女帝・推古天皇の素顔
推古三十六年(628年)3月7日、日本で最初の女帝・推古天皇が崩御されました。
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推古天皇と言えば、大臣・蘇我馬子と摂政・聖徳太子とで行ったトロイカ政治を思い出しますが、この三人の関係をどう見るかで、推古天皇という人のイメージがずいぶんと変ってしまいますね。
今まで語られて来た通説の通り、聖徳太子がスゴイ政治力の持ち主だったとすると、
「本来ならば太子が天皇になるべきであるけれども、年が若いし蘇我氏の手前もあるので、歴代天皇の兄弟・額田部皇女(←推古天皇の名前)に天皇になってもらって、馬子と太子にサポートをさせる」というパターンです。
これだと、推古天皇は完全に飾り物・・・ただの看板という事になります。
そうではなく、蘇我馬子が当時の一番の権力者だったとすると
「推古天皇も聖徳太子も、天皇家でありながら、蘇我氏の血を引く人物・・・そのふたりを天皇と摂政にすえる事で蘇我氏の権力が増大する・・・馬子にとって、この二人はまさに、女子供だった」というパターン。
これなら、推古天皇も聖徳太子も飾り物・・・蘇我馬子が実権を握っていた事になります。
多くの人が馬子VS太子の構図を描いてしまいますが、ここにもう一つ、推古天皇こそが真の権力者であった可能性も忘れてはいけません。
彼女が「ただの飾り物でなかったかも知れない」事が垣間見える出来事は、彼女が天皇になるずっと前・・・彼女の夫である第30代・敏達天皇が亡くなった事をきっかけに起こります。
この時代、たとえ兄弟であっても母親が違っていれば結婚の対象になったので、推古天皇のまわりの人間関係はホントにややこしい・・・。
とりあえず、右図(→)のような系図を書いてみましたが、本当はもっとたくさんの奥さんや子供が入り乱れていますが、ややこし過ぎるので、今日のお話に出で来そうにない人物は省かせていただきました。
この敏達天皇が亡くなった頃というのは、二代・三代前くらいから始まっていた物部氏VS蘇我氏の抗争が、まさにピークに達していた頃でした。(10月13日参照>>)
それを物語るエピソードがあります。
敏達天皇の葬儀の時の事・・・。
大臣だった馬子が、おもむろに弔辞を捧げはじめます。
それを横で見ていた物部氏のトップ・物部守屋(もののべのもりや)が
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
と、笑ったんです。
実は、馬子はあまり体格の良い人では無かったのですが、この日は前・天皇の葬儀とあって、はりきってメッチャ立派な太刀を腰にさしていたんですね。
小さい人がでっかい刀を・・・というのを見てからかったんです。
そして、今度は守屋が弔辞を捧げる番。
さっき、からかった事もあり、まわりを取り囲む蘇我一族の視線は、ただならぬ鋭い視線でした。
守屋の額からは汗がしたたり落ち、手がブルブル震えます。
それを見た馬子・・・
「なんや、体に鈴でも着けといたら良かったな。さぞ、えぇ音で鳴ったやろな」
とからかい返しです。
天皇の葬儀という公式な場所で、こんなにもののしり合うほど一触即発の状態だった物部VS蘇我。
その戦いに終止符を打つきっかけになる事件は、まだ天皇の死の余韻が残る中で起こります。
額田部皇女が夫の喪に服して過ごしていたたある夜、彼女いる宮の前がにわかに騒がしくなります。
「開けろ!言うたら開けんかい!」
「いや~、それは困ります~」
「俺は天皇の異母弟や!俺も喪に服したい~っちゅーとんのや!開けんかい!」
「いや~それには手続きが必要ですし・・・いきなり来られても・・」
「何をウダウダ言うとーんねん!さっさと開けろや!」
しばらく押し問答が続いた後、侵入者は諦めて帰りました。
その侵入者を宮前で必死で止めていたのは三輪君逆(みわのきみさかう)という敏達天皇の寵臣でした。
宮前で大暴れしていたのは、穴穂部皇子(あなほべのみこ)・・・彼は自分でも言ってるように、亡くなった敏達天皇の弟。
当然、次期天皇候補の一人になるわけです。
この時期、後継者だった大兄皇子(用明天皇)が病弱だったため、すでに、その次の天皇候補が囁かれていたのです。
亡くなった先代・天皇の皇后である額田部皇女の発言は、その後継者争いに影響する事は確かです。
「自分が後継者にふさわしい」と、穴穂部皇子はアピールしたかった・・・彼が宮前で「開けろ!開けろ!」と言ったのは、そんな理由だったのかも知れません。
ここで、額田部皇女が穴穂部皇子の大暴れを見て、「怖い!怖い!」と部屋の隅で隠れているような女性なら、きっと最初に書いたように、馬子や太子のお飾りとして天皇の位に着いた人だと思われますが、実は彼女はそうではなかったのです。
きっと彼女は、穴穂部皇子の態度を見て、ほくそえみながら「馬鹿なオトコ・・・」って思ったに違いありません。
次の日の朝・・・宮廷内を噂が駆け巡ります。
「皇位を狙う穴穂部皇子が、先代天皇の皇后を犯そうとして宮に乱入した!」
そう、彼女は「穴穂部皇子にレイプされそうになった」と、蘇我馬子に告白したのです。
記録に残る彼女は絶世の美女で、しかもこの話が、何の疑いもなく皆が信じてしまうくらい、本当に魅力的な人だったようです。
穴穂部皇子にそんな気があったのか、無かったのか、どちらにしても宮廷中にそんな噂が広まってしまった以上、彼の怒りは収まりません。
穴穂部皇子は、物部守屋に命じて、あの日、宮の前で押し問答を繰り広げた逆を殺させてしまいました。
「待ってました!」とばかりに兵を挙げる馬子。
穴穂部皇子は、あっという間に殺され(6月7日参照>>)、その勢いのまま、戦いは物部VS蘇我の大合戦へと発展して行きます。
この戦いの間に、敏達天皇の後を継いだ用明天皇(大兄皇子)は、病気で亡くなってしまいますが、戦いの結果は蘇我氏の大勝利、ここに物部氏は滅亡したのです。
しかし、ここでもまだ、額田部皇女は天皇にはなりません。
彼女は、その発言権を生かし、次期天皇に泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推薦するのです。
この泊瀬部皇子が第32代・崇峻(すしゅん)天皇です。
しかし、実は、この崇峻天皇は、物部氏滅亡のきっかけを作った穴穂部皇子の弟なのです。
先の合戦の時、途中から蘇我側に寝返ったとは言え、なぜ、額田部皇女は敵方の弟を天皇に推薦したのでしょう?
もちろん、滅びたとは言え、あれだけの勢力を誇っていた物部氏への気遣いもあったでしょうが、もし、勝手な想像を許していただけるならば・・・「コイツは使える・・・」。
彼女はそう思ったのではないでしょうか。
ひょっとしたら先の合戦での途中の寝返りも、崇峻天皇に何らかの圧力をかけていたのかも知れません。
「彼は、自分の言う事を聞く人間だ」と判断しての推薦ではなかったのでしょうか?
それを裏付けるように、崇峻天皇が思い通りにならないとわかった5年後、馬子が派遣した東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって、崇峻天皇は暗殺されるのです。
「大臣が天皇を暗殺する」という前代未聞の事件は、後にも先のもこの事件くらいでしょう。
確かに、不幸な死に方をした天皇や、暗殺されたのでは?と疑わしい天皇は他にもいますが、なんせ崇峻天皇の事件は正式な発表が暗殺なのですから・・・。
しかしそれが、まわりに文句を言わせず、まかり通ってしまうのは、この事件に額田部皇女・・・つまり次期天皇が関与していたからではないか?とも思えるわけです。
崇峻天皇の死を受けて、空白になった皇位・・・。
ここで、満を持して額田部皇女が、日本初の女帝・推古天皇として即位するのです。
今日のイラストは、
女帝をイメージして菊の花を描いてみました
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コメント
こんにちわ~♪
オリジナルCGイラストがついているのですね。そうか・・・今まで気づきませんですみませんでした。為朝さんのも素敵です。
投稿: 乱読おばさん | 2007年3月 7日 (水) 16時27分
“乱読おばさん”さん、こんにちは~。
ブログにも来ていただいて、光栄です。
お正月にイノシシの絵を書いて以来、少しイラストにハマッてます~。
小学生の頃は漫画家になりたかった私ですが、PCで書くのまだ始めたばかりで大変です。
特に、人物はどうしてもギャグマンガっぽくなってしまって“乱読おばさん”さんのように写実的に美しく・・・という絵は難しいですね。
投稿: 茶々 | 2007年3月 7日 (水) 17時38分