織田信長さんのお誕生日なので…
天文三年(1534年)5月12日は、あの織田信長さんのお誕生日です。
もう、これだけの有名人ですから、皆さんもよくご存知だとは思いますが、お誕生日だという事なので、改めて信長さんの人となりを少しご紹介させていただきます。
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尾張の戦国大名・織田信秀の次男(三男とも)として生まれますが、お母さんの土田御前が信秀の正室であるため嫡男という事になり、2歳という若さ(若いを通りこしてる)で那古屋城主となります。
生まれた時から“かんしゃく持ち”で、授乳中に、その乳首を噛み切ってしまうため、乳母が何度も交代したと言います。
ひとりだけ例外がいたそうですが、その乳母は若くてメチャッメチャ美人だったらしく、ちっちゃくてもそうゆうところは、しっかり押さえてるんですね(2009年4月11日の前半部分参照>>)。
吉法師と呼ばれた少年時代は、ワル仲間のボスとして、相撲や戦争ごっこをして尾張の隅々をあばれまわり、「うつけ者」と呼ばれていたのは有名な話です。
しかし、今となっては、この「うつけ」がただの「うつけ」でなかった事はもう、皆さんご承知の通りです。
仲間を引き連れて領内を走りまわったのは、その地理を知るため・・・
戦争ごっこでは、戦の駆け引きを覚える・・・
近所の子供同士でケンカをした時などは、あらかじめ味方になりそうなのを選りすぐってお金を渡し、事前に味方につけておいてから勝負に挑んだというエピソードも残っています。
そんな当時の信長のファッションも有名ですね。
髪をお茶の道具の茶せんのように結って、ペラペラの着物の片袖を脱いで、腰には火打石や革袋をぶらさげ、近くの柿や瓜などを物色しては歩きながら食べ、立ったまま餅を食べ・・・と、殿様としてはあるまじき行動の数々・・・。
しかし、その奇抜なファッションも、腰の袋には戦闘時の必需品が入れられ、荒縄で巻いた刀の柄は血で手がすべらないようにするため・・・と、その“いでたち”がいかに実戦的であったかという事もご存知の通りです。
とかく、信長さんと言えば、最大のライバルとなった弟・信行を殺害(11月2日参照>>)したり、比叡山を焼き討ちして(2006年9月12日参照>>)、女・子供・僧を含む3千人を殺害した・・・などという逸話が先行して、神仏をも恐れぬ「魔王」のイメージがつきまといます。
あの「鳴かぬなら・・・」のホトトギスの歌もそうですが、ドラマなどでも、たいてい信長さんがすき放題にやって、まわりの家臣がビクビクしてるような感じに描かれています。
しかし、別に信長さんは神仏を恐れないから、あるいは無心論者だから比叡山を焼き討ちしたわけではないのです。
伊勢神宮や石清水八幡宮に大金を寄進したり、浄土宗や禅宗といった宗教にも好意的に接しています。
その事を考えると、神仏だから・・・というのではなく、「天下を治めるにあたっての壁になる相手だから排除する」という考え方・・・
姉川の合戦(6月28日参照>>)で敗れた浅井・朝倉が比叡山へ逃げ込み、かくまう比叡山は「神仏には手を出せないだろう」と余裕を決めこむ・・・そのような態度が彼には許せなかったのですよ。
信長さんの考えは、宗教否定ではなく、政治と宗教は別物・・・政教分離の考え方で、現在では、むしろ正統です。
しかも、近年の調査で、もし本当に伝えられる通りの比叡山焼き討ちがあったとしたら、当然残っているべき焦土(土が焼けた跡)層が確認できない事や、出土品に戦国時代の焼け残り品や人骨が見あたらない事などから、そのような大規模な焼き討ちは無かったのでは?という事も言われています(2007年9月12日参照>>)。
たしかに、敵対した相手のこもる堂塔を攻撃したのは確かでしょうが、噂ほどの強烈な物ではなかった可能性が大で、どうやら焼き討ちの話は「あの人ならやりかねない」という想像のもとに書かれた話のようです。
そうなると、信長さんへの見かたが随分と変りますね。
最後に、彼の人となりがわかる手紙をご紹介しましょう。
それは、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の奥さん・おね(ねね)さんに宛てた手紙で、彼女が信長のもとにご機嫌うかがいにやって来た事を大変喜んで書いた物なのですが、この手紙の中で、秀吉の事を「ハゲネズミ」と呼んでいる(ハゲネズミと呼んでいるのは、この手紙の1回だけ)事もあって、ご存知のかたも多いかと思います。
その手紙で信長は、ねねさんの事を、「以前より十倍は美しくなった」と褒め、「こんな美人の奥さんがいるのに、浮気をするなんて言語道断!
あのハゲネズミめは許し難い・・・」と、ねねさんの味方をする一方で、「だからと言って嫉妬していきり立ってはいけない。
妻として10個言うべきところを、7~8個にとどめておいて、この手紙を藤吉郎に見せなさい。」
手紙を見せれば、夫婦ゲンカをせずに秀吉への忠告になるだろう・・・という事です。
とても、神仏を恐れぬ「魔王」という姿からは想像できないやさしい手紙です。
ますます、信長さんの印象が変わりますね。
私は、黒人の弥介さんを奴隷として扱わず、家臣としてかかえた(2月23日参照>>)・・・というエピソードにこそ、信長さんの人となりが垣間見えるような気がします。
最近よく見る「好きな歴史上の人物ランキング」のようなテレビ番組でも、ほぼ1位をキープ中の信長さん・・・やはり、その行動力が一番の魅力でしょうか。
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コメント
大河ドラマでは、割とベテランの俳優が織田信長を演じる事が多いですが、来年は40代の人になるのかな?最近では緒方直人・反町隆史両氏は20代で演じていますが。
最近感じるんですが、織田信長をできそうな俳優が少なくなっている気がします。極端に年を取っていると違和感があるし、少年の面影を残している童顔でも、変に見られます。
主演当時は後記に当る緒方さんは序盤は酷評されてました。でも、途中から好評でした。
そろそろ主要配役が決まると思います。
事前に私の予想した顔ぶれになるかな?
投稿: えびすこ | 2010年5月 9日 (日) 08時58分
えびすこさん、こんにちは~
お江さんとの絡みなら、信長さんはけっこう早いうちに死ぬので、やはり、歳相応のからが良いかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年5月 9日 (日) 13時03分
こんばんは。お久しぶりです。カムバッカーです。
「一人だけ例外の」信長の乳母は池田恒興という武将のお母さんのようですね。信長のお父さんの側室として養徳院という名前で記録で残っているそうです。
池田恒興は小牧・長久手の戦いで戦死するまできちんと仕えていたようです。
投稿: | 2015年4月12日 (日) 19時15分
すみません、名前が抜けていました
投稿: カムバッカー | 2015年4月12日 (日) 19時28分
カムバッカーさん、こんばんは~
>「一人だけ例外の」信長の乳母は池田恒興という武将のお母さん…
アッ(*´v゚*)ゞ
そのお話は、恒興の死を悼む秀吉の手紙をご紹介したページ(2009年4月11日のページです>>)で書いていたのですが、ここの本文にリンクを貼るのを忘れていました~
ありがとうございます。
早速、本文にリンクを貼りました。
また、読んでいただけるとウレシイです。
投稿: 茶々 | 2015年4月13日 (月) 02時32分