義長の自刃で大内氏が滅亡
弘治三年(1557年)4月3日、長門・長福寺で大内義長が自刃し、戦国の雄・大内氏が滅亡しました。
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平家滅亡(3月24日参照>>)・・・
奥州藤原氏滅亡(9月3日参照>>)・・・
そして三木城の別所長治(3月29日参照>>)・・・
と、このブログで「滅亡」という単語を書くたびに、盛者必衰・諸行無常・・・と、物悲しい気持ちになるものですが、今日の大内氏の滅亡・・・
の大内氏の最後の人となった大内義長さんほど、涙を誘われる人はいませんね。
それは、たぶん彼が年若き少年であったという事と、彼の意志とは無関係に、時代に翻弄され、天下を狙う大人たちに押しつぶされた犠牲者のように思えるからかも知れません。
大内氏は、鎌倉から室町にかけて力をつけ、あの応仁の乱の頃には中央にも影響力を持ち、管領代にまでのし上がった戦国大名です。
ただし、大内義長は大友義鑑の息子で九州の生まれ・・・あの北九州一帯に君臨した大友宗麟の弟なのです。
そんな彼が、大内義隆の養子となって後に大内義長(いっぱい改名していてややこしいので、今日は義長で通させていただきます)と名乗るわけですが、義長が養子になる以前に、義隆には晴持という養子がいました。
しかし、天文十一年(1542年)に義隆が尼子氏の富田城を攻めた時の帰り道、不運にも晴持は溺死してしまいます。
そして、「後継ぎがいなくなった」という事で、義長が義隆の養子となるわけですが、どうやら義隆は、死んだ晴持を随分と可愛がっていたらしく、義長さんのほうはあまり可愛がられてはいなかった?ようです。
そんな中、義長が養子になって2~3年で、なんと、義隆に実子・義尊が誕生してしまいます。
ホンモノの後継者が生まれた事によって、義長は養子を解消され、大友家へ戻される事となります。
こうして、大友家に戻った彼に心地よい居場所があったのかどうか・・・すでに、ここでお気の毒度が満載ですが、彼の苦難はまだまだ序の口です。
やがて、大内家で義隆が家臣たちと衝突を繰り返す中、重臣の一人である陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)がクーデターを起こし、主君・義隆を自刃に追い込み、新しい当主として義長を呼び寄せたのです(8月27日参照>>)。
再び大内家に戻る義長・・・しかし、その当主の座は完全に飾り物でした。
実権はクーデターを決行した家臣たちの物で、彼には単なる操り人形としての役割しかなかったのです。
そして、すぐそばには、この混乱を絶好のチャンスと見て取った大物がいました。
そう、あの毛利元就です。
水面下で様々な策略を張り巡らせた元就は、弘治元年(1555年)厳島の戦い(10月1日参照>>)で晴賢を破り、晴賢は討ち死にしてしまいます。
晴賢という大黒柱を失った大内家・・・義長がいくら統率を取ろうとしても、もともと彼を飾り物としてしか見ていない大内の家臣たちは、家臣同士で争う事となります。
何度も中に入って争いごとをやめさせようと奮闘する義長でしたが、その甲斐もなく・・・で、そんな中では元就とも、まともに戦えるわけもありませんが、各地で敗戦を経験しながらも、勝山城にて何とか耐えていました。
そんな時、元就から勝山城・開城の要請が届きます。
それは、「内藤隆世は、陶晴賢と組んでクーデターを起こした罪人なので死んでもらうが、義長は大友家からやってきた飾り物主君なのだから、隆世が自害し、勝山城を開城すれば、義長は助けよう」という物でした。
様々な意見が渦巻く中、結局、隆世は自害し、城を明け渡し、義長は長門(山口県)・長福寺に移るのです。
しかし、翌日、長福寺は毛利軍に取り囲まれます。
その要求は義長の自害・・・。
元就の計略にまんまとハメられてしまった義長・・・弘治三年(1557年)4月3日、長福寺にて自刃し果てました。
権勢を誇った大内氏はここに滅亡するのです。
♪誘ふとて 何か恨みん 時きては
嵐のほかに 花もこそ散れ♪
「こうして死ぬ事になっても、恨む事なんて何もないよ・・・たとえ嵐が来なくても、時が来れば、いずれ花は散ってしまうものなんだから・・・」
死を目前にした20歳に満たない少年に、このような時世の歌を詠ませてしまうとは、戦国とは、何とせつない時代なんでしょう。
今日のイラストは、
やはり時世の歌からイメージして『桜散る』の雰囲気で書いてみました~
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