東大寺・大仏殿の再建に尽力した公慶
宝永二年(1705年)3月13日、奈良・東大寺で、大仏殿の屋根を支える“大虹梁”が柱上に据えられ、本格的な再建工事がスタートしました。
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奈良観光の中心でもあり、歴史好き、お寺好きでなくても、修学旅行などで一度は訪れた事のある人も多いはず。
御存知のように東大寺は、天平十五年(743年)に第45代・聖武天皇の発案で、全国に置かれた国分寺・国分尼寺の中心になるお寺として建てられました。(4月9日参照>>)
それは、周囲1㎞四方を築地塀で囲み、本尊・盧遮那仏(大仏)を安置する金堂(大仏殿)を中心に七堂伽藍が建ち並ぶ壮大な物でしたが、残念ながら今は模型でしかみる事はできません。
現在、皆さんが目にする大仏殿は、天平時代に建てられた物ではなく、今日のお話の元禄・宝永年間に建てられた物で、世界一の木造建築として現在も燦然と輝く大仏殿ですが、あれでも、もとの天平時代の物の3分の2の大きさだそうです。
実は、東大寺の壮大な伽藍は、治承四年(1180年)の平重衡の南都焼き討ち(ブログ:3月10日参照)と、永禄十年(1567年)の松永久秀の兵火(10月10日参照>>)でほとんど焼失してしまっていたのです。
その元禄・宝永の再建に力を注いだのは、江戸時代の龍松院公慶という僧です。
彼は、この東大寺再建のために、全国を勧進(寺を再建するために広く寄付を募る事)して回り、苦労に苦労を重ねて、やっと、この宝永二年(1705年)3月13日の大仏殿の屋根を支える“大虹梁”が柱上に据えられるという最も重要な工事までこぎつけました。
そして、翌月の4月10日には上棟式を迎え、盛大な祝宴が開かれました。
大仏殿の再建はまだ途中ではあったものの、このまま順調に工事が進むであろうと見てとった公慶は、先人に習って伊勢神宮に参拝をしようと、6月1日に奈良を出発します。
そして、そのまま奈良には帰らず、江戸に向かいます。
東大寺再建にあたって大変協力的だった第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院が病に臥していたのを心配しての江戸行きでした。
しかし、この江戸行きが公慶の運命を大きく変えてしまうのです。
江戸に着いて間もなく、桂昌院は亡くなってしまいますが、その季節は6月下旬から7月にかけて・・・旧暦の6月下旬から7月と言えば、夏の盛りの最も暑い頃。
献身的に亡き桂昌院を供養する中、公慶は体調を崩してしまいます。
そして、7月12日、突然の下痢に襲われ、翌日には亡くなってしまいました。
大仏殿の工事は順調に進んでいるとは言え、志半ばでこの世を去るのは、さぞかし無念であった事でしょう。
やがて、遺体は弟子たちによって奈良に運ばれ、公慶が最も力を注いだ東大寺への埋葬を願い出ますが、東大寺は本来天皇家のお寺(正倉院は現在でも宮内庁の管理です)であるため、皇族以外の人物を埋葬する事ができませんでした。
現在、公慶さんは、東大寺近くにある五劫院(ごこういん)というお寺にひっそりと眠っておられます。
公慶さんが、その人生の大部分を費やした東大寺・再建は、東大寺だけでなく、古の都・奈良の復興へもつながりました。
もし、公慶さんがいなかったら、あの大いなる甍(いらか)を誇った平城宮が、跡形もなく一面の田んぼと化していたように、現在の東大寺の姿も無かったかもしれません。
未来への世界遺産は、常に偉大なる人々の努力によって守られているんですね。
今日のイラストは、
五劫院にある公慶さんのお墓・五輪塔。
今こそ、大仏殿の勇姿をゆっくりとご覧になっていただきたい。
五劫院への行き方や地図はHPの
【奈良坂から正倉院へ】のページに掲載しています→
関連記事:ブログ3月23日【鎌倉の大仏と奈良の大仏】もどうぞ>>
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