承久の乱勃発で北条政子・涙の演説
承久三年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇が、幕府よりの公家=西園寺公経父子を幽閉し、『承久の乱』が始まりました。
・・・・・・・・・・
源頼朝が鎌倉幕府を開いて、その組織の中に「地頭」という役職が設けられました。
この「地頭」というのは、全国の荘園や国衙領(公領)で、土地の管理や税の徴収、治安維持などを行う役職です。
最初は、お公家さんを上に立てて、うまく行っていた地頭と公家の関係でしたが、幕府も10年・・・20年・・・と続いて行く中、徐々にその力関係が崩れて行くのです。
地頭は領民から年貢を徴収し、それを京都にいる公家の領主に納入するわけですが、年貢の徴収は地頭の小手先次第で、それを領主に収めるのも地頭の小手先次第・・・という事で、公家や朝廷にとって唯一の収入源である税金が、地頭によって左右される事になってしまいます。
そうなると、本来幕府より上に位置する朝廷や公家と、幕府・地頭との力関係が逆転するような事になり、当然お公家さんたちは不満ムンムンとなるわけです。
これは、もう、地頭VS領主でななく、幕府VS朝廷という争いになって行くのは必然です。
やがて、幕府反対の雰囲気が高まってきて、朝廷内でも幕府寄りだった九条兼実(かねざね)が失脚すると、ますます幕府反対運動が盛んになっていきます。
そんな中で、後鳥羽上皇が院政を開始して自分の警備隊を中心に武力を強化し、比叡山の僧兵とも手を組み始めます。
そんな時、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が暗殺されるという事件(1月27日参照>>)が起こり、頼朝の直系が耐えてしまう中、御家人同士の勢力争いも起こるというヤバイ展開に・・・
ここで、「今が絶好のチャンス!」と思った後鳥羽上皇は、一気に幕府の最大勢力である北条氏をぶっ潰そうと、
承久三年(1221年)5月14日、摂家将軍(せっけしょうぐん=摂関家出身の将軍)藤原頼経(ふじわらのよりつね=九条頼経とも)の擁立に尽力した西園寺公経(さいおんじきんつね)&実氏(さねうじ)父子を幽閉・・・『承久の乱』が始まったのです。
さらに翌日の5月15日に、京都守護職(きょうとしゅごしょく)の伊賀光季(いがみつすえ)宅を攻撃し、その後、時の執権・北条義時(頼朝の奥さん・政子の弟)追討の院宣(天皇の正式命令)を発したのです。
院宣が出された以上、義時は朝敵(国家の敵)となるわけで・・・この時代、なんだかんだ言ってもまだ、朝廷の権威という物はかなりの物でした。
あくまで、幕府は朝廷の下であり、その朝廷が「敵」と見なした相手は、必然的に幕府の「敵」になるわけですが、今回の場合は、その幕府の「敵」が幕府の最高権力者の執権なわけで・・・。
上皇は、「朝廷の味方になって朝敵=義時を討って勝利したあかつきには望みのままに褒美を与える」などと書いた書状を各地方にばら撒きます。
幕府内の御家人としては、天皇に弓をひくなど、とうてい考えられない反面、そうすれば、直属の上司の執権にはむかう事になるわけで、もう、幕府内は上を下への大騒ぎです。
ところが、ここであの有名な北条政子の『泣きの名演説』が繰り広げられるのです。
5月19日・・・政子は、御家人たちを集め、今は亡き頼朝との出会いから話し始め、いかに苦労して幕府を開いたかを切々と語り、その頼朝の恩に報いるにはどうすべきかなど、涙ながらに訴え、武士たちのハートをガッチリとキャッチ!
結局、朝廷側の思惑とはうらはらに、上皇のもとに集まった兵力は予想外に少なく、逆に、京へ上った幕府軍は19万という大軍になるのです。
こうなったら、上皇側に勝ち目はありません。
あわてて上皇は院宣の取り消しを発表しますが、もう後の祭りです。
1ヶ月後に乱は終息を向かえ、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐へ(2月22日参照>>)、順徳上皇(第84代天皇)は佐渡へ(12月28日参照>>)それぞれ配流され、土御門上皇(第83代天皇)は自ら土佐へ(10月11日参照>>)下りました。
当然ですが、朝廷側に味方した武士の所領は没収され、幕府のために戦った御家人たちに分配される事になります。
その国の国家元首の敵であるはずの義時が、国家権力を以って国家元首に処分を下す・・・このありえない出来事に対して幕府は「天皇御謀反」という、またまたありえない大義名分を主張しました。
「謀反」というのは本来、目下の人間が目上の人間に行う反逆です。
国家の最高権力者である天皇が、言わば部下に対して謀反とは・・・。
このありえない大義名分がまかり通ってしまう事でもおわかりのように、この乱によって、後鳥羽上皇の「北条ぶっ潰し作戦」の失敗どころか、かえって今まで以上に北条氏はその権力を強固な物にしてしまうのです。
今回、朝廷に味方した者には西国の武士が多かったため、その所領が鎌倉武士の物となり、幕府が西へ勢力を広げる結果となってしまいました。
そして、さらに、幕府は、京に「六波羅探題(ろくはらたんだ=京都守護)」を置き、朝廷をしっかりと監視する事にもなりました。
自ら墓穴を掘ってしまった後鳥羽上皇は、この後の20年間を隠岐で過ごし、60歳でこの世を去りました(2月22日参照>>)。
今日のイラストは、
『涙の演説』をする尼将軍・北条政子さんで・・・。
彼女の演説に感動して涙した武士も大勢いたとか・・・。
男性諸君は女の涙に弱いからなぁ~。
特に、おぼこい東国の武士なんかイチコロだったでしょうね。
★承久の乱についてのくわしくは下記関連ページへ…
●承久の乱勃発~北条義時追討の院宣>>
●北条泰時が京へ進発>>
●幕府軍の出撃を京方が知る>>
●美濃の戦いに幕府方が勝利>>
●瀬田・宇治の戦いに幕府方が勝利>>
●承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題>>
.
「 鎌倉時代」カテゴリの記事
- 息子のために母ちゃん頑張る~阿仏尼と十六夜日記(2023.04.08)
- 「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠(2023.02.24)
- 武士による武士のための~北条泰時の御成敗式目(2022.08.10)
- 承久の乱へ~後鳥羽上皇をその気にさせた?源頼茂事件(2022.07.13)
- 承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり(2022.06.23)
コメント