« 奈良に始まる福祉の歴史~光明皇后の悲田院と施薬院の設立 | トップページ | 孫子の兵法3「謀攻篇」 »

2007年4月18日 (水)

葛飾北斎のご命日なので

 

嘉永二年(1849年)4月18日は、あの葛飾北斎さんのご命日。

・・・・・・・・・・

葛飾北斎と言えばあの「富嶽三十六景」を思い出しますが、富嶽三十六景は天保二年(1831年)から天保四年にかけて製作された作品で、この時、北斎はすでに70代の前半・・・けっこう歳をとってからの作品なんですね~。

熟した年齢だからこそ、「不滅の傑作が生まれた」とも言えますし、この頃に数多くの傑作を生み出している事から、ひょっとしたら、この70代が一番充実していた頃かも知れません。

北斎は、宝暦十年(1760年)9月23日に江戸に生まれます。

母親は、あの「四十七士討ち入り」(12月14日参照>>)の時、吉良上野介を護って戦った小林平八郎の孫娘だそうですが、父親は誰かはっきりしません。

幼名を時太郎と言い、後に鉄蔵と名乗りますが、父親が不明な事でもわかるように、その少年期は謎に包まれています。

彼の足跡がはっきりし出すのは、安永七年(1778年)、19歳で浮世絵師・勝川春章入門して、本格的に画家の道を歩み始めてから・・・。

入門の翌年には早くもその才能が認められ、師匠の一字をもらって「春朗」という号で画家デビューを果たします。

主に役者絵などを手掛けながら、勝川一門を背負う画家に成長しますが、寛政四年(1792年)師匠の春章がこの世を去ったのをきっかけに、勝川一門から離脱します。

北斎が35歳の時でした。

一門を出てからは、他の流派に入門したり、職人に接触したりと紆余曲折を繰り返す中、可侯(かこう)不染居(ふせんきょ)画狂人雷震(まんじ)・・・などなど、ものズゴイ数の改名をくりかえします。

これは、お金に困った北斎が、わずかな収入を得るためにその名前を売っていた・・・という事もありますが、名前の数たけ作風もあり、その止まらない才能の変化と見る事もできます。

寛政十年(1798年)、40代に入ってやっとこさ北斎という名前に落ち着いた頃、彼の人生の中の一つの絶頂期がやってきます。

北斎は、この頃を中心に数々のイベントを興行しています。

江戸音羽護国寺では120畳の大きさの紙に大きな達磨(だるま)の絵を書きました。

「あまりに大き過ぎて、見ている人からは何が書いてあるのかわからず、本堂に登った人だけが達磨だと確認できた」と言います。

その後も馬や布袋の大画を描いたかと思えば、一粒のお米に2羽のスズメを書いたりして、人々を驚かせます。

名古屋西掛院達磨の絵を描いた時は、護国寺の反省を踏まえて、紙を滑車で吊り下げ、見物人全員に絵が見えるようにして大評判となりました。

長くつないだ紙に青い線をひき、足の裏に朱肉をつけた鶏を走らせ、青い線を川に鶏の足跡を紅葉に見立てて「立田川の風景なり」と、将軍・徳川家斉の前でやって見せた有名なエピソードもこの頃です。

やがて、北斎は弟子たちとともに、おびただしい数の作品を手掛け、葛飾派という流派を確立し、最も充実した70代をむかえますが、この頃になってもまだ、その画風は変貌し続けます。

80歳で描いた「西瓜図」や、90歳で描いた「雪中虎図」などには、どこか現代アートにも通じる不思議空間が漂っています。

そんな、葛飾北斎・・・「雪中虎図」を描いた3ヶ月後の嘉永二年(1849年)4月18日、90歳の大往生でした・・・と書きたいところですが、ご本人はまだまだ「志半ば」だったようです。

臨終の際、大きく息をして、「あと10年生きさせてくれれば、真の画工になれたのに・・・」と言って息をひきとったと言います。

いくつになっても、さらに新しい物を求め、変貌していくその画風こそが、天才の天才たるゆえん・・・と言ったところでしょうか。

Fugakukaiseicc
今日のイラストは、
《富嶽三十六景・凱風快晴》・・・やっぱり、北斎と言ったらコレでしょう。

んん?何ですと《神奈川沖浪裏》を書け!」と・・・
そんな、ごむたいな・・・

追記:北斎が、その絵に込めた謎・・・2011年4月18日【北斎からの挑戦状?北斗信仰と八つ橋の古図】もどうぞ>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 奈良に始まる福祉の歴史~光明皇后の悲田院と施薬院の設立 | トップページ | 孫子の兵法3「謀攻篇」 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

うっわ~!神奈川沖浪裏!
描いて! 描いて!!
昔、あの船に、北斎と広重と歌麿を乗せて、北斎がへさきに立って絶叫し、他の二人はへろへろ・・・なところをかいたことがあります。ぜんぜん迫力のないコママンガでしたけど・・・合作してみません?
な~んて、聞き流しておいてね。
 ところで、上村和夫の作品では「同棲時代」が有名ですが、私は「狂人関係」に入れ込んでいました。あれの北斎が強烈で、私のイメージ決まりです。

投稿: 乱読おばさん | 2007年4月18日 (水) 09時47分

そういえば今上野でダビンチ展やってるなー、天才ということでふと頭に浮かびました、クリックしました

投稿: 小池 | 2007年4月18日 (水) 12時50分

>乱読おばさん様・・・
そんな、ごむたいな・・・(笑)
あの波、あの水しぶき、なかなかすぐに書けるモンじゃござんせんがな。

>北斎と広重と歌麿を乗せて、北斎がへさきに立って絶叫し・・・

そんな、おもしろい絵を・・・見てみたい!

投稿: 茶々 | 2007年4月18日 (水) 16時07分

>小池さま・・・ありがとうございます~。
「ダビンチ展・・・」
あ・・・それ、NHKの受信料払ったら、パンフレットに割引券ついてました~
「東京やがな」と思いながらも、捨てずにいますが・・・大阪か京都にも来ますかね。

投稿: 茶々 | 2007年4月18日 (水) 16時11分

このイラスト!
葛飾北斎もびっくりと思います。
いいですねぇ~

投稿: | 2007年4月19日 (木) 00時57分

>mさま・・・ありがとうございます。

絵を練習する時に名画を模写するのは大変勉強になると聞きます。
わたしも、PCでのお絵かきはまだ、始めたばかりですが、なるほど・・・勉強になりました・・・

また何か名画に挑戦してみたいと思います。

投稿: 茶々 | 2007年4月19日 (木) 07時13分

明日が命日ですね。最近公開された映画で若い頃を柳楽くんが演じていましたね。
ところで、江戸時代の浮世絵は「今人気の歌舞伎役者の姿」を描いていますが、高貴な人物の姿を描いたいわゆる「肖像画」では、「絵師が書いたその時代」ではない古い時代の人物の姿が絵になります。
例えば江戸時代の絵師が室町時代の前半の頃の人を描くなど。「たとえ当人から頼まれても今生きている高貴な人物の姿を描く」のは昔はタブーなんでしょうか?

投稿: えびすこ | 2022年4月17日 (日) 10時03分

えびすこさん、こんばんは~

>「たとえ当人から頼まれても今生きている高貴な人物の姿を描く」のは昔はタブーなんでしょうか?

これは…
本人を目の前にして描いた肖像画ということですか?
だとしたら、そんなタブーはないと思いますよ。
古くは檀林皇后>>のように「自身の死後の姿を残して欲しい」というご本人の希望により骨になるまで描かれてますし、

水無瀬神宮に残る後鳥羽上皇>>の御影も、ご本人が絵の上手い知り合いに頼んで、目の前で描いてもらってますし、

戦国武将や江戸時代の藩主なんて、気に入らないから絵師に描きなおさせたエピソードもありますしね。

ただ、目の前で本人を見て描いてもらったエピソードと絵の原本が揃って残ってないと、そういうお話にならないので、時代が古くなると数が少ないのは確かだと思いますが…

投稿: 茶々 | 2022年4月18日 (月) 03時03分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 葛飾北斎のご命日なので:

« 奈良に始まる福祉の歴史~光明皇后の悲田院と施薬院の設立 | トップページ | 孫子の兵法3「謀攻篇」 »