文禄の役・釜山上陸
文禄元年(1592年)4月13日、第一次朝鮮出兵=文禄の役で、豊臣秀吉が派遣した第一軍が朝鮮半島・釜山に上陸しました。
・・・・・・・・・
この文禄元年に一度、そして慶長二年(1597年)にもう一度。
二度に渡って行われる豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・
以前も書かせていただいたように(3月26日参照>>)、この朝鮮出兵に関しては、様々な理由が考えられるわけですが、どれを取っても納得がいきませんね。
その本当の理由は謎に包まれたままではありますが、とにもかくにも秀吉が大陸への出兵に関して、具体的に行動を起こしはじめたのは、天正十五年(1587年)の頃とされます。
明(中国)への出兵の際に協力してもらえるよう、朝鮮の李氏と交渉を始めるのです。
その命を受けたのが、小西行長と宗義智(そうよしとも)。
宗義智は、当時、朝鮮半島と盛んに交易を行っていた対馬の厳原(いずはら)城主で、小西行長の娘婿でした。
とは言え、領内の経済を朝鮮半島との交易に依存している義智は、やはり秀吉の意向をそのまま伝える事をためらっていたようです。
やがて、小田原を落とし、奥州征伐を終えて、天下統一の大事業を成し遂げた秀吉・・・その頃、やっと義智は、「朝鮮から使節団を送る」という約束を取り付けます。
しかし、この使節団は、「秀吉の意向を承諾する」という意味の使節団ではなく、単なる「天下統一の祝賀」の使節団だったのです。
結局、秀吉は大陸への出兵を決断し、自らが前線本部の肥前名護屋(佐賀県)へ行き、朝鮮出兵を開始するのです。
第一軍=宗義智・小西行長
第二軍=加藤清正・鍋島直茂
第三軍=黒田長政・大友義統
第四軍=島津義弘・豊久
第五軍=福島正則・長宗我部元親
第六軍=小早川隆景・立花宗茂
第七軍=毛利輝元
第八軍=宇喜多秀家
第九軍=羽柴秀勝・細川忠興
以上9軍からなる秀吉軍は、合計15万8千という大軍でした。
文禄元年(1592年)3月4日に渡海を開始した第一軍は、4月13日に釜山に上陸・・・即座に釜山(プサン)城を攻略し、北方にある東莱(とんね)城をも落し、そのまま北進・・・
続いて、第二軍、第三軍と次々上陸した秀吉軍は、それぞれ、向かうところ敵なしの状態で北上を続けます。
5月には首都・漢城(ハンソン・京城)を落とした後、加藤清正率いる第二軍はさらに北上を続け、現在のロシアのあたりまで、兵を進めます。
しかし、この頃から、李舜臣(りしゅんしん=イ・スンシン)率いる朝鮮水軍が『亀甲船(コブッソン)』と呼ばれる前後がよくわからない軍船で藤堂高虎の水軍がを襲撃しはじめたのと同時に、陸上でも一揆衆がゲリラ戦を展開・・・
やがて長期になればなるほど、遠征している側は兵糧の手配もままならない状態になり、落とした漢城を守るので精一杯・・・軍内部の武将からも講和が叫ばれるようになり、結局、秀吉は休戦命令を出す事になります。
それでも強気の秀吉・・・講和の条件として、「明国皇女・李氏王子・大臣を人質に差し出せとか、朝鮮南部を譲れ」などの無理難題の7か条を突きつけますが、そんなもん相手方が受け入れるはずもありません。
その外交交渉に奔走した小西行長とその軍師・内藤(小西)如庵ではありましたが、結局、最終的に交渉は決裂し、やがて慶長の2度目の出兵となるわけですが・・・
とりあえず、続きのお話は2012年4月18日の【文禄の役~休戦協定と加藤清正】でどうぞ>>
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コメント
個人的に仕事がたまっており、書き込み久しぶり。さて、今回のテーマ。『敵を知り、己を知らば~』の言葉を思い浮かべますね。秀吉は情報集め、得意だったはずなのに。。。しかも、派遣されていたメンバーは当時のエース級ばかりですし。撤退命令が出た際、加藤清正は周りを敵にかこまれ大ピンチ。他の大名が我先にと日本行きの船に逃げ込む中、立花宗茂が僅かな兵を引き連れて、救出へ。大群にかこまれ絶望的な状況の加藤清正を救い出したとのこと。その後、諸事情により冷や飯を食わされるようになった立花宗茂を、なにかれとなく世話をしたのが加藤清正だったそうな。いい話ですね。(以前読んだ文庫『立花宗茂』より)
投稿: さときち | 2007年4月13日 (金) 08時31分
こんちわ~♪
信玄様にトラバ有難うございます。命日ってことは考えたのですが、新暦に直してやったりしているサイトもあるので、ちょっと迷って記述しませんでしたので、有難うございました。(って、ここで書くなって?)。
韓国には亀甲船の復元が展示されているらしいですね。
投稿: 乱読おばさん | 2007年4月13日 (金) 09時30分
>さときち様
お久しぶりです。
>大群にかこまれ絶望的な状況の加藤清正を救い出した
へぇ~、そんなエピソードがあったんですね~。
いい話です・・・
清正=虎退治しか思い出せませんでした・・・
投稿: 茶々 | 2007年4月13日 (金) 16時33分
>乱読おばさん様
こちらこそ、ありがとうございます~
投稿: 茶々 | 2007年4月13日 (金) 16時38分
亀甲船って本当に無敵だったのか?
まず、亀甲船の記録で詳しいのは李忠武公全書と李舜臣行録ですが、一番詳しいのは李舜臣行録で、絵までかかれています
しかし、制作に使用した図面などは一切見つかっていないので、現在「復元」というよりも外見を似せたレプリカです
そもそも亀甲船のおかしな部分
1.平底の船である(レプリカには竜骨のもありますが李舜臣行録では平底にかかれており竜骨船はありえない)
平底の船は、船底が海面下にあまり沈まないため海上では安定性・機動性がわるく波で転覆しやすい
2.さらに鉄甲である(というかこれは嘘ですね李舜臣行録も李忠武公全書にも、屋根に乗り移りを防ぐ刃?杭?はを取り付けたとは記載されているが装甲船だという記録はない)
平底の船で装甲船だったら、信長の装甲船のように浮いてるだけでやっとである
3.大砲の装備
竜骨のあるふねなら竜骨部に向かって船底が細く刃のようになってますから、スケートのように水面にエッジがかかり大砲の衝撃を吸収しますが…
平底の船の場合、スケートリンクのうえに板をしいているような状態といえますから
大砲反動で船体が海面を滑り、命中精度は期待できません
大砲のサイズによっては転覆するな
また、敵の侵入攻撃を防ぐために船内を密閉化してますが、そもそも当時の火薬は黒色火薬ですので現在の感覚ではかってはいけません
半端じゃない煙がでる、あれだけ密閉した空間で大砲をうちまくったら煙りに巻かれて大変ですよ
へたすりゃ窒息します
先取につけられた頭部の口から煙を吐いて威嚇って…
船内が凄まじいことになってそうです(笑
現実的に考えられるのは亀甲船は、五隻程度しか建造(改造?、当時の板屋船を改造した線も否定できない)されていない
亀甲船はデコイとして特攻して攪乱したところで板屋船の水軍で襲いかかるゲリラ戦であったとおもわれます
日本側も平底の和船(竜骨船も建造されてますが、朱印船など貿易船にかぎられていた)
両軍とも海上戦は稚拙だったのは否定できませんね
竜骨のある西洋の軍船のようなのに攻められた亀甲船はイチコロです(ジェット戦闘機とプロペラ機の戦闘くらいの性能差)
投稿: | 2007年5月13日 (日) 21時24分
くわしい情報をありがとうございます~。
投稿: 茶々 | 2007年5月14日 (月) 00時50分
亀甲船が、どれほど活躍したかは知らんけど、朝鮮水軍が日本水軍を圧倒したのは、日本の学者にも認められてることですね。
ルイス・フロイスも朝鮮の船に日本の船が敵わないことに言及しております
投稿: | 2010年2月14日 (日) 15時34分
>朝鮮水軍が日本水軍を圧倒したのは・・・
そうなんですか?
ここまで、かなりのスピードで北進していた秀吉軍が、少し勢いがなくなる事を考えると、水軍の登場が何か関係しているのかも…ですね。
投稿: 茶々 | 2010年2月14日 (日) 18時37分
この文禄・慶長の役についての仔細を、大河ドラマで触れたのは、21世紀になってから初めてじゃないでしょうか?
でも今年の大河ドラマは、やはり時間の進行が遅いようですね。予定では秀忠が将軍になるのが10月になり、江さんの「将軍御台所」としての時期が短くなりそうです。
幕府発足後の展開は簡潔になるかな?
今週の「世紀のワイドショー」で浅井長政の末裔について触れましたが、江さんの2人目の夫・豊臣秀勝(3代目秀勝)との間の娘の末裔が後世まで健在で、現在の天皇陛下の祖母になる貞明皇后(実家は五摂家の九条家)が、江さんの血筋である事までは言っていませんでした。
細川元総理も末裔(前田家に嫁いだ珠姫の血筋)になるんですね。これにはびっくり。w(゚o゚)w
投稿: えびすこ | 2011年7月15日 (金) 09時33分
えびすこさん、こんにちは~
10月に御台所なら、その後は数回しかないんですね。
そこからが、江さんが主役になれそうな気がしてたので、少々残念ですね。
投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 11時43分
僕の中で李舜臣は、おじいさんだというイメージなのですが、この後李舜臣は日本軍に勝ったのに腐敗している官僚たちに牢獄に入れたと聞きます、ひどい話ですよね。勝たなかったらどうなる、と思ってんだ、という話です。最後の戦いは戦死するつもりで出陣して戦死した、と聞きます。どこの歴史もドマラチックです。でも日本史が好き!です。
投稿: MINORU | 2013年4月13日 (土) 02時43分
MINORUさん、こんばんは~
世界史にはウトイですが、命を賭けて歴史を作っていた人々の姿は、どこの国でもドラマチックでは無いか?と思っています。
投稿: 茶々 | 2013年4月13日 (土) 03時40分
私の愛読書の一つ、中公新書『物語韓国史』によりますと、秀吉が死んで撤退しようとする豊臣軍を攻撃中、李舜臣は胸に銃弾を受け、『戦中なので私の死は内密に』みたいな感じで言い残し死んだようです。
当時の韓国官界は派閥争いが激しく、高潔な性格が禍して、奸計に陥れられていたようですね。
しかし秀吉出兵の謎、面白いですね~!
私は、信長の野望の継承路線、利休の死と絡めて想像が膨らみますね~!
投稿: 利休鼠酔女 | 2013年4月13日 (土) 20時17分
利休鼠酔女さん、こんばんは~
そうなんですか?
ドラマチックですね~
投稿: 茶々 | 2013年4月13日 (土) 21時37分