ホントにそうですね。
それは、現代でも変らず、今この一瞬にでもプロジェクトXのように頑張ってる人はいるんでしょうね。
尊敬します・・・。
投稿: 茶々 | 2007年3月 4日 (日) 23時28分
秋田県の武家屋敷で解体新書の展示を見ました。 著者が杉田玄白になっているのは、訳した者が自信が無いのでチーム代表として杉田玄白になったと説明もありました。 此処のブログはとてもおもしろいです! またおじゃまさせてくださいね
投稿: Gakky | 2015年2月21日 (土) 04時27分
Gakkyさん、こんばんは~
>チーム代表として…
なるほど、たくさんのメンバーが関わっていますから、「チーム玄白」みたいな感じかも知れませんね。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2015年2月21日 (土) 19時07分