平家の公達・平重衡と輔子
寿永三年(元暦元年・1184年)3月10日、先の一の谷の合戦で捕えられた平重衡が、鎌倉に護送されました。
・・・・・・・・・
平重衡(たいらのしげひら)は、あの平清盛の五男。
個人的には、平家の公達のの中では、この重衡さんが一番魅力的だと思っています。
(ですから、今日の記事はちょっと長い・・・思いのたけをこめております)
それは、『平家物語』の作者も、彼の事が大好きで、その影響を多分に受けていると思いますが、平家物語以外でも、彼の事を悪く書いてある書物に、未だお目にかかった事がありません。
建礼門院・徳子(重衡の妹)(12月13日参照>>)に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)もその著書に書いています。
「をかしきことをいひ、またはかなきことにも人のためにびんぎに心しらひありしなどしてありがたかりし」
(ユーモアもあるし、その上ちょっとした事でも相手の都合の良いように、気をつかってくれて、私たち女官は助かりました~)
また、他にも
「心さまなつかしく、なさけしくもてなし、みめも、れいの一もとゆかりにやいち良くて、打ちわらひ給へけるなどこそ、ことにみまほしけれ。牡丹の花匂ひおほく咲き乱れたる朝ぼらけに、初郭公(ほととぎす)の一声音信たるほどとや聞えむ」
(親しみやすくて、情が深くて、顔も光源氏のように男前で、特に笑顔がステキ。牡丹の咲き乱れる香りのする朝に、ほととぎすの鳴く声が聞こえた時みたいな爽やかな人)
などと、もうこれ以上ないくらいの表現です。
宮中で彼が宿直を担当した夜などは、宵の口、仲間を集めておもしろい冗談を言って大笑いさせ、今度、夜も更けてきた時間帯には、おどろおどろしい話をして、「見回りできねぇよ」と震えさせてみたり・・・。
男友達からも人気の的、しかも、その上歌もうまく、琵琶もたしなむ・・・。
そんな、カッコイイ彼の奥さんは、藤原邦綱の三女・輔子(すけこ)。
ふたりは、たぶん・・・オフィス・ラブの末の恋愛結婚。
なぜ、そう思うかと言いますと、輔子のお父さんは、清盛の部下のような立場の人。
重衡さんは、今をときめく清盛の息子ですよ!
しかも、男前やわ、性格良いわ、頭良いわ・・・。
まわりが勧めた結婚なら、清盛さんと同等か、あるいは天皇家にかかわるお姫様とでも充分お似合いです。
まして、正室として迎えるわけですから・・・。
でも、彼は輔子と結婚しました。
輔子は、建礼門院・徳子が、高倉天皇と結婚した時、その世話係の女官として仕えるようになります。
徳子が15歳、兄の重衡は一つ上なので16歳、輔子も同じくらいの年齢だったはずです。
やがて、徳子が22歳で安徳天皇を生むと、輔子はその乳母としてお世話をします。
当時、天皇家では、乳母はふたり置く事になっていて、一人はベテランを起用していましたが、輔子の年齢を考えると、当然彼女は新米のほうで、帥典侍(そちのすけ)と呼ばれていた40歳くらいの女性がもう一人ベテラン乳母として仕えていました。
しかも、この帥典侍という人は、単に乳母だけでなく、当時の宮廷の女官の総監督みたいな事もやっていて、たしかに仕事はできるが、その分、重箱の隅をつつくような文句も言う・・・どこの職場にでもいる、いわゆる“お局”のような人でした。
誰もが煙たがるそんなオバさんとも、輔子はけっこううまくやっていたようで、そんなところが重衡さんの目に止まったんですかねぇ。
そんなにカッコイイ重衡さんが気に入ったのですから、きっと彼女も魅力的な人だったんでしょうね。
ともに、性格が良さげなご夫婦・・・子供がいなかった二人は、甥っ子にあたる安徳天皇をさぞかし大事に育てた事でしょう。
そんな重衡は武将としても優れていました。
以仁王と源頼政との宇治の橋合戦(5月26日参照>>)には副将軍として、尾張の墨俣(洲股)の合戦(3月16日参照>>)や水嶋・室山の合戦では大将軍として、みごと勝利しています。
源頼朝や木曽義仲が挙兵してからは、富士川の合戦(10月20日参照>>)などで、ちょっとカッコ悪い体たらくを見せてしまう平家の中では、ほぼ負け知らずの名将と言えるでしょう。
そんな中で、治承四年(1180年)の12月、重衡25歳の時、彼の運命を左右する戦いに相対する事となります。
世に言う『南都焼き討ち』です(12月28日参照>>)。
当時、各地の源氏の生き残りが挙兵した事を受けて、延暦寺や園城寺・興福寺といった武装した僧兵の多くいた寺院が、次々と源氏と手を結び、平家に反旗をひるがえし始め、やがて、「三寺の僧兵たちが、まもなく六波羅(平家の本拠地)に攻め込んで来る」という噂が立ち、平家は重衡を将軍に、この日、奈良を攻めたのです。
奈良坂の般若寺の近くで始まった合戦は夜まで続き、真っ暗闇の中、明かりをとろうとつけた大松明から火がつき、そのまま南都一帯に火が燃え広がってしまいました。
目の前の般若寺はもちろん、東大寺・大仏殿や興福寺の伽藍もことごとく燃えてしまいました。
合戦には、勝利した重衡でしたが、国家の財産でもあった大仏などを炎上させた罪は、重衡一人にかぶせられる事になり、彼はこの時から大罪人の汚名を着せられる事になるのです。
やがて、木曽義仲との倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)で痛手を被った平家は、安徳天皇を奉じて都落ち(7月25日参照>>)をし、運命の一の谷に落ち着きます。
そして、やって来る一の谷の合戦(2月7日参照>>)。
この時29歳の重衡は、大手・生田の森の副将軍として(2013年2月7日参照>>)、おそらく初めてと思われる大敗を経験します。
戦いに敗れ、軍を引き揚げる途中、須磨を過ぎたところで馬を射られてしまった重衡。
乗り換え用の馬に乗っていた家臣はそのまま逃げ去り、不覚にも彼は源氏の梶原景時によって生け捕りとなってしまいました。
やがて、一の谷から、さらに西の屋島に移動した平家軍のもとに、「重衡の命と三種の神器を取り替えよ」との後白河法皇の命令が届きます。
清盛の妻で、重衡の母である二位尼(にいのあま)は涙ながらに、「何とか重衡の命を助けてやって欲しい」と願いますが、やはり、それには平家全体のこの先の運命がかかっているわけで、聞き入れられる事はありませんでした。
奥さんの輔子は、おそらくこの時に愛する夫が敵に生け捕りになった事を知ったでしょう。
この時、手紙を書く事を許されなかった重衡は、使者を通じて口頭で、妻・輔子に言葉を送っています。
「都落ちをしてからは、俺はお前にずいぶん慰められたけど、きっとお前もそやろから、こないして俺が捕らわれの身となってしもた事を悲しんでる事やろうけど、夫婦の契りは永遠やというから、後の世に生まれ変ったら、必ずまた会おうな」
~あきません・・・もう涙・涙ですわ~
そして、「NO!」の返事を受け取った源氏側は、寿永三年(元暦元年・1184年)3月10日、死を覚悟した重衡を鎌倉に護送するのです。
鎌倉に行った重衡には、頼朝さん直々の尋問が待っていました。
その堂々たる受け答えに、頼朝も、景時も「あっぱれなる大将軍」と感激し、彼を死刑囚とは思えない最高の待遇で留置します(千手の前の話:6月23日参照>>)。
ここにも、重衡さんの人柄の良さが伺えますね。
やがて、さらに西へ行った平家には、壇ノ浦の戦い(3月24日参照>>)という運命の日がやって来ます。
「もはや、これまで!」と二位尼をはじめ平家の人々は、次々と船から身投げをし・・・と、ドラマなどでも、ほぼ全員が海に飛び込むような状況に描かれていますが、実際に飛び込もうとした人は平家の血筋の人だけで、雇われている立場の女官などは、皆、呆然とそこに座っているだけの状態でした。
先程登場した女官の総監督をしていた帥典侍でさえ、何をどうして良いかわからず、ただ立ち尽くしていました。
そんな中で、平家の血筋以外で入水しようとしたのは輔子ただ一人・・・同じようにボ~っとしていた徳子をうながし、自分も入水を計ります。
しかしながら、源氏の兵の放った矢で、袴の裾を船端に打ちつけられ、それを抜き取ろうとしている所を捕えられてしまうのです。
(ドラマでは、よく徳子のエピソードとして描かれますが、実際には輔子の話として記録されてます)
御存知のように、この時、徳子も源氏の兵によって、海から引き揚げられ助けられています。(12月13日参照>>)
そして、ここに平家は滅亡します。
その後、輔子は都に戻され、日野(現在の京都市伏見区)にいる姉の家に身を寄せていました。
そんな、彼女に辛いニュースが飛び込んで来ます。
大仏炎上に怒りまくっている奈良の僧たちが「重衡をこっちによこせ!」と大騒ぎし、重衡は鎌倉から奈良へ送られる事になり、東海道を経て、京から奈良街道を南に下るというのです。
そう、日野という場所はその奈良街道沿いにあるのです。
奈良に行けば当然死刑が待っています。
奈良街道沿いにある平重衡の墓(くわしい場所は本家HP:京都歴史散歩「醍醐」へどうぞ>>)
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死を目前にした夫が、この前の道を通る・・・二人は思いがけず最後の対面を果たすのです。
「もう、一度会いたい、という望みが叶って安心して死んで行ける」と重衡。
「あんたが、生きてると聞いたから、もしかしたら会えるかも・・・って、その望みだけで今日まで生きて来たんよ」と輔子。
輔子は気丈にも、用意した新品の着物に夫を着替えさせます。
そして、つかの間の対面の後、去って行く重衡・・・見送る輔子・・・愛しい人の残り香のついた衣をギュッと握り締め、彼女はおそらく、涙を我慢したに違いない。
ここは、人目をはばからず泣き崩れるよりも、その気持ちを抑え、夫の姿が彼方に消えるのを眺めるほうがよっぽど辛い。
彼女の気持ちを察した重衡は、もう一度振り返り「泣くなよ!契りがあれば、必ずあの世で会える!」と言います。
この時、振り返った重衡も笑顔であって欲しい・・・たとえそれが、無理やりな作り笑いであっても・・・。
この二人は、きっとそんな人だったと、私は勝手に想像しています。
なぜなら、それからまもなく、奈良に向かう道中の木津川沿いにて、重衡は斬首されるのですが、死を目前にした重衡は、悟ったように落ち着き、少しの見苦しさもなかったと言います。
妻の輔子のほうも、夫の死を聞いた直後、首なき胴体を人に頼んで、その日のうちに日野の法界寺に運ばせ供養した後、般若寺にさらされていた首も貰いうけ、骨にして高野山に送り、すべての後始末を終えてから、姉の家を出て、徳子の待つ京都・寂光院へと向かっています。
この一連の行動を見る限り、貴族の華麗さと武士の強さを持った夫と、妹の可愛さと母の強さを持った妻は、決してお互いの前では取り乱したりしなかったように思うのです。
二人が、きっと、もう一度生まれ変わって、ステキな恋をしている事を願って止みません。
今日のイラストは、
やはり最後の別れ・・・気丈な輔子さんも、夫が見えなくなった後は、その衣を抱きしめながら涙に暮れたのだろうと思います。
平家物語などで、牡丹の花に例えられる事の多い重衡さん。
少し季節は早いですが、輔子さんのそばで咲き誇ってもらいました。
般若寺・奈良坂のくわしい場所や地図は、本家HPの【奈良敵氏散歩:奈良坂から正倉院へ】のページ>>をご覧ください。
般若寺のコスモスの写真もupしてます。
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コメント
重ヒラは、戦も強いですが僕は知盛の方が強いと思います。
投稿: 6幡太郎 | 2012年8月 9日 (木) 12時13分
6幡太郎さん、こんばんは~
もちろん、知盛も強いと思いますよ。
投稿: 茶々 | 2012年8月 9日 (木) 19時28分