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2007年3月30日 (金)

お花見の歴史は万葉から

 

いよいよ、お花見の季節ですね~。
関西では見頃はまだ、もう少し先のようですが、ニュースなどを見ていると、関東の方では、けっこう咲いているみたいですね。

・・・という事で、今日は日本人の大好きな『お花見の歴史』について・・・

・‥…━━━☆

四季折々、美しい花の咲く日本列島では、数多くの「花」があるわけですが、単に「花」「花見」と表現する場合は「桜」の事を指すのが普通ですよね。

♪あおによし 奈良の都は 咲く花の
 にほふがごとく 今盛りなり♪

この場合も花はを指します。

桜は古くから歌に詠まれ、花見の対象とされてきました。

もちろん、日本に人が住んで、「花」を美しいと思った瞬間から「花見」という物は存在したでしょうが、行事としての「花見」の記録が登場するのは万葉の頃から・・・

ただし、万葉の頃のお花見と言えば梅が主流で、それが桜に変わるのは、奈良の終わり頃から平安の初め頃だそうですが・・・

もちろん、現在、皆さんの想像するいわゆる「花見」とも、少し違った雰囲気でした。

とは言え、今よりも娯楽のない時代ですから、古の人たちにとっても春は待ち遠しい季節。
花が咲いたらこぞって花見に出かける・・・といった光景は同じなのですが・・・。

実は、奈良・京の都の周辺では、旧暦の3月3日かその翌日が「花見にでかける日」とされていたのです。

これは、3日が“シガノ悪日”という「何をやっても悪い日」とされていた事による物です。

東北地方では“シガヨウカ”と言って、4月8日が、この悪い日とされていて、やはり花見の日のなっていたようです。

そして、もう一つ、「健康法」としての意味合いもあったようです。

花が咲く・・・というのは、樹木の勢いが最も良いという事で、その勢いの良い木の生命力を、吸収しようという事なのです。

日本には古くから、空気を揺るがせて波動を起こし、神を呼び込んで身を清めるとともに、魂を奮い立たせる「タマフリ」という儀式がありました(1月31日参照>>)

神主さんが、御幣(ごへい)というビラビラの紙の着いた道具で空気を揺らしてお祓いすのが「タマフリ」というヤツです。

神社で拍手を打つのも、鈴を鳴らすのも、音の波動によって空気を揺らす「タマフリ」です。

空気を揺るがす波動は、音だけではありません。
色も波動です。

満開に花を咲かせる元気な樹木の生命力の波動を、目で見て「タマフリ」とするのです。

もともとは、物忌み=運気の悪い時に、それを打ち払うために行われた「見るタマフリ」で、どちらかと言うと、祝い事ではなかったようですが、それが徐々に、「花見で悪い事も何もかも忘れちゃえ!そして運気も変えちゃえ!」的な発想に変っていったようです。

あの豊臣秀吉が、古の昔に天武天皇が勝利を誓って出陣した吉野で花見を開催したのも、先人の勝利にあやかるとともに、その樹木の生命力を受けとるという意味があった事でしょう(2月27日参照>>)

奈良時代の後半や平安の頃には、男女の出会いの場でもあり、その場で「即しっぽり・・・」という事も、けっこうあったようで、ある意味今の花見よりスゴイ!

現在のように、桜の下にゴザを敷いて宴会・・・という形になるのは、やはり室町から戦国にかけての頃から・・・

婆沙羅(バサラ)大名として知られる鎌倉時代から南北朝時代に活躍した佐々木道誉(ささきどうよ)は、足利幕府において、足利尊氏新田義貞に次ぐナンバー3の実力者ですが、その風流に対するこだわりもスゴかった・・・。

彼が京の大原で花見の会を催した時、4本の桜の大木の根本に、真ちゅう製の花瓶を造り、それを一輪挿しに挿した花に見立てたのです。

そして、その真ん中に巨大な香炉を置いて香を焚きあげる・・・絢爛豪華に咲き乱れる花と、漂う幽玄な香りは、さぞかし、夢のような世界だった事でしょうね。

前途の吉野の花見に続いて秀吉がおこなった、有名な醍醐の花見(4月7日参照>>)は、なんと「花見がしたいために桜を植えた」(約700本植えたと伝わります)という常人にはあり得ない感覚・・・しかも出席者1300余人で、秀吉お気にの女性同士が、その花見行列の順番を巡ってバトルする一場面もあったほど、参加者それぞれの名誉と威信をかけた大イベントだったようです。

そして、江戸時代には落語の「長屋の花見」に見られるとうに、一般庶民も花見をするようになるのですが、その頃には、もう、今でもお馴染みの桜の名所が、花見の名所として名前を連ねる事になります。

やはり、今も昔も「花見」は日本人の心のふるさとですね。

1週間前にひいた風邪がまだなおらない・・・今年、私は花見に行けるでしょうか・・・少し心配・・・

Sakuramanyoucc_1
今日のイラストは、
『万葉のお花見』をイメージしてみました。

やっぱり思い描いたのは、大好きな額田王ですね・・・
若き日の額田王が大海人皇子を桜の木の下で待ってる・・・て感じかな?

まぁ、この頃の花見は梅だったかも知れませんが、そこは、あくまで想像なので・・・
 .

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コメント

おはようございます!そしてはじめまして、月影と申すものです。 毎日ここのサイトのブログ楽しみにしています!
実はここのサイトを見始めたのはお正月でしていままでコメントはしなかったのですが、今日は思い切って初コメントです♪
ここのブログは本当にわかりやすく、そして楽しく、しかも毎日更新されてることが本当にすごいと思います!!学校で習ったものじゃない本当の歴史の面白さをいつも実感しています!今日のブログもそうですが、色々な文化の歴史など奥が深いですよね~。
これからもできれば毎日来ようと思います!なのでよろしくお願いします♪(笑)
それでは☆

投稿: 月影 | 2007年3月30日 (金) 08時54分

額田姫なら、そうか・・花見もありですね。茜さす・・とか、紫の匂える妹とか、「秋山われは・・」などで、なんとなく色合い的にはシックで大人の感じがしているので、桜には似合わない・・なんて思っていましたが、大人のお花見・・いいですねえ。

投稿: 乱読おばさん | 2007年3月30日 (金) 09時58分

>月影さま・・・

コメントありがとうございます。
今日のブログにも書きましたが、風邪をこじらせてしまい、ここ1週間テンションだだ下がりで、そういう時は人間気弱になるもので「ブログ続けていけるのかなぁ?」と不安にかられておりました。

そんな時に月影さまのコメントが・・・。
大変、勇気づけられました~。

毎日・・・という御期待に沿えるかどうかわかりませんが、「続けて、頑張って行こう」と思いました。
つたないブログですが、これからもよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2007年3月30日 (金) 19時01分

>乱読おばさん様

もちろん、桜のイメージは「若き日の」額田王ですよ!
私も、「茜さす・・」や「秋山ぞ・・」の、近江朝の頃の彼女はもっと大人っぽいシックなイメージを抱いていますが、大海人皇子と初めて出会った頃・・・。
その頃はまだ中大兄皇子も姉・鏡王女に夢中で、額田王は皇極天皇の女官として仕えたばかり・・・その歌の才能も、女としての魅力も開花していない頃・・。
「きっと、純粋な初恋をしていたんだろうなぁ」と、想像してみました。

投稿: 茶々 | 2007年3月30日 (金) 19時09分

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