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2007年4月 7日 (土)

琵琶湖疏水の完成

 

明治二十三年(1890年)4月7日、琵琶湖の水を京都へ引く『琵琶湖疏水』が完成し、同時に日本初・世界で2番目の水力発電所も作られました。

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維新が成って、都が京都から東京に遷された事で、京都の町の人口や産業が衰退をし始めていました。

明治十四年(1881年)に第3代目の知事に就任した北垣国道(きたがきくにみち)は、何とかこの事態を打開し、京都の経済の復興を計ろうと起死回生の案を打ち出します。

それは、かつて、あの平清盛の・・・そして、あの豊臣秀吉の念願でもあった夢のシステム・・・琵琶湖から京都への運輸水路の開発です。

それが完成すれば、舟運の発達はもちろんの事、都市部の飲料水も確保、家屋密集地の防火や衛生管理にも役立ち、周辺の田畑も潤います。

発表しちゃった以上、これはもう、後には退けないプロジェクト・・・失敗の許されない大事業です。

工事担当者に、当時工学大学を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべさくろう)技師(9月5日参照>>)や、嶋田道生測量師らを抜擢し、市民らの協力も得て、明治十八年(1885年)に工事が着工されました。

Biwakososuicc その工事は、最も困難とされた大津・山科間に立ちはだかる山を貫くトンネル工事はじめ、疏水に関わる工事すべてが、明治の最先端技術を駆使した物で、近隣住民の驚きもひとしお、工事の見物人が後をたたない・・・といった状況だったそうです。

やがて、着工から五年近く経った明治二十三年(1890年)4月7日、就労者400万人、125万円という膨大な費用をかけて大津の琵琶湖取水地点から鴨川落合まで11.1㎞の疏水が完成したのです。

この大事業を成し遂げた田辺技師は、まだ28歳の青年でした。

工事の中でも、画期的だったのはインクライン(傾斜鉄道)の建設・・・先ほども書いたように、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山は、当時の旅人にとっても貨物の運搬にとっても、最大の難所だったのです。

インクラインとは、その難所の高低差を、「滑車で巻き上げるワイヤーロープにつないだ軌道上の台車に舟を乗せて、人や荷物を舟ごと運んでしまおう」というものでした。

Sosuiraincc そして、この疏水とインクラインの工事の途中には、清盛にも秀吉にも想像すらできなかった方向転換があったのです。

それは、工事真っ只中の明治21年、アメリカ・コロラド州のアスペン銀鉱山を視察した田辺技師らの発案によって、蹴上(けあげ)水力発電所を建設し、水力利用のつもりだったインクライン計画を電力利用に変える事。

もし、電気動力で走るケーブルカーを、「電車」の仲間と位置づけるなら、ある意味これが、日本初の電車と言えるかも知れません。

舟をそのまま乗せるとは言え、車輪が軌道の上を走るわけですから・・・。
(インクラインのくわしい仕組みについては、本家HP「京都歴史散歩」で紹介しています・・・コチラからどうぞ>>>)

Sosuimunadomaricc そして、その発電の一部を利用する事によって、疏水完成後には、京都の町に明かりがともり、日本初の路面電車も走る(2月1日参照>>)ことになり、京都の産業は一気に近代化へと向かいます。

やがて、明治二十七年(1894年)には、疏水が伏見にまで延長され、琵琶湖と淀川が結ばれるに至って、近江から大阪が舟によって直結。

この事は、事実上、北陸から大阪へも直結・・・という事になり、物資や旅人の往来で、大変な賑わいを記録しました。

しかし大正時代に入って、京津電車京阪電車が開通し、大正十年には国鉄山科トンネルの開通とともに現在の山科駅が開設されたため、人の足としての疏水の役目は終わりました。

Sosuidouzoucc その後も貨物の輸送は行われていましたが、それもやはり時代とともに陸上輸送へと移り変わり、昭和二十六年(1951年)、砂を積んだ三十石舟が通ったのを最後に、貨物運輸としての任務も終えました

でも、運輸業からは引退したものの、疏水の水は、現在でも水道用水など現役で活躍中です。

この琵琶湖疏水事業は、日本の重要な工事を外国人の設計監督に頼っていた明治の初め頃に、日本人のみの手で行われた誇れる一大事業です。

現在は、近代の遺産として12箇所が国の史跡に指定されています。

Sosuisuirokakucc その史跡の一つに、水路閣という建造物があります。

これは、南禅寺の境内を突っ切る全長93mのレンガ造りのアーチ式水道橋。

「亀山上皇ゆかりの由緒ある古寺に水道橋を通す」という案を出すほうも出すほうですが、上皇の分骨所のある南禅院を、南禅寺・法堂から分断・・・つまり南禅寺の境内のド真ん中を通るという大胆な設計を許可したお寺の心意気にも拍手を送りたいですね。

Nanzenzizekkeicc
今日のイラストは、
カワイイ感じで・・・、やっぱり南禅寺と言えばこれでしょう

お寺の境内のイメージとは合わないかも知れませんが、『水路閣』のあのアーチの形は芸術品です。

きっと平成の世に石川五右衛門が三門の上に上ったとしてもやっぱり「絶景かな~」って言うでしょうね。

疏水沿いの哲学の道、琵琶湖疏水のくわしい場所などは本家:HPでご確認ください>>>
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コメント

今の時期はさぞ絶景でしょうねえ。桜は疎水に良く似合う。
石川五右衛門も素敵ですが、田辺さんをトラバしました~♪

投稿: 乱読おばさん | 2007年4月 7日 (土) 08時59分

田辺さんも書いていらしたんですね~新参者なので知りませんでした~スイマセン

そう、そう、銅像もあんな感じの髪型で少し驚きました。
もっと短髪を想像していたので・・・。
今のキムタクみたいな髪型でしたね。

先日、京都御所を見た後に行きましたが、南禅寺・三門からの景色は絶景でしたよ。

投稿: 茶々 | 2007年4月 7日 (土) 10時16分

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