うかれ女・和泉式部の恋のテクニック
今日、3月21日は、平安時代の歌人・和泉式部のご命日・・・年ははっきりしないのですが、応徳元年(1084年)頃ではないか?と言われています。
・・・・・・・・・
和泉式部は、越前守・大江雅致(まさむね)の娘で、和泉守・橘道貞の妻となったので「和泉式部」と呼ばれるようになり、本名は定かではありません。
あの『百人一首』には、彼女の歌が収められていますので、御存知のかたも多いでしょう。
♪あらざらむ この世の外(ほか)の思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな♪
「(病魔に犯されている私は)もう、長くはないわ。。。せめてあの世へのお土産に、もう一度だけ、あなたに会えないかしら」
おぉ・・・悲しい・・・切ない・・・この恋を何とかしてあげたくなるような歌じゃありませんか!
もしも、男友達に元カノからこんなメール(歌)が送られてきたら「会いに行ってやれよ!」と、9割がたの男性諸君が友達の背中を押すに違いあいませんよね。
・・・と、思ったあなた。
見事に和泉式部のテクニックにハメられ、恋のアリ地獄に引きずり込まれてしまいましたね。
実は彼女は、あの藤原道長から「うかれ女(め)」というニックネームをつけられるくらいお盛んな女性だったのです。
「うかれ女」とは・・・
かっこよく言うと「恋多き魔性の女」。
下世話な言い方をすると「オサセ」。
とにかく次から次へととっかえひっかえ恋に走っています。
以前、結婚の歴史(1月27日参照>>)でも書きましたが、平安時代の恋愛事情というのは、かなり自由奔放で、男性も同時に何人もの女性のもとへ通うのは当たり前。
女性だって、積極的にアピールされれば、つい受け入れてしまうのが常でした。
なんせ、明確な婚姻届を提出するわけではありませんし、通い婚で、男が通って来ているから夫婦・・・しかし、その男はひょっとしたら、明日はもう通って来ないかもしれないわけで、もし、そうなって「バツイチ」になっても、勲章にこそなれ、汚点になるような事はなかった時代です。
そんな自由恋愛の時代に、さらに「うかれた女」とは・・・。
実は、彼女の場合、ほとんど自分からのアピールから始まった恋。
自由な恋愛であっても、女性はあくまで受身の態勢だった時代に、かなり積極的な彼女の態度が「うかれ女」なるニックネームをつけられる要因となったのです。
まず、彼女の最初の結婚相手は、和泉式部という呼び名のもとにもなる和泉守・橘道貞・・・和泉式部、15歳の時でした。
道貞は、この時点でかなりのオッサン。
少女時代から浮名を流した彼女が、こんなオッサンと結ばれたのは意外ですが、それ以上に以外なのは、そんな若い嫁がいるにもかかわらず浮気が止まらない道貞さん。
結局、他に女を作って逃げるように地方に赴任して行き、最初の結婚生活はthe end。
しかし、彼女は嘆きません。
「アンタの事なんか、一生思い出さないわよ!」という、捨てゼリフを残して、さっさとサヨナラしています。
それまでは、何だかんだ言いながらも、未だ受身の恋だった彼女が、積極的に行動を起こすようになるのはここから・・・さて新たな恋の始まりです。
冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王という超エリートのイケメン・モテモテ皇子と恋に落ちるのです。
為尊親王も、かなり積極的で、祭りの夜に同じ車に二人で乗り、わざわざ簾(すだれ)を開けて、都じゅうに二人の関係を見せつける・・・なんて事もやってましたが、残念ながらこの恋もそう長くは続きませんでした。
それは、為尊親王の病死・・・んじゃぁ、しかたないよね。
・・・と、思ったのもつかの間。
なんと、彼女は為尊親王の葬儀で、お経をあげに来た僧侶と関係を持ち、ついでに警固についた侍とも関係を持ってしまいます。
さらに、その翌日、稲荷参拝の途中で見かけたイケメンもゲット。
そりゃ、「うかれ女」とも言われますよ~。
それなのに、まだ、彼らには「高貴な香りがしない」と、今度は、亡き為尊親王の弟・敦道(あつみち)親王に、猛アタック!
すでに、二人も妻がいる敦道親王が、「なかなか和泉式部に会いに行けない」と言うので、彼女のほうから、彼の別荘に会いに行ったり、駐車場に止めた彼の車に出向いたり・・・と、当時の受身重視の女性には考えられない行動力を発揮する彼女。
そんな彼女に夢中になってしまった敦道親王は、とうとう彼女を宮廷へと招き入れます。
「ヤッター、これで毎日会えるじゃん!」って思ったのもつかの間、またまた敦道親王が病死してしまいます。
やがて、彼女は、ときの天皇・一条天皇の后・彰子に仕えますが、ここで、あの紫式部と同僚になり、「うかれ女」というニックネームもこの頃つけられるのです。
しかし、そんな彼女も年はとります。
結局、藤原道長のすすめに応じて、丹後守・藤原保昌(やすまさ)と、2度目の結婚をして年貢の納め時を向かえます。
それにしても、彼女のスゴイ所は、これだけの男遍歴があるにもかかわらず、彼女の事を憎む人がいない・・・という事です。
たしかに「うかれ女」というニックネームをつけられました。
あの紫式部にも「けしからん女」と悪口を書かれました。
しかし、あれだけ他人の悪口を日記に書きたおす紫式部でさえ、「けしからん」と言いながらも、「歌がうまくて、手紙が上手で頭の良い人」と、心から憎いとは思っていないようです。
しかも、声をかけた男が皆振り向き、夢中になるというモテぶりです。
実はそれこそが、彼女の恋のマル秘テクニック。
最初の歌をもう一度思い出してみてください。
哀れを誘う恋に破れた女・・・。
そう、彼女は「フラレ女」を演じきっているのです。
もちろん、それは恋が終った時だけではありません。
恋が順調に進んでいる真っ最中でも「私はいつか捨てられのね」と歌ってみたり、「私ってどうして、いつもこうなんだろう」と嘆いてみたり・・・。
男には、「寂しがり屋で一人にしておけない女」と見せ、同性の女には「私より不幸な人・・・」と思わせる事に成功しているのです。
恋の悩みも聞いてくれるという京都の貴船神社には、彼女の歌碑が立っています。(写真→)
恋に破れ、訪れた彼女・・・。
♪もの思へば
沢の蛍も わが身より
あくがれいづる
魂かとぞみる♪
「恋に悩んでここまで来ると、川一面の蛍・・・その光は、まるで私の魂が体から抜けて出ていってるようだわ」
すると、神様が男の声で歌を返したのだそうです。
(彼女がそうだったと言い張るので…)
♪おく山に たぎりて落つる 滝の瀬の
玉散るばかり ものは思ひぞ♪
「しぶきをあげて飛び散る山奥の滝の水玉のような(魂が抜けて飛び散ってしまった)君は、そんなに悩まなくていいんだよ」
いやはや、神様にまで、「フラレ女」を演じきるとは、たいしたもんだ。
こうなると、恋のテクニックというよりは、もう生まれながらにして身についたワザとしか言いようがありませんね。
最後に彼女の恋テクの歌を・・・もう、現代語訳はいりません、雰囲気でわかります。
♪つれづれと 空ぞ見らるる 思ふ人
天下り来む ものならなくに♪
♪憂(う)きことも 恋しきことも 秋の夜の
月には見ゆる ここちこそすれ♪
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