邪馬台国はどこか?を見て
今日は、本当は別の話題を準備していたのですが、昨夜の10時からの『歴史の選択~邪馬台国はどこか?』を見たために、急激に自分の中で盛り上がってしまい、今日は邪馬台国について書かせていただく事にしました。
・‥…━━━☆
私は、単なる歴史好きで、専門家ではありませんから、それこそ番組中で、アナウンサーさんがおっしゃっていたように、「命賭けてる人」もいらっしゃるわけで、そんなかたがたから見れば、笑う価値すらないものですが、単なる歴史好きは単なる歴史好きなりに、自分の考えのような物があるわけで、まぁそこんとこは素人の独り言だと思っていて下さい。
今日の番組では、「邪馬台国は畿内か?九州か?」というので、アナウンサー二人がそれぞれの意見の代表者の立場をとって、遺跡や出土品、古墳や魏志倭人伝の記述などから様々な史料を取り上げて「このような史料があるから九州だ」「いや畿内だ」と提示して、携帯電話と地デジで視聴者が投票する、という進行でした。
そんな中・・・
私は、初めて歴史の教科書を見たときから、ず~っと不思議に思っているのですが、なぜ?まず『邪馬台国』ありき、『魏志倭人伝』ありき、なのか?が、どうもわからないのです。
私が、学校で習ったのはずいぶん前なので、現在の教科書にどのように記載されているのかよくわからないのですが、『古事記』と『日本書紀』というわが国の歴史と『魏志倭人伝』はそんなに差がある物なのでしょうか?
たしかに『古事記』と『日本書紀』というのは、それまでの歴史書を抹殺して、大和朝廷が書き上げた物ですが、それらが100%デタラメで、『魏志倭人伝』が100%正しいのでは決してないはずです。
どちらにもウソの部分があり、どちらにもホントの部分があると思うのです。
たしかに、畿内か?九州か?の論議も重要な事ですが、どれがウソでどれがホントなのかという事の重要性が教科書(私の時代の教科書です)からはまったく見えて来なかったのです。
そもそも『邪馬台国』と『卑弥呼』の事が記されている『魏志倭人伝』・・・『魏志』は中国の晋の時代に編さんされた『三国志』の一つで、その中に倭人の項があり、そこに『邪馬台国』と『卑弥呼』が出てくるんですよね。
それは、魏の前の漢の時代に貢物を持ってきた邪馬台国の使者が、自分の国の話をしたのを聞いた漢の時代の人の事を聞いた魏の時代の人が書いた本を見て晋の時代の人が書いたという事になってたと思います。
「友達の友達の話やねんけど・・・」と言った話の怪しさは誰もが感じるところです。
1299年のマルコポーロの『東方見聞録』でも、日本の位置や蒙古襲来の出来事がかなり正確に書かれている反面、「日本人は食人の風習がある」といった事も書かれています。
ただ、『東方見聞録』が、マルコポ-ロ個人の記録であるのに対して、『魏志倭人伝』は国をあげて正確な歴史書を作ろうとして書かれているので、同じように考えるのは良くないかも知れませんが、やはり、間違った事が書かれている部分があるのは確かです。
もちろん、その事を日々研究されている専門家のかたもたくさんおられるわけですが、一般的な場所で議論される事が少ないような気がしています。
・・・で、今日の番組のテーマでもある「畿内か?九州か?」という事に関しては、私は女性のアナウンサーさんがおっしゃってたように、九州から畿内に移動したのではないか?と思っています。
ただ、「九州にあった邪馬台国が、畿内に移って大和政権になった」という表現とは少し違って、九州にあった時から大和政権であったというニュアンスです。
おそらく、邪馬台国からやって来た使者は、自分の国の名前を聞かれて「大和(やまと)」と答えた。
・・・で、それを聞いた中国の人が漢字で書いたので『邪馬台国』という表記になったのでしょう。
現在でも、中国の人は固有名詞を、聞いた音に漢字をあてて表記しますよね。
たとえば、ビル・ゲイツさんの事を、『比尓・盖茨』と漢字で表記して、「ピーアル・カイツー」と発音してます。
それと同じように「やまと」と聞こえたから『邪馬台』と漢字で表記して、邪馬台という国だから『邪馬台国』。
当時から、国内では大和と言っていたのだでしょう。
ですから『卑弥呼』は「ひめみこ」ではないかと・・・。
最初の女帝・推古天皇(3月7日参照>>)の名前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
夫・天武天皇の後を継いで、藤原京を完成させた持統天皇は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と呼ばれていました。
きっと、邪馬台国から・・・いえ、大和から来た使者が王の名前を「○○のひめみこ」と言ったのを、「ひめみこ」の部分だけ取って『卑弥呼』と書いたんでしょうね。
そして、大和の国は長い時間をかけて九州から畿内へ移動って来たのだと思います。
長い時間・・・というのは、人が長い時間をかけて旅をしたという意味ではなく、都が長い時間をかけて移ったという事です。
ですから、私としては九州も畿内も、邪馬台国であり大和政権であったと思います。
これは、『記紀』に見る神武東征の話と一致する事でもあります。
もちろん、移動した先々には、スサノヲと大国主の出雲王朝も、ニギハヤヒとナガスネヒコの河内王朝などの国もすでに存在していて、それらを占領、あるいは統合しながら・・・という事になりますが・・・。
やはりここは、専門家の方々に、『魏志倭人伝』と『記紀』との事実の部分の点と線を結びつけていっていただいて、遺跡からの史料を重ね合わせ、更なる解明に期待したいと思います。
卑弥呼・邪馬台国と言えばこんなイメージでしょうか・・・。
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コメント
貴説の通り、魏志倭人伝はどの程度信頼出来るのでしょうかね、中国に於ける「魏志」と実際の中国の歴史から、記述内容の信憑性等が分析てきないのでしょうかね。
日本書紀も6世紀以前は信頼出来なくて、困りますね。一例として、私の昨年の10月13日のブログに神功皇后の新羅征伐の誤りを書いています。
投稿: yusaku | 2007年3月16日 (金) 17時35分
yusakuさん、コメントありがとうございます。
私も9月5日に「神功皇后の三韓征伐」を書きましたが、臨月に出発した皇后が征伐を終えて帰還してから出産・・・という時点で、もう真実ではない事がはっきりしてますし、ひょっとしたら応神天皇と仁徳天皇は同一人物なのでは?との疑いも持ってます。
しかし、やはり仁徳天皇の場合も、「茨田の堤」は実在するわけですし、この時代のウソとホントの見極めが難しいですね。
投稿: 茶々 | 2007年3月16日 (金) 20時00分
まさに、皆がこだわるのは「女王」だからですよ。
だって、倭の五王はさほど騒がないじゃないですか。ほんと、パリュミラの女王国・・これも女王だから騒がれるし、クレオパトラが男だたら、騒がないですよね。
投稿: 乱読おばさん | 2007年3月16日 (金) 21時02分
> 乱読おばさんさま
なるほど、そうですね。
推古天皇の記事を書いた時にも、「女帝」という言葉の響きにミョ~にそそられる物がありました。
投稿: 茶々 | 2007年3月16日 (金) 23時11分
邪馬台国はいづこにありや・・・
・今も歴史学、考古学会の謎とされてますね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年7月28日 (木) 20時40分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~
現在の所、他国の記録しか無い状況ですから…謎はまだまだ謎のままですね。
投稿: 茶々 | 2016年7月29日 (金) 16時59分