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2007年4月17日 (火)

奈良に始まる福祉の歴史~光明皇后の悲田院と施薬院の設立

 

天平二年(730年)4月17日、光明皇后が貧困の病人に薬を提供する場所・施薬院を設立しました。

今日はこの光明皇后の悲田院施薬院に始まる日本の福祉の歴史について・・・想像以上に、福祉が充実しているので驚きますよ。

・・・・・・・・

国立の社会福祉施設・・・と聞くと、近代になってから登場する物のように思いますが、、意外にも日本には、すでに奈良時代に福祉施設が設置されていました。

聖徳太子が四天王寺内に設置した・・・という説もあるようですが、これは伝承のみで、実際にあったかどうかは定かではありませんので、確固たる事実としては、やはり奈良時代の光明皇后の手による物が日本初と言えると思います。

光明皇后は、あの東大寺を建立した聖武天皇の皇后で、藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)の娘・・・皇族以外で初めて皇后となった人です。

噂によれば、たいへん美人だったようですが、文献では『聡明で慈愛に富も、仏を敬う・・・』と書いてあるだけで、顔のよしあしには触れられていません。

でも、仏教を大切にしていたのは、本当のようで、写経の創始者でもあり、興福寺の五重塔や西金堂などを建立したり、聖武天皇が病に倒れた時は新薬師寺も建立しましたし、各地に国分寺を建設する原案を出したのも彼女でした。

その仏教精神の慈愛というところから、数々の福祉施設も設立したのです。

まずは、養老七年(723年)に悲田院(ひでんいん)という物を設置します。

これは、貧困者や孤児などを収容する福祉施設。

最初に興福寺内に建てられ、その後、東大寺や大安寺などの各寺院にも設置されました。

そして、天平二年(730年)4月17日の施薬院です。

こちらは、やはり貧困な病人を対象にした薬を与える施設・・・と言っても「薬屋さん」というよりは、「病院」あるいは「療養所」といった感じです。

Houkkezikarafuro2cc 奈良の法華寺に、今も残る「浴室(からふろ)は、病気療養者のための入浴施設で、ここでは、「光明皇后自らが千人の病人の垢を流した」と言われています。

また、それらの費用は、皇后様用の生活費と、父・不比等の遺産でまかなわれ、福祉施設用の別の税金は取らなかったというところh¥がスゴイ。
(皇后さまの生活費が税金と言えば税金ではありますが…)

これらの施設は、平安時代にも受け継かれ、京の都には国の直営の悲田院が東西2ヶ所にあり、諸寺院や都以外にも何ヶ所か設けられていたそうです。

施薬院も、その頃には医師や役人も常駐するようになり、「京内の貧窮者・病人・孤児を悲田院・施薬院に収容せよ」というお触書も現存している事から、平安時代までは、しっかりと存在し運営されていた事がわかります。

しかし、その後、中世になるとその存在はうやむやになり、一旦は無くなった状態になりますが、天正年間(1573年~1592年)に豊臣秀吉によって再興され(12月10日参照>>)再び国費での施薬院が設置されました。

ただ、国費ではなく、僧の力での福祉施設なら、鎌倉時代にも存在しました。

僧・忍性(にんしょう)(7月12日参照>>)によって建てられた鎌倉極楽寺の施薬院と、同じく忍性が建てた奈良「北山十八間戸」です。

極楽寺の施薬院は先ほどから登場している施薬院と同じ意味の施設ですが、北山十八間戸は少し意味合いが違います。

こちらは、不治の病に犯された人が余生をおだやかに過ごす最後の場所として建てられました。

Kitayama18cc 最初は、東大寺の北側にある般若寺のさらに北東の山奥にあったので、「北山」・・・と呼ばれていましたが、その初代の建物が戦国時代の真っ只中の永禄十年(1567年)に焼失してしまったため、江戸・寛文年間(1661年~1672年)に現在の場所に再建されたのです。

現在、北山十八間戸があるのは、般若寺から奈良坂を少し下った所・・・ここからは、奈良市街が一望できます。

東大寺・大仏殿や、興福寺の塔が眺められるこの場所は、きっと、昔の人にとっても、心落ち着く場所だったんでしょうね。

また、享保七年(1722年)、江戸・小石川の御薬園に建てられた養生所も、当時は「施薬院」と呼ばれ貧窮者の治療が行われていました。

Karafurocc
今日のイラストは、
光明皇后の「浴室」の伝説にちなんだ絵を書いてみました~。

法華経を深く信じていた光明皇后は、病人たちの病気療養のために作った浴室で、自らが千人の垢を流す願をたて患者ひとりひとりを洗い流してあげていましたが、千人めにやって来たのは、膿にまみれた病人でした。

皆がそばに寄るのさえためらったにもかかわらず、皇后は、その垢を流したばかりか、患部から膿を吸い取ったのです。

その瞬間、患者の姿は、みるみる阿閦(あしゅく)如来のお姿に変ったと言われています。
(どこかで聞いたと思ったら…「千と●●の…」)

浴室のある法華寺と北山十八間戸のくわしい場所や地図は本家:HP【京阪奈ぶらり歴史散歩】で紹介しています・・・

法華寺のある佐保路>>
北山十八間戸のある奈良坂>>
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コメント

茶々さん、こんばんは。

僕が昔勤めていた大学では「仏教福祉学」という教科がありました。

大抵の人は「仏教福祉」って何?って感じでしょうね。(僕も初めはそうでした!)

簡単に言えば、まさに「奈良に始まる福祉」事業の学問って感じです。

光明皇后の施薬院や僧侶では行基に始まり、叡尊、忍性などの行った慈善活動が該当するのかな!

まだ新しい(とは言っても、30~40年は経っているけど…)学問なので、新鮮な感じですよ!!

投稿: 御堂 | 2007年4月17日 (火) 20時38分

>御堂さん、こんばんは~。
へぇ~「仏教福祉学」って言うんですか・・・。

私の歴史の知識はまったくの独学なので、そういう学問の名前として聞くと、より新鮮に聞こえますね。

「北山十八間戸」に行った時は、「最後の時をおだやかに過ごすために・・・」というような考え方が鎌倉時代に存在した事に大変驚きました。
その学問には、きっとそんな驚きがいっぱい詰まっているんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2007年4月17日 (火) 21時21分

おひさしぶりです(^o^)丿

そんな昔から福祉施設があったかもしれないなんて凄いですね!膿だらけの人を洗ったら、あしゅく如来になったとは なんか千と千尋の1場面を思い出しますね☆

イラストのアルバムも見ましたよぉ~。独自な感じで良いですね!

投稿: 見習い大工 | 2007年4月17日 (火) 23時11分

見習い大工さん、お久しぶりです~

私も千と千尋を見た時、光明皇后を思い出しました。
きっと、宮崎さんも・・・

イラスト・ギャラリーは、このブログのテンプレートの幅が狭いので、大きなサイズで見ていただこうと思って設置してみました~その分アラも見えそうですが・・・

投稿: 茶々 | 2007年4月18日 (水) 00時42分

13段落目

こちらは、やはり貧困な病人を対象にした薬を与える施設・・・と言っても「薬屋さん」というよりは、「病院」あるいは{療養所」といった感じです。


{療養所」

15段落目

また、それらの費用は、皇后様用の生活費と、父・不比等の遺産でまかなわれ、福祉施設用の別の税金は取らなかったというところh¥がスゴイ。

h¥

誤植と思われます。

投稿: さく | 2022年10月 3日 (月) 14時54分

さくさん、ありがとうございます。

訂正させていただいときました。

投稿: 茶々 | 2022年10月 4日 (火) 04時45分

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