源為朝・琉球王伝説
嘉応二年(1170年)3月6日、保元の乱に破れ、伊豆大島へ流されていた源為朝が自刃しました。
これが、日本で初めての切腹だと言われています。
*為朝の自刃は、治承元年(1177年)であるとも言われ、また日づけに関しても、4月6日説、4月23日説など色々ありますが、とりあえず本日、為朝さんの事を書かせていただきます。
・・・・・・・・・・・
75代天皇・崇徳上皇と77代・後白河天皇の兄弟の、皇位と権力をめぐっての争いに藤原氏・平氏・源氏もそれぞれ親兄弟・親戚同士が入り乱れて戦う事になった保元の乱(2011年7月11日参照>>)。
源為朝(みなもとのためとも)は、父・為義(ためよし)に従って、崇徳上皇チームに参加(2016年7月11日参照>>)・・・崇徳上皇側には父のほか、左大臣・藤原頼長(よりなが)と平忠正(たいらのただまさ)らがいます。
対する後白河天皇チームには、為朝の兄・・・つまり為義の息子・義朝(よしとも)と、藤原頼長の兄で関白の藤原忠通(ただみち)と平忠正の甥である平清盛(たいらのきよもり)。
乱が勃発する何日か前から、一触即発の状況で対峙する両陣営。
為朝のいる崇徳チームでは、源氏・平家の武士たちが様々な作戦を提言しますが、藤原頼長がことごとく却下。
この日の前日も、為朝は「今夜、敵に夜討ちをかけよう」と提案しますが、やはり聞き入れてはもらえませんでした。
そして翌日・7月11日の深夜、逆に、敵方の平清盛率いる300騎、源義朝率いる200騎が崇徳チームに夜討ちをかけ、保元の乱の幕が切って落とされたのです。
まず最初に現れた清盛軍に対して、真っ先に駆けつけ奮戦する猛将・為朝・・・。
なんせ、為朝は若い頃、父・為義に勘当され九州に追放されたにもかかわらず、その九州の地を治めていた豪族をことごとく討ち破ったという“伝説の男”。
彼の強さに恐れおののいた朝廷が、父・為義に『為朝追討命令』を出しますが、それに従わなかった父が職を追われる・・・その事を知って彼は京へ戻り、父のもとでおとなしくしていた・・・という経歴のあるヤンチャ息子だったのです。
特に彼の弓の腕はすばらしく、この時も、先頭にいた武者の鎧を撃ち抜くなどは朝飯前・・・2番手、3番手の武者も撃ちぬき、恐れた清盛軍は一旦退却し、かわりに兄・義朝の率いる軍が目の前に現れます。
「天皇の命令を受けてる・・・しかも兄貴に弓を向けるとは!なんちゅーやっちゃ!」と、大声でタンカを切る義朝に、為朝も言い返します。
「上皇の命令を受けてる・・・しかも父親に弓を向けるとは!なんちゅーやっちゃ!」
為朝の放った矢は、義朝の兜をかすめ、はるか奥のお寺の門の突き刺さります。
こうして始まった保元の乱・・・しかし為朝の奮戦もむなしく、機動力に勝る後白河チームの圧勝!
乱は4時間余りで決着がついてしまいました。
崇徳上皇は讃岐へ流罪、父・為義と平忠正は斬首されます。
為朝も、本当は斬首されるはずでしたが、後白河天皇が「これほどの武者を斬首したら後世に批判を受けるだろう」と、“伊豆大島への流罪”と決定されました。
それだけ、スゴイ名武将だったって事ですね。
ただし、「二度と弓が引けないように」と、この時に腕を傷つけられてしまいます。
ところがどっこい、為朝はこの伊豆大島でも大暴れ!・・・伊豆諸島を次々と征服し、国司に真っ向から立ち向かいます。
やがて、恐ろしくなった朝廷は『為朝追討軍』を派遣。
そして、嘉応二年(1170年)3月6日、八丈小島に追い詰められた為朝は、その場で切腹をし自らの命を絶つのです。
・・・と、話はここで、終らないのです。
そう、英雄の証しとも言える生存説なるものが、この為朝にも存在するのです。
もちろん、伝説の域を超えない物ですが・・・。
その伝説によれば、伊豆から脱出した為朝は、島々を転々とした後、九州へ・・・そして、沖縄にたどり着いたというのです。
そして、その土地の娘と結婚し、生まれた子供が琉球・舜天(しゅんてん)王朝の舜天王なのだそうです。
この説が生まれたきっかけには、もちろん為朝が通ったであろう道筋に、いわゆる伝説の地と言われる史跡が各地に残されている事が関わっているわけですが、何よりも、17世紀に琉球王国の摂政を務めた羽地朝秀(はねじちょうしゅう)なる、れっきとした政治家が、『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』という史書の中で、この事を書いているからなのです。
“為朝=琉球王国の祖”
もし、これが、事実でないのだとしたら、朝秀さんという人物はなぜ、そんな事を書き残したのでしょう?
それは、17世紀当時の国際情勢にかかわりがあるかも知れません。
この頃、琉球王国は、中国と薩摩・島津藩と、両方の支配に悩まされていました(4月5日参照>>)。
そんな、琉球王国の祖が、清和天皇の血を引く源氏・・・しかも英雄・源為朝であったとしたら・・・これは、高飛車な島津藩をビビらせるには、持って来いのお話である事は確かでしょうね。
強弓の為朝さんのイメージは、
疾風のごとく空を舞う鷹のイメージ・・・
琉球王国に夢を馳せて、その鷹にデイゴの花にとまってもらいました。
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コメント
私は、 為朝 の 子孫 です 。
投稿: 仲宗根朝夏 | 2011年6月 8日 (水) 18時43分
仲宗根朝夏さん、そうなのですか…
コメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2011年6月 9日 (木) 02時07分
生存説のある人物は、とにかく波乱にみちあふれた方々ばかりですね。
投稿: Ikuya | 2011年7月11日 (月) 22時18分
Ikuyaさん、こんばんは~
生存説の多くは、その裏側に、生存説が誕生するべき理由がある場合が多いです。
単なる作り話として一蹴せずに、なぜ誕生したのかを探っていくのも楽しいですね。
投稿: 茶々 | 2011年7月11日 (月) 23時50分
悪源太とどちらが強い!?
投稿: ゆうと | 2012年4月 6日 (金) 19時11分
私的には、為朝に1票
投稿: 茶々 | 2012年4月 7日 (土) 01時43分
17世紀、琉球人が蛮族として認識されていたことは無いかと。 日本が鎖国する中でも世界に開けた琉球は世界を相手に貿易をしており、その実力は中国に匹敵するものがありました。 ポルトガル人からはレキオと呼ばれ、レキオは中国人より品のある物を身にまとい、金や香辛料を華麗に売りさばく、、などとポルトガルの史実にあるそうです。 琉球に富をもたらしたのは中国であり、中国は親も同然。 琉球の富を睨み侵略したのが薩摩です。 ちなみに、明治維新も琉球が貿易で得た膨大な利益で行われていたのです。
投稿: Gakky | 2015年2月18日 (水) 04時26分
Gakkyさん、こんばんは~
そうですね。
蛮族というのは違いますね。
未だ、ブログをはじめて間も無い8年も前の記事なので、まだまだ未熟でした。
その部分は排除させていただきます。
ただ、慶長十四年(1609年)に琉球が薩摩の支配下になり>>、形式的には琉球王国が存続するも、羽地朝秀が『中山世鑑』を記した17世紀頃には、その薩摩に悩まされていた事は確かだと思います。
もちろん、それは、Gakkyさんがおっしゃる通りの、琉球が産む利権を狙っての事ですが…
投稿: 茶々 | 2015年2月18日 (水) 04時48分
遅レスの上に横から失礼しますが…
ただ、沖縄住みの自分から見てもGakkyさんの見解はちょっと中国崇拝が過ぎるんじゃないかなと思います。
この記事でも述べられている為朝伝説のみならず、薩摩侵攻以前に纏められたおもろさうしが漢文ではなく漢字かな混じり文で記されており、そもそも沖縄方言自体が平安時代ごろの日本語が訛ったものであると判明している点、近年の遺伝子解析の結果、琉球民族のゲノムは大和民族に最も近いと判明している点。
残念ながら、ありとあらゆる物証が琉球の祖は日本にありと示唆している以上、伊波普猷にしてからが日琉同祖論を唱えざるを得なかった。
そして、現状これに真っ向から反対してるのは、歴代中華王朝とは何の関係も無いだけでなく、そもそも戦勝国ですらない中国共産党とそのシンパが太平洋への突破口欲しさにプロパガンダとして琉球の先祖は中華民族云々と主張してるだけというのが現実です。
無論、私とて沖縄の人間はこれまで散々本土に搾取され差別されてきたのだから、独立すべきだと主張する論調が左翼を中心に存在する事は認識しております。
薩摩による搾取と差別の歴史が残念ながら事実である事もね。
しかしながら、戦後沖縄左翼の巨頭として知られる瀬長亀次郎にしてからが、先にも述べた数多のハードエビデンスが在る故に、まず事実として日琉同祖論を認めた上で、日本から独立するというスタンスを取っていた筈です。
特に、かつての薩摩が琉球を対中貿易の為の捨て駒として使い倒す事を目的に、服装から苗字に至るまで悉く変えさせた史実を指して、「民族の悲劇」とまで言っていた。
ご理解いただけますか?
伝統的には、左翼にとっても沖縄の人間が自らの文化を捨て去ってまで中国人を装い、儒学を学んで中華王朝の権威に平伏すというのは、いくらお金が目的でも屈辱的な事だという認識だったのです。
が、ここ数年…
本当に21世紀に入ってからなんですよ、左翼の琉球独立論が露骨におかしくなった。
ロクに根拠も示さずに、沖縄は最初から漢民族が住んでいた中国の土地で、琉球民族は日本に不当に侵略された漢民族の同胞だ云々という言説をどこかの受け売りで垂れ流すようになってしまったのです。
この地球上には、歴史を単純に過去の事実を探求する科学なんぞではなく、現生利益を貪欲に求めて不当な主張を正当化するために、事実を捻じ曲げる便利な道具であると認識するようなとんでもない国が存在すると私は警告したいです。
多少陣営を変えただけで、本質的には薩摩の琉球侵略とまったく同じ事が再び行われないためにね!
投稿: ハインフェッツ | 2015年8月28日 (金) 22時10分
ハインフェッツさん、こんばんは~
沖縄の歴史はなかなかに難しいです。
もっと勉強せねば!と思います。
投稿: 茶々 | 2015年8月29日 (土) 01時27分
茶々さん、
確か21世紀に入って琉球の人達は平安時代ごろから九州などから移住した人たちの子孫と言われています。
為朝に関しては鎌倉時代から為朝は琉球に渡ったという話がありました。
それを考えますと為朝が琉球の祖と言うのはあり得る説の一つでしょう。
確か大友、島津は頼朝の子孫と聞きました。それで島津の琉球征伐の理由になるそうでですが、結構鎌倉時代から薩摩と琉球は頼朝と為朝の子孫と言う事で交流があったでしょう。
それが島津、尚が今でも続いている理由ではないでしょうか?
投稿: non | 2015年9月 1日 (火) 15時02分
nonさん、こんばんは~
沖縄や八重山に伝わる昔話なんか読んでると、沖縄の方は南方系縄文人だと思ってましたが…??
戦国武将は、「源頼朝の落胤」というのを主張する場合が多いですが、大抵は伝説の域を出ない物ですね。
島津は秦氏が有力ですし、大友も畿内の豪族が有力だったと思います。
まぁ、あまりに古い事なので、明確にはわかりませんが…
私個人的には、為朝には琉球に行っていてほしく無いですww
琉球に行っちゃうと、「日本初の切腹をした武将」という伝説の方が崩れてしまうので…
投稿: 茶々 | 2015年9月 2日 (水) 03時13分
茶々さん、
椿説弓張月では三島由紀夫が描いたのを見ますと為朝は崇徳天皇の下で切腹したとしています。琉球も行ったし、切腹したのも為朝だと思います。
でも琉球に行ったのは九州の頃かもしれません。
石井望と言う先生とTwitterで以前交流しましたが、台湾に殖民したのは日本人らしいです。当時日本人が琉球、台湾に行ったのだろうと思います。
民話は多分古代の話ではないでしょうか?ある人の説だとムーの子孫が日本人で琉球から日本に渡ったのではないかと言っています。中世では無人になったところを反対に子孫が戻ったと言っていました。分かりませんけど・・・
投稿: non | 2015年9月 2日 (水) 11時22分
nonさん、こんばんは~
ムー大陸やアトランティスは、中学時代の一時期ハマりました~
なんか、懐かしいです。
投稿: 茶々 | 2015年9月 3日 (木) 01時22分
こんにちは
私も ハインフェッツ さんのご意見に賛同です
結論は、
沖縄人の南方由来説は完全に否定されており、沖縄人の祖は九州人の南下で確定的です。
ただ
>薩摩による搾取と差別の歴史
について一言
差別においては 主観的な部分でありますので、ここでは触れませんが、
薩摩による搾取については 個人的に懐疑的です。
主な根拠として、
薩摩侵攻後に 琉球王国の貿易はそれ以前に比べ格段に盛んになり王朝レベルでは最も繁栄した時期です
↑これにより搾取という表現は微妙ですね、薩摩侵攻により 鎖国であった日本と(密貿易=幕府黙認ではあったが)、薩摩の仲介により交易がスムーズになった点は 否定できないです
更に 薩摩は琉球へ多額の貸付を行っています。
茶々さん
>琉球に行っちゃうと、「日本初の切腹をした武将」という伝説の方が崩れてしまうので…
日琉同祖論では 源為朝は琉球で死亡したのではなく、日本へ帰っています。
源為朝琉球渡来伝説は、琉球国の正史「中山世鑑」より100年ほど前の 京都の臨済宗僧侶・月舟寿桂の著「鶴翁字銘井序」にもあります
投稿: 通行人 | 2016年1月12日 (火) 10時30分
通行人さんは~
なるほど…
色々な話があるのですね。
もちろん「中山世鑑」も、いくつかの伝説から仕える話をチョイスしたのでしょうが、私としては「琉球王国の摂政がこの時期に正史として書いた」事の本意を探って行きたいですね。
ところで、私の
>琉球に行っちゃうと、「日本初の切腹をした武将」という伝説の方が崩れてしまうので…
の疑問に
>日琉同祖論では 源為朝は琉球で死亡したのではなく、日本へ帰っています。
との事ですが、流罪で流された伊豆大島から、せっかく脱出して琉球まで行ったのに、また配流先の伊豆大島に戻ったって事ですか?
なぜに???
ほんで追い詰められて八丈小島で切腹する??
なんだか辻褄が合って無いような気が…
投稿: 茶々 | 2016年1月12日 (火) 16時18分
茶々さん
>流罪で流された伊豆大島から、せっかく脱出して琉球まで行ったのに...
この件は 私の勘違いです(汗)
伊豆大島脱出が先ですね 訂正して お詫びします。
>「琉球王国の摂政がこの時期に正史として書いた」事の本意
の件ですが、、諸説あります
①薩摩支配の正当化
②旧来の琉球国のなりたちの伝説の否定→琉球神官(ノロ=女性)らによる神事抑制の為
③薩摩支配化における 琉球の中国化(異国化)政策への反発
①と③は逆の立場になりますね
個人的には②③を推します(笑)
投稿: 通行人 | 2016年1月13日 (水) 11時08分
通行人さん、こんにちは~
色々と推理は尽きませんね(*^-^)
投稿: 茶々 | 2016年1月13日 (水) 16時13分
茶々さん、こんにちは。
為朝は七尺あったそうですが、私はとうとう2メートル8センチになりました。為朝と背が変わらない感じがします。
為朝と言いますと私も伊豆を脱出して、琉球を治めて、その後崇徳天皇の下で自決したと言う話を聞きます。
三島由紀夫脚本の椿説弓張月でも最後そう言うシーンがあります。
もしかしたらそれが正しいのかなと思いました。そうなりますと三島が何故切腹したのかもよく分かる感じがしました。
さてこういう切腹と言う歴史は日本以外ではあまり見られません。これは日本独特なのかなと思いました。ただし古代ギリシャ、ローマ帝国では多かったそうです。私も少し確認したいと思いますのでモムゼンと言う法制史学者のローマ史を読んでいます。
投稿: non | 2016年2月 8日 (月) 13時58分
でも為朝と違い体は弱いです。今日も頭痛で寝ていました。
投稿: non | 2016年2月 8日 (月) 15時30分
nonさん、こんにちは~
体調がお悪いのですか?
ご自愛下さいませね。
投稿: 茶々 | 2016年2月 8日 (月) 16時06分
茶々さん、こんばんは。
とうとう為朝と同じ身長の210㎝になりました。でも為朝の方が少し高いでしょう。
家の柱にぶつかりました。
でも体調は悪いです。
どうなるのか気がかりです。
投稿: non | 2016年3月13日 (日) 19時38分
nonさん、こんばんは~
>身長の210㎝に…
おぉ、それは豪傑ですね~
投稿: 茶々 | 2016年3月14日 (月) 02時47分