手筒山・金ヶ崎城の攻防戦
元亀元年(1570年)4月26日、足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長が、越前の朝倉氏を攻撃した手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦がありました。
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「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」・・・少し聞きなれない合戦ですが、これは、織田信長が、自身の妹・お市の方の最初の結婚相手・浅井長政と戦う事になる有名な姉川の合戦(6月28日参照>>)へと結びつく、越前・朝倉氏攻めの戦いです。
この二年前、室町幕府最後の将軍となる足利義昭を奉じての上洛を果たした信長・・・(9月7日参照>>)
そんな、信長にとっては、将軍・義昭はあくまで飾り物・・・そんな義昭をダシに、各地の戦国大名に上洛を勧めていたのです。
つまり・・・「将軍に挨拶に来い」=「自分にも挨拶に来い」という事。
しかし、それを拒み続けていたのが、越前の朝倉義景だったのです。
しかも、その頃から、ともに上洛した義昭に対して、信長は「天下の事は俺にまかせて口出しせんといてな」などと、義昭に注文をつけはじめましたから、義昭も黙ってはいられず、各地の大名に相談しはじめます。(1月23日参照>>)
・・・で、そんな、上洛を拒んでいる事と、義昭と何やら相談している事を察知した信長が、「やられる前にやってやる!」とばかりに朝倉を攻めたのが、今回の「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」です。
この戦いには、徳川家康をはじめとする東海の武将や、近畿の武将も動員され、その軍勢の数は10万以上だったと言います。
信長は完全に、この戦いで朝倉を潰すつもりでいたのでしょうね。
これに対して、朝倉義景は本拠地・一乗谷から援軍部隊を手筒山城と金ヶ崎城に派遣しますが、それでも朝倉軍の総数はわずか1万。
元亀元年(1570年)4月26日・・・織田軍の攻撃に対して、数のわりには頑張った朝倉軍でしたが、所詮、多勢に無勢・・・勝ち目はありません。
結局、籠城をあきらめて、城主・朝倉景恒は城を開け渡します。
このまま、朝倉を潰す気満々の信長は、明智光秀と木下(豊臣)秀吉に、二つに城を預けて、義景のいる一乗谷を目指します。
ところが、そんな信長のもとへ急なお知らせが・・・。
そうです。
妹・お市の方の夫・浅井長政が朝倉に味方したのです。
もちろん信長は、浅井と朝倉が長年の同盟関係を結んでいる事は知っていました。
いえ・・・だからこそ、かわいい妹を嫁がせて、自分の味方につけたつもりでいたのです。
しかし、信長が思っていた以上に、その同盟関係は強固な物でした。
浅井は北近江(滋賀県)、朝倉は越前(福井)・・・地理的に完全に挟み撃ちです。
信長は一乗谷を一旦あきらめ、撤退を決意・・・世に言う「金ヶ崎の退き口」です(4月27日参照>>)。
この時の撤退で、秀吉が殿軍(しんがり:最後尾の軍)を勤め奮戦した話は有名ですね。
撤退する軍の殿軍というのは、かなり危険な任務・・・これで、秀吉は随分と株を上げました。
ところで、「大事な妹を嫁にやったのに、裏切りやがって!」と、浅井の態度に激怒した信長・・・このあと、長政の本拠地・小谷城へと攻撃。
あの壮絶な姉川の合戦(6月28日参照>>)へと突入していくわけです。
もちろん、この日、命拾いした朝倉も、浅井とともに姉川の合戦へと進んで行く事になります。
今日のイラストは、
朝倉氏の家紋・『木瓜(もっこう)紋』を、着物柄風な感じにしてみました~。
木瓜とは、もともと木ではなく地に造られた「鳥の巣」を表しているのだそうです。
外側の囲みのような物が鳥の巣。
内側の花のような物が卵を表現しているらしい・・・そう言われてみれば、そのように見えますね。
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コメント
昔、お市の方の悲しい最後とその3人の娘の生き様を書いた小説を読んだ記憶があります。大家の小説だったと思いますが誰のなんと言う小説か忘れました。
投稿: 小池 | 2007年4月26日 (木) 23時58分
戦国時代の女性というのは、男性のように死なないでも良いものの、別の意味での苦悩が多かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2007年4月27日 (金) 09時32分
さすがに10万と1万では信長も撤退しないと思いますが
浅井は朝倉よりも兵は少ないと思いますし
投稿: | 2020年11月 9日 (月) 01時27分
一般的には、織田・徳川連合軍が3万で、畿内や各地の諸将を含めて10余万と言われてますね。
軍記物の場合は数を盛ってるてのもありますが、実際のところ10万の中には、たとえば松永久秀みたいに参戦してるけど後詰として朽木谷に陣を置く…的な武将も多数いたんじゃないでしょうか?
全員が金ヶ崎周辺まで行ってたわけではないと思いますよ。
投稿: 茶々 | 2020年11月 9日 (月) 05時04分