秀吉包囲網・三木城籠城戦
天正六年(1578年)3月29日、羽柴(豊臣)秀吉が織田信長に反旗を翻した別所長治の居城・三木城を包囲しました。
・・・・・・・・・
天正の始め頃に、織田信長は羽柴(豊臣)秀吉を大将とする討伐軍を編成し、山陽・山陰地方の平定に当たらせました。
その効果もあって、しだいに播磨(兵庫県)の諸大名たちは織田方に着くようになり、現在の神戸や加古川あたりを治めていた別所氏も、天正三年(1575年)の7月には、当主・別所長治自らが信長のもとへ出向き、織田方への加担を申し出ています。
しかし、天正六年(1578年)の2月23日、長治は突然、織田方からの離別を一方的に宣言し、居城・三木城に籠城するのです。
その理由には、「信長のワンマンぶりについていけなかった」とか、「秀吉が気に入らなかった」とか、諸説ありますが、やはり、何と言っても、播磨全体に反織田の動きが活発になっていた事が考えられるでしょう。
現に、このすぐ後に、宇喜多直家が播磨上月城を奪うという出来事も起こっています。
そんな動きに乗じた安芸の毛利輝元が、織田に反発する播磨の諸大名に力を貸す・・・という事態になり、ますます播磨の反織田に気運が高まっていたのが、ちょうどこの頃だったのです。
そして、三木城・籠城の知らせを聞き、天正六年(1578年)3月29日、秀吉が三木城を包囲する・・・という事になったわけです。
籠城する長治軍は八千、包囲する秀吉軍は二万・・・秀吉は力戦を行わず、お得意の長期包囲戦で、じわじわと別所氏を追い詰めて行きます。
途中、尼子勝久・山中鹿之介(11月19日参照>>)の救援のため、先ほどの上月城へ出陣するなどもありながらも、三木城外の平井山に陣を取り、秀吉はひたすら包囲を続け、その間に城の周囲にある砦や支城を次々と落として行きます。
もちろん、別所方もず~っと城に篭もっているわけではありません。
時々は城の外へ撃って出て一戦交え、また籠城する・・・という事を繰り返していました。
その中では、10月の交戦で長治の弟・治定が討ち死にするという痛手も被りながらも、翌年(天正七年)2月には、三千という大量の兵を動員して、秀吉の本陣を奇襲し、「あわや」という場面もありました。
しかし、結局、大勢に影響を及ぼす事なく、やがて天正八年(1580年)になると、当然の事ながら、三木城内は深刻な食糧不足と水不足に悩まされるようになります。
その事を察知した秀吉・・・今が攻め時との判断をし、残っていた周囲の砦と支城を一気に全滅させ、ますます三木城を孤立させます。
そして、ころあいを見計らって、秀吉の軍に加わっていた別所一族の別所長棟(ながむね)を介して、三木城を開け渡すように説得・・・
ここは、播磨でも一番東に位置する場所なので、毛利の援軍も期待できず、「もはや、籠城の継続はムリ」と判断した当主・長治は、天正八年(1580年)の1月16日に、残っていた少量の食料でささやかな宴会を開いて兵たちの苦労をねぎらった翌日、一族ともに自刃して果てたのです。
この後、稲葉・鳥取城(10月25日参照>>)、備中・高松城(6月4日参照>>)など、力攻めをせず、とかく長期包囲網作戦を行った秀吉も、さすがにこの時のまる2年に及ぶ包囲作戦には、かなりお疲れだった事でしょうね。
しかも、途中、秀吉の知恵袋となって活躍してくれた名軍師・竹中半兵衛が、平井山の陣中で病死していますから・・・(6月13日参照>>)。
♪今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかわる わが身と思へば♪ 別所長治・辞世
そして、三木城攻防戦を終えた秀吉は、この後、播磨宍粟郡に侵攻しますが、そのお話は…【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】でどうぞ>>
.
★あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
コメント
2年に及ぶ籠城は、籠もる方はもちろんですが攻めるほうも本当に大変だったでしょうね。 籠城戦でもっとも長期間になったのはどのくらいでしょうか?
北条早雲の侵攻に対して、三浦氏が3年籠城したといわれていますが、ざっとググったところではカルタゴがローマに対してやはり3年ほどの籠城をしたということです。
人間の限界が3年くらいってことなんでしょうか…
私だったら1日でも無理です!とりあえずは平和な現代の日本でよかった!!
投稿: とらぬ狸 | 2015年4月 4日 (土) 08時38分
とらぬ狸さん、こんにちは~
そうですね。
籠城戦は、人手が足りなくなる農繁期、雪に閉じ込められる冬が、攻める側も厳しくなるところで、長期に渡るとどっちもしんどいですね。
かと言って、力攻めはリスクが大きい…
って事で、本来は、城攻めは最終手段…
城攻めになる前に、様々な手を使ってケリを付けるのが戦いの常とう手段ですが、それこそ、お互いがその事を熟知しているので、そうそう思い通りにはいきませんね~
投稿: 茶々 | 2015年4月 4日 (土) 16時36分