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2007年4月12日 (木)

武田信玄公の命日なので

 

天正元年(1573年)4月12日は、武田信玄さんのご命日・・・で、今日は信玄公について書かせていただきます。

・・・・・・・・・

「京を制する者は天下を制する」
足利義昭を奉じて、いち早く上洛を果たし、天下に最も近い位置をキープした織田信長(9月7日参照>>)

信長より13歳年上の自分にとって、「これがラストチャンスかも知れない」と、はりきって甲斐を出発し、京へ向かう武田信玄(12月12日参照>>)・・・

途中、三方ヶ原徳川家康を破り(12月22日参照>>)、いよいよ一歩先行く信長との決戦を控えたある日、信玄は突然の高熱に襲われます。

今回の上洛を諦め、一旦甲斐へ帰る事にする信玄でしたが、容態は悪くなる一方です。

意識が朦朧とする中、後継者の勝頼を病床の枕元に呼び、彼はこう言います。
「私は、だいたいの事はなしどげたが、上洛を果たせなかった事が心残りだ・・・私が死んだ事がわかれば、敵は必ず攻めてくるだろうから、3年間はこの死を隠すように」

そして、彼は、天正元年(1573年)4月12日、53歳で無念の最期となったのです。

死因については、野田城で受けた鉄砲の傷が原因?(1月11日参照>>)とも言われていますが、一般的には病死・・・たびたび高熱を出し、吐血の記録もあるところから、肺結核ではないか?と言われています。

応仁の乱以来、幕府の権威は地に落ち、群雄割拠する戦国時代に突入・・・誰もが天下を夢見る中、突出した強さを見せる織田信長ですが、実は信長が一番恐れていたのが、武田信玄と上杉謙信でした。

信長は極力二人との決戦を避けていた形跡があります。

おそらく、この信玄上洛のニュースを聞いた時も、彼の事ですから、一応、表には出さないものの、内心はけっこうビビッていたかも知れません。

三方ヶ原で、一戦交えた家康も、生涯を通して一番尊敬する武将は信玄だったようです。

強さでは、誰にもひけをとらなかった信玄が、なぜ天下を取れなかったのか・・・それは、一言で言うと、よく言われる「時代が信長を選んだ」という事になりますが、それは、歴史の偶然ばかりではありません。

まず、それぞれの武将の年齢差です。

先に書きましたように信玄の没年が53歳。
この時、ライバルの上杉謙信は44歳、信長が40歳で家康が32歳。
やはり、突出して信玄は世代が上である事がわかります。

そして、もう一つ。
年齢差ではない大きな違いがあります。
それは、タイプの違い・・・と言うべきでしょうか。

漠然とした言い方で申し訳ありませんが、この信玄と信長の間に、戦国武将のタイプの違いを示す目に見えぬ線のような物を感じるのです。

信玄は、中世の権威などを重んじるいわゆる「昔かたぎ」
信長とは4歳しか違わない謙信でも、毘沙門天に帰依したり・・・という「昔かたぎ」が垣間見えます。

それに、対して信長は、良くも悪くも新しい発想をし、新しい物を取り入れる「ニュータイプ」です。

ここに、戦国武将の世代交代があるように思うのです。

時代はやはり、「ニュータイプのリーダーを選んだ」という事が言えるのではないでしょうか。

信玄の後を継いだ勝頼は、その遺言通り、3年後に父の葬儀を行います(4月16日参照>>)、おそらくは、ほどなく周囲に信玄の死はバレていたでしょう。
(2ヶ月後にはバレちゃってます→【信玄の死を受けて家康が動く】参照>>

しかも、カリスマの大黒柱を失った武田家をまとめる苦労・・・ご存じのように、今後の勝頼には、それが大きくのしかかる事になります。

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今日のイラストは、
『恋に落ちて窓辺で物思いにふける信玄公』
有名な男性へのラブレター(7月5日参照>>)から受けた印象で、オチャメにカワイく書いてみましたが・・・ファンの方に怒られるかも・・・
 .

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんにちは。
相互リンク承認していただきありがとうございます。

武田信玄は、風林火山でも活躍しておりますが、今日が命日だったんですね。武田信玄は地理的・年齢的に信長より不利だったというのはよく聞きますが、確かに信長に比べると新しいものは取り入れていない気はします。

投稿: スペードのA | 2007年4月12日 (木) 15時06分

>スペードのA様
こちらこそ、よろしくお願いします。

信玄は信長に比べて用心深過ぎたのかも知れませんね・・・かと言って信玄に信長のようになってほしくはありませんが・・・

投稿: 茶々 | 2007年4月12日 (木) 16時35分

おはようございます。

投稿: 乱読おばさん | 2007年4月13日 (金) 09時32分

>乱読おばさん様

おはようございます。
トラバありがとうございます~

投稿: 茶々 | 2007年4月13日 (金) 16時13分

この時期の上洛は、身体に悪いですよね~。ましてや病気を患っている身には。
関ヶ原あたりは、大雪になりますしね。

投稿: おいらん | 2012年12月24日 (月) 22時06分

おいらんさん、こんばんは~

そうですね~
しかし、気候の良い時期は農繁期と重なる事もあるので、未だ兵農分離されていない軍では、農民兵が激減したりして、これまた上洛し難い事にもなりますからね~
なかなか難しいです。。

投稿: 茶々 | 2012年12月25日 (火) 02時01分

茶々様こんにちは

男色の世界はよく分かりませんけど、上杉景勝と直江兼継も若い頃は肉体関係の上に信頼を築いていったとききました。

信玄の相手もやはり若い美男だったんでしょうか?

因みに、謙信が実は女だったのではないか、という説があるそうですね。

投稿: ダルタピョン | 2013年4月12日 (金) 12時22分

ダルタピョンさん、こんにちは~

>信玄の相手もやはり若い美男だったんでしょうか?

美男だったようですよ。。。
この頃の男色はステータスですからね。

「上杉謙信・女説」は、6年前の記事になりますが7月21日のページ>>に書かせていただいています

投稿: 茶々 | 2013年4月12日 (金) 14時33分

武田信玄(出家前は、晴信)の死因については、結核か内臓に関係した病気ではないかと言われているようですが、今月の24日に放送された、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」において、松平健さんが演じた信玄が、浅丘ルリ子さんが演じた寿桂尼の亡霊の登場によって、呪い殺された果てに、吐血して急死するという展開になってました。私としては、信玄は、温泉に入るなどして、できる限りの健康維持をしていたのでしょうが、信玄が、志半ばで病気で倒れたことを考えると、人間なら誰もが避けては通れないことであることを、実感せずにはいられないと思いました。

投稿: トト | 2017年9月26日 (火) 20時52分

トトさん、こんばんは~

何歳であろうと、何年生きようと、人は皆、志半ばで死んでいくのだと思います。
誰だって、今日死ぬとは思わずに朝目覚めますから…
避けては通れない人の道ですものね。

今日を大切に、楽しく、毎日を生きていきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2017年9月27日 (水) 03時13分

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