大坂夏の陣・開戦!
元和元年(慶長二十年・1615年)5月6日、大坂夏の陣が開戦されました。
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慶長十九年(1614年)12月、豊臣方と徳川方の講和が成立し、大坂冬の陣が和睦(12月19日参照>>)という形で一応の終結を見ました。
しかし、その後、徳川家康は約束に反して大坂城の外堀までを埋めたててしまい、豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城は、文字通りの裸城になってしまいました。
年があらたまって慶長二十年。
家康は豊臣秀頼に、「冬の陣から大坂城内に居る浪人者をすべて排除する」か、「秀頼が大坂城を出て一大名として他国へ国替えする」かの二者択一・究極の選択を迫って来ます。
そんなもん、どっちも選べるわけがありません。
ほとんどの大名が徳川方についた今となっては、お金で雇った浪人者は豊臣方の主力部隊ですから。
一方の国替えも、天下取りの後継者であった自分が、家康の言いなりになるなど・・・。
・・・て、ゆーか。
家康は、はなからどっちもOKできない事をわかっていて無理難題をふっかけているわけです。
なんせ家康の目的は、「豊臣ぶっ潰し」ですから、変にOKされて命永らえてもらってはかえって不都合・・・案の定、家康の思惑通り、「豊臣方で新たに浪人者を募集している」「徳川が埋め立てた堀を再び掘り起こしている」などの情報が、家康のもとへ舞い込んできます。
慶長二十年は途中で元和元年と改められ、家康は九男・義直の結婚式を口実に4月4日に駿府を出発(この日を“大坂夏の陣開戦”とする場合もあります)して名古屋に向かい、そのまま戻らずに京都・二条城に入ります。
そして26日には、秀忠と大坂攻めの軍儀を行い、出陣の日を5月3日に決定します。(3日が雨だったため後に5日に延期されます)
一方の豊臣方でも4月13日、徳川を迎え撃つための軍儀が開かれています。
この時も真田幸村は、冬の陣の時と同様、出撃の案を提出します。
幸村の意見は、
「以前は難攻不落であったが、今の城の状況では籠城は無理。
しかも相手はこちらの何倍もある20万の大軍。
一刻も早く秀頼に上洛してもらい、伏見城をおさえ、宇治・瀬田に全軍を集結させ、京都の徳川を迎え撃つ・・・そうすれば、味方になって参戦してくる者も出て運が開けるだろう」
という物でした。
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)や後藤基次(ごとうもとつぐ)らもこの意見に賛成しましたが、やはり冬の陣と同様に、重臣たちに反対され、結局、またまた基本・籠城作戦をとる事になります。
やがて5月5日、家康・秀忠は出陣するのですが、実はその前の4月29日、和泉南部の樫井(かしい)という場所で、紀州の浅野長晟の軍勢と、大野治房の軍勢がすでにぶつかり合っています(4月29日参照>>)。
・・・なので、「大坂夏の陣の開戦の日」は、その4月29日を「開戦の日」とする場合も、そして、家康が出陣した5月5日を「開戦」とする場合もありますが、このページでは、主要メンバーがぶつかり合った「道明寺・誉田(こんだ)の合戦」と「八尾・若江の合戦」のあった5月6日を「開戦の日」とさせていただきました。
さて、大坂城内の軍儀では、籠城作戦に決定したものの、最初から籠城だけしていては勝ち目がないと考えた真田幸村と毛利勝永と後藤基次は、5日の夜に密談をかわし、その日に出陣して、いよいよ大坂に向かって来る徳川軍が、大和路から大坂に入る場合に必ず通るであろう道沿いで、待ち伏せして襲撃する作戦を練ります。
翌6日、彼らは単独で出陣します。
まずは、後藤基次が夕べの手はず通りに、道明寺付近に到着します。
この付近は道幅も狭く、入り組んでいるため、ここで襲撃すれば必ず大混乱になるであろうと予想したのです。
基次は2千800の兵を率いて、道明寺西から藤井寺へと進みますが、まだ真田隊・毛利隊はやって来ません。
実は、この日は大変な濃霧で、真田幸村と毛利勝永は、夜が明けた事に気づかず寝坊し、しかも、出立してからも思うように軍を進める事ができず、かなり遅れてしまっていたのです。
とりあえず、二人を待ちながら、徳川の動きを探るため偵察隊を派遣した基次・・・
帰って来た彼らの話によると、敵はもうすぐ目の前にやって来ているとの事。
もはや、待ってはいられません。
おそらく、真田隊・毛利隊も、すぐ近くに来ているに違いありませんし、単独でも、徳川軍を食い止めなければ・・・と、基次は撃って出る決意をします。
道明寺合戦の激戦地に建つ戦没者供養塔(柏原市立・玉手山公園内)
「道明寺・誉田の合戦」はこうして始まりました。
やがて、ようやく道明寺に到着する真田隊と毛利隊・・・
しかし、彼らが見たのは、基次の壮絶な討死でした(2008年5月6日参照>>)。
しかも、援軍として駆けつけていた薄田兼相(すすきだかねすけ)までもが、すでに討死し(2009年5月6日参照>>)、幸村にあるまじき手際の悪さで、大きな犠牲を払ってしまいました。
しかし、嘆いてはいられません。
続いてやって来る徳川軍を、迎え撃たなければ・・・。
すると、やって来たのはあの伊達政宗の軍です。
幸村は正面からぶつかる事を避け、「槍ぶすま作戦」を決行します。
「槍ぶすま作戦」とは、槍を持った兵を進路上に隠れさせておいて、敵が近づいて来たところを、一斉に槍をそろえて突き出す・・・という作戦。
この作戦は成功し、伊達隊には多くの犠牲者が出て、逃げ出す者が続出しました。
一方、この日、八尾・若江のあたりでも激戦が行われていました。
「八尾・若江の合戦」を繰り広げていたのは、木村重成が率いる4千700の兵と、長宗我部盛親の率いる5千の兵でした。
(【八尾の戦い~桑名吉成】参照>>)
(【八尾の戦い~渡辺了】参照>>)
実は彼らは幸村らと同じく、大和路から大坂へ入って来る家康の主力部隊を、やはり道明寺付近で襲撃すべく出陣したのですが、途中、木村隊が若江付近で井伊直孝の部隊に、長宗我部隊が八尾で藤堂高虎の部隊に遭遇し、その場で戦闘がはじまった物でした。
この戦いでは、木村重成が討死(2011年5月6日参照>>)。
長宗我部盛親は討死こそしなかったものの、やはり戦いに敗れて敗走します(2010年5月6日参照>>)。
「八尾・若江の合戦」の戦況を聞いた大坂城の大野治長は、その時、未だ伊達隊と奮戦中の幸村にも、大坂城に戻るように支持を出し、結局、真田隊の退却で、この日の戦闘は幕を閉じたのです。
家康は、先の冬の陣でかなりの痛手を被り、思いのほか長引いた事をかなり気にしていたようで、前回の反省を踏まえて「今回は3日でケリをつける」と言っていたと言います。
短期の城攻めに賭けた家康・・・
決死の覚悟で守る豊臣方・・・
明日5月7日は、いよいよ大坂城総攻撃が開始されます。
(続きをどうぞ>>)
「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの『大坂の陣の年表』>>からまとめてどうぞ!
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