静御前の白拍子なる職業
文治二年(1186年)3月1日に、昨年、吉野で捕えられた静御前が鎌倉に入りました。
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平家追討の功労者でありながら、兄・源頼朝と不仲になり、追われる身となった源義経と行動をともにしていた恋人の静御前でしたが、「女連れでは捕まってしまう」と泣く泣く分かれた直後、吉野山で捕まってしまいます。(11月17日参照>>)
そして、京の六波羅で北条時政から、義経の行方について詮議を受けるのですが、彼女は本当に義経の逃亡先を知りませんから答えようもありません。
やがて、彼女が義経の子供を妊娠している事もあり、本当は義経の行方を知っているのではないか?という鎌倉方の疑いもあり、母・磯禅師(いそのぜんじ)とともに、文治二年(1186年)3月1日、鎌倉に送られたのです。
その頃の義経は、本当に消息不明で(逃亡してるんだから当然ですが・・・)、「伊勢にいる」「いや兵庫にいる」と、噂が出るたんびに、時政は兵を出して駆けつけますが、到着してみると、その影すらない・・・といった状況に振り回されていました。
もちろん静御前は、鎌倉に到着してからも、頼朝などから質問攻めに合うわけですが、やはり答えは同じです。
・・・で、来月の4月には、例の名場面・「妊娠7ヶ月での静の舞い」って事になるのですが、「静の舞い」については、4月10日に書いた【鶴岡八幡宮・静の舞】>>のページで見ていただくとして、今日は、静御前の職業・白拍子という物について、ちょっと書かせていただきます。
ドラマやお芝居などでは、かなり物静かな耐える女性として描かれる静御前ですが、私のイメージは(何度かこのブログでも書きましたが)、気の強い姉御肌のしっかり者という印象です。
一昨年の大河でも、義経がまだ鞍馬にいる頃に知り合って、そのまま愛を貫く純愛路線でしたが(主役がタッキーなら仕方がない)、実際には、義経が平家を倒し、頼朝に鎌倉入りを拒まれ、京に滞在している頃に、二人は知り合ったとされています。
頼朝と不仲になっているとは言え、当時の義経は都一のヒーローです。
一方の静御前も、都一の白拍子。
くっつくべくして、くっついた二人・・・といった感じ。
今で言えば、大統領か総理クラスの大臣か、世界的に大活躍のスポーツ選手の愛人になった国民的女優さんかアイドルか・・・ってトコでしょう。
もちろん、男の方は若くてイケメンでなくては話になりませんが・・・。
静御前が白拍子という職業で、しかも一世を風靡した事を考えると、物静かな耐えるばかりの女性ではありえない事がわかります。
そんな女性では白拍子という職業で上にのし上がる事はできませんからね。
白拍子というのは、水干(すいかん)という、武士がよく着ていた狩衣(かりぎぬ)をもう一段簡素化した服装で、頭に立烏帽子(たてえぼし)をかぶり、腰に刀をさす・・・要するに女性が男装をして、今様を歌いながら舞を舞う・・・という物です。
今様というのは、今風の・・・あるいは今流行りの・・・という意味で、要するに今で言うヒットチャートまっしぐらの曲って事です。
つまり、静御前は歌って踊れるトップアイドルって事になります。
しかも、この時代ですからステージは宴会場。
お酒のお相手もしますから、アイドルであり、ホステスであり、その上、望まれれば夜のお相手もするのですから、かなり、したたかでないと生き抜いてはいけません。
彼女が鎌倉で、かたくなに義経の事を話さないのは、「知らない」という事以上に、義経に対する愛情だけではなく、プロとしてのプライドがそうさせたのではないでしょうか。
料亭やクラブで政治家が何かを話していても、一流の芸者さんやホステスさんは、その内容を他人に口外したりはしません。
高級な水商売の人ほど、他言はしない物です。
そういう意味で静御前は、お相手の邪魔にならないよう、お荷物にならないよう、最大限プロに徹していた人だと思います。
・・・というか、そう思わないと、とてもじゃないがやってられません。
なんせ、『義経記』によると、この頃、密かに京都に潜入した義経さん・・・
以前、都落ちで船が難破した時(11月3日参照>>)、浜辺にほっぽらかしてきた十数人の女性の中のひとり、正室とおぼしき一条の姫の所に行ってたし、静御前とは途中で別れても、最後まで彼女を連れて、奥州・藤原氏のもとへ逃げています(4月30日参照>>)から、ドラマのような純愛だとショックに耐えられない結果となってしまいます。
本物の静御前は、ドラマよりもっと大人だったんでしょうね。
義経さんは、ドラマより女好きの破天荒?ってトコでしょうが・・・。
まぁ、一夫多妻制って事ですし、恋愛感が今とは違いますからね。
ところで、この白拍子という職業・・・平安から鎌倉時代が最盛期で、身分は低いものの、かなりもてはやされたようですが、戦国時代にはもう時代遅れとなって、「あるき白拍子」などと呼ばれるさすらいの芸人が多くなっていき、最後には歌舞伎などの芸能にその座を譲る事になります。
白拍子の舞は、曲舞いという物に受け継がれ、現在でもお寺のお祭りの時に行われる「踊り念仏」がそれだと言われています。
能を大成させた世阿弥の父・観阿弥も、曲舞の一座から踊りを学んだとされていますし、その観阿弥が教えをこうた曲舞座の末裔が祇園御霊会の舞女をつとめていたと言いますから、白拍子たちの舞は、様々な芸能に受け継がれていった事がわかります。
そして、もう一つ・・・今様も、後世に受け継がれていきます。
♪ひとつとせぇ~♪という、なじみの深いわらべ唄は、そのまま今様でも「数え歌」「物づくし」などど呼ばれて歌われていた歌詞です。
語呂がよく、響きも良く、世相を歌いこむ今様は、小唄や端唄(はうた)・都々都逸(どどいつ)といった民衆の歌謡として、後の世にもう一度、花開く事になります。
みなさんがよくご存知の「黒田節」は、今様の形式を色濃く残していると言われています。
「語呂がよく、響きも良く、世相を歌いこむ・・・」ひょっとして、ヒップホップも今様を受け継いでいるのかも・・・て思うくらい定義がピッタリ合ってますね。
やはり、今様はその時代のヒット曲って事ですね。
このお話の続きは4月8日【鶴岡八幡宮静の舞い】へどうぞ>>
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コメント
白拍子、静御前の勇ましい姿が想像されますね。日本に限らず、世界各国で「踊り」をする人、特に女性は卑しい職業とされていました。でも、そんな境遇に負けず、頑張ろとするエネルギーが数々の物語を生んできた訳で。『歌って踊れるトップアイドル』ですか。今の時代なら誰でしょう?
投稿: さときち | 2007年3月 1日 (木) 09時24分
さときちさん、こんにちは~。
「踊り」は100%実力の世界ですからね。
男子なら、戦で名を挙げる事もできますが、女性はやはり芸で、のし上がって行くしかなかったでしょうね。
現在でも、京都の舞妓さんなどは、きびしい修行に耐え、練習に練習を重ねてやっとお座敷デビューって感じですからね。
時代劇ではいつも、純情可憐で、ただひたすら義経を愛する感じに描かれているのがとても残念です。
そうですね、今なら誰でしょう?
浜崎さんか倖田さんでしょうか?でも、イメージは少し違いますね。
投稿: 茶々 | 2007年3月 1日 (木) 15時25分
「白拍子」という姓について「なんだろう?」と気になるところがあり、またまた茶々さまのブログにたどり着いた次第^^
いろいろ、奥が深そうです^^;
お盆ですね、ご自愛くださいね♪
投稿: tonton | 2015年8月12日 (水) 23時20分
tontonさん、こんばんは~
まだまだ残暑がきびしそうですから、tontonさんも、お気をつけくださいね。
投稿: 茶々 | 2015年8月13日 (木) 01時38分