倶利伽羅峠の前哨戦!越前・加賀の合戦
寿永二年(1183年)5月3日、北陸一帯で繰り広げられていた、倶利伽羅峠の合戦の前哨戦とも言うべき越前・加賀の合戦で、平家軍が加賀を制圧しました。
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その3年前・・・治承四年(1180年)は、まさに激動の年でした。
それまで「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家に対して、4月には以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が平家追討の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)を発し(4月9日参照>>)、その後、失敗はしたものの源頼政とともに挙兵しました(5月26日参照>>)。
そして、8月に源頼朝と(8月17日参照>>)、9月に木曽義仲が(9月7日参照>>)相次いで打倒平家の旗揚げをします。
頼朝は、石橋山(8月23日参照>>)を経て富士川(10月20日参照>>)へと太平洋側から徐々に西へと迫りはじめます。
その翌年に、大黒柱の平清盛を亡くした(2月4日参照>>)平家は、徐々にその権勢に陰りが見え始めてきますが、一方で、横田河原(6月14日参照>>)を経て北陸・日本海側から西へと進軍しかけていた義仲と、かの頼朝との間に源氏の長をめぐっての不穏な空気が流れはじめました。
しかし、この寿永二年(1183年)が明けてまもなく、頼朝の長女・大姫と義仲の長男・義高の結婚(7月14日参照>>)によって、源氏同士の争いを回避した両者には、いよいよ打倒平家の気運が高まってきます。
特に、結婚とは名ばかりで、人質同然に息子を鎌倉側に渡した義仲にとっては、頼朝より先に平家を討ち、上洛する事こそ源氏の棟梁へと結びつく道でした。
そのため都では、「義仲が東山・北陸道を押さえ五万の兵を率いて今にも攻めて来る」との噂が囁かれるようになります。
・・・で、平家は、各地に救援を要請した後、寿永二年(1183年)4月17日朝8時、清盛の孫・平維盛を総大将に10万の大軍が北陸道をめざして京の都を出発します。
ここに来て、頼朝や義仲がいる東国や北陸から馳せ参じる者は、ほとんどいなかったものの、九州・四国や山陽・山陰・近畿といった各地には、まだまだ平家の呼びかけに答えてくれる者が沢山いたおかげでこれだけの大軍を編成できたのです。
しかし、近畿地方は前年からはげしい飢饉でもあり、そんな大軍の兵糧を準備する事ができず、軍は近隣の村々から略奪を繰り返しながら、琵琶湖の西側と東側に分かれて北に進むという、周辺の人々にとっては大迷惑な挙兵となったのです。
そうやって進んだ平家軍でしたが、26日にはいよいよ越前(福井)に到達します。
越前はすでに木曽義仲の支配下にあり、今庄には燧城(ひうちがじょう)が義仲陣営の最前線として建てられていましたが、この時は義仲自身は越後(新潟)にいました。
留守をあずかるのは、信濃の仁科守弘、加賀の林光明・倉光成澄・疋田俊平・富樫仏誓そして、越前平泉寺の長吏(ちょうり)斎明ら、合わせて5千騎余り。
平家の10万に対してはあまりにもわずかな数・・・そこで、彼らも考えます。
燧城は、四方を山に囲まれ城郭の前には能美川・新道川が流れる天然の要害・・・もともと、難攻不落と言われたこの山城に、鉄壁のバリケードを仕掛けます。
城壁に沿って走る二本の川の合流地点に、柵を立て水をせき止めて、人工の湖を造ったのです。
作戦はみごと成功!さすがの平家の大軍も容易に進撃する事ができません。
湖を前に、なす術のない10万の大軍・・・ところが、この10万という大軍を目の当たりにして、その数の多さにビビッた男が一人・・・。
それは、越前平泉寺の長吏斎明・・・斎明は、「これだけ歴然とした数の差では勝ち目がない」と考え、人工の湖を落として突破口を作る方法を記した密書を矢に結びつけて、平家の陣に射送ったのです。
やがて、両軍は睨みあったまま夜を迎えます。
平家はその夜のうちに、わずかの人数で密かに仕掛けの場所へ行き、柵を切り崩し湖の水を落としたかと思うと、そのまま朝を待つ事なく大軍で燧城に攻めかかります。
大軍に湖を越えられてしまえば、さすがにこの少人数では太刀打ちできません。
義仲軍は退却を余儀なくされ、今度は同じ越前の河上城で籠城作戦をとりますが、やはりここでも圧倒的な数に押され、やむなく加賀に後退しました。
越前は落とされたものの、何とか加賀は死守しようと、林光明を中心に加賀・三条野に陣を立て、押し寄せる平家軍を迎え撃ちます。
しかし、平家軍には、ちゃっかりと寝返ったあの斎明が先頭に立ち、案内役を買って出ています。
数は多いわ、元・身内に手の内バラされるわでは、到底勝ち目はありません。
5月2日には、篠原・安宅に設けていた防御線も破られ、ついに、林光明・富樫仏誓の居城も落とされてしまいます。
こうして、加賀の地に平家の赤旗がひるがえったのは、寿永二年(1183年)5月3日の事でした。
大軍に押され、終始、逃げ惑うしかなかった義仲軍でしたが、その時、直江津にいた当の義仲がこの話を聞いて黙っているわけがありません。
すぐに、木曽・四天王のひとり、今井兼平に6千の兵をつけて先発隊として出陣させ、もちろん自分自身も出陣の準備をします。
平家が勝利の美酒に酔いしれていた頃、兼平は親不知の海岸をひた走り、神通川を越え、やがて、先の合戦で富山まで撤退していた最前線の義仲軍と合流するのです。
いよいよ義仲軍の巻き返しの始まりですが、さぁ、どうする?兼平くん・・・
義仲の本隊が到着するまで、何としてでも富山を死守しなければ・・・と、この続きは、次の合戦のあった日、5月9日義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦でどうぞ>>
今日のイラストは、
平家の赤旗と家紋にちなんで『赤い蝶』を散りばめてみました~
アゲハ系じゃない蝶もいますが、絵的にキレイかと思いまして・・・
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コメント
これもりが主役で、書いて欲しかったけど、いいブログでした。
投稿: ゆうと | 2012年3月30日 (金) 18時43分
ゆうとさん、こんばんは~
倶利伽羅峠の場合は、逸話が逸話なだけにどうしても…なかなか難しいですc(>ω<)ゞ
投稿: 茶々 | 2012年3月31日 (土) 00時36分