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2007年5月 8日 (火)

大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説

 

慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城が炎に包まれ落城豊臣秀頼淀殿母子が自刃・・・ここに豊臣家は滅亡し、冬と夏の二度に渡った「大坂の陣」は終結しました。

・・・・・・・・・・

昨日の正午から始まった大坂夏の陣の大坂城・総攻撃(2007年5月7日参照>>)

その前日には、真田幸村隊&毛利勝永(2015年5月7日参照>>)
松平忠直隊を突破し、徳川家康本陣になだれ込んで「あわや」という場面があった事を書かせていただきましたが、反対側の松平隊から見れば、こちらも真田隊を突破して「大坂城へなだれ込んだ」という事になります。

幸村が目の前の松平隊より家康本陣を目指したように、松平隊も大坂城へ突入する事を重視したのでしょう。

松平隊は京橋口から二の丸へ入り、本丸への一番乗りの功名を挙げています(9月8日参照>>)

徳川方が大坂夏の陣で討ち取った首は1万3千余りと言われていますが、その内4千近くがこの松平隊の功績で、その中には上記のページで書かせていただいたように真田幸村(信繁)も含まれています。

前日、家康じいちゃんに「ふがいない!」と叱られた忠直君・・・名誉回復になったようです。

豊臣方は最後の要として、本丸の守りを固めていましたが、結局そこも破られ、豊臣秀頼とその母・淀君は、天守閣の北側に位置する山里曲輪(やまざとくるわ・山里丸)の隅矢倉という備品倉庫に逃げ込みます。

最後の矢倉にまで従ったのは、わずか27人だったと言いますが、秀頼の妻・千姫がおじいちゃんの家康に「秀頼と淀君の助命」を願い出る約束をして大坂城を脱出(2月6日参照>>)していますから、そこに一縷の望みを託していたのかも知れません。

Natunozinyamazatokuruwacc しかし、助命嘆願が聞き入れられないまま、正午頃には井伊直孝の軍勢が矢倉に鉄砲を撃ち込み、この矢倉自体が炎に包まれ、中にいた秀頼と淀君は自刃するのです(秀頼自刃の場所については山里曲輪以外にも説があります…異説については6月27日のページ参照>>

天下を取った秀吉の夢も、難攻不落の大坂城も、わずか二代で跡形もなく消え去る事になりました。

戦い終わって、当然、徳川方は秀頼の死体を捜すわけですが、これが、どうもはっきりしません。

なんせ、最期の矢倉が炎上してますから、死体はどれも黒こげで男女の判別すらできない状態です。

結局、父・秀吉から受け継いだ「吉光(よしみつ)の太刀のそばにあった遺体を秀頼のものと判断する事になりました。

同じような事が、昨日討ち取られた真田幸村にも起こっていました。

その首を見た幸村の叔父は「似ているが本人かどうかわからない」と言っていたのです。

結局、この首も、身につけていた兜が決め手となって、幸村であるとの判断が下されるわけですが・・・やはり、どちらも確実とは言い難いもの・・・

・・・で、予想通り、ここに登場するのが、秀頼・幸村生存伝説です。

このブログにも、いくつかの「英雄生存伝説」を書いてきました。
   ・源為朝の琉球王伝説>>
   ・安徳天皇・生存説>>
   ・源義経のジンギスカン伝説>>
   ・朝比奈三郎義秀>>
   ・西郷隆盛・生存説>>
そして、明智光秀=天海説>>

どれもこれも、滅び行く者への同情、「ここで死なせたくない!」願う人々の思いが、そのような伝説を作りあげていくのだと思います。

秀頼に関しては、落城わずか1ヶ月にして、その噂は幕府にまで届くようになります。

さらに1ヶ月後の7月の終わり頃には、「重臣5~6名とともに、薩摩にいるとの具体的な報告まで寄せられるようになります。

さらに、巷では・・・
♪花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田がつれて 退きものいたり加護(かご・鹿児)島へ♪
という歌まで流行しはじめます。

・・・と、この辺までは、他の生存伝説と同様に、何となく庶民の願望が込められた生存伝説なのですが、ここから徐々に他の生存伝説とは、少し違った物に変っていくのです。

やがて、薩摩には、その後の秀頼に関する噂がひろまるのですが(秀頼の墓とされるお墓もあります)、その噂によると薩摩での秀頼は「酒に溺れ、飲んだくれては暴力を振るうとんでもない男で、誰も彼を相手にする者はいなかった」というのです。

これは、臭いますね~。
明らかに、最初の生存伝説と、薩摩での生存伝説は別物になってます~

おそらく、最初の伝説はいつのほどからか庶民から湧き上がった自然発生的な伝説で、摩での伝説は、最初の伝説を利用した徳川幕府が流した噂ではないか?と私は睨んでます。

最初はやはり、豊臣家への思い・・・特に大阪は、太閤下水(HP【太閤下水と豊臣の石垣】参照)などの公共工事にも見られるように、きっちりと整備されたすばらしい城下町であったために「太閤さん」への思いはひとしおだったはずです。

そんな思いをぬぐい去るために徳川幕府は、京都や大阪の豊国神社(秀吉を神と祀る神社)をぶっ潰し東照宮(家康を神と祀る神社)を各地に建て(4月10日参照>>)徳川の人気回復に必死になっています。

そんな中に登場する秀頼生存説・・・幕府の誰が考えたかは知りませんが、人間の心理を突いたうまい作戦を考えついたものです。

徳川の世に不満を持って、「豊臣の世ならもっと良い時代になっていたかも・・・」なんて夢を描く人々にとって、一番、豊臣を諦めさせるには、「秀頼が死んで豊臣が滅亡した」とするよりも、「秀頼は生きているけど、役に立たないどうしようもない人間だ」とするほうが、よっぽど効き目があります

この秀頼生存伝説が、他の生存伝説と趣が異なるのは、倒された者が倒した者にとっていかに脅威であったか?の一語に尽きると思います。

もちろん、それは、家康VS秀頼・・・というよりは、徳川VS豊臣という構図の物なのですが、とにかく、徳川にとって、秀頼が華々しく散るよりも、つまらない男として生き長らえてくれたほうが、楽だったという事ではないでしょうか?

最近では、天草四郎は秀頼の息子で、「島原の乱」は豊臣の最後の反乱・・・というおもしろい仮説(2月28日参照>>)まで登場しています。

う~ん、でも、大阪城大好き茶々としては、燃え盛る大坂城から、抜け穴を通って脱出していてほしいなぁ~(◎´∀`)ノ。
 

この時、炎の大坂城から脱出した
・秀頼の妻:千姫のお話2月6日のページへ>>
・秀頼の娘:天秀尼のお話08年5月8日のページへ>>
・秀頼の息子:国松と求厭のお話11年10月17日へ>>
・淀の侍女・お菊:お菊物語10年5月7日のページへ>>
 

「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの『大坂の陣の年表』>>のリンクからまとめてどうぞ!
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

羽柴茶々(素敵なネーミングですね)さん、こんにちは!
この記事に限らず、茶々さんの素晴らしい洞察力に敬服し、日々楽しく拝見させて頂いています。
私は、秀頼公(できれば、幸村親子、国松、勝永とか皆)の薩摩落ちを信用している者なのですが、ご指摘のような徳川方が流した噂の可能性もあるのですね。。
少なくとも後世に生きる自分達からすると、夏の陣は最初から負けが分かっている戦だと思います。そうすると、実際に秀頼公は一度も出陣していないみたいですし、予め脱出する準備をしていてもおかしくないと思いますので、脱出できたと思いたいです。
しかし、上記の記事を見てて思ったのですが、脱出の準備もしくは既に脱出していたら、千姫に頼んで命乞いはしないのではとも考えてしまいました。鼻から認められないと思っていたらそもそも命乞いなどする必要ないですし、可能性があると思っていたのに脱出してしまっていたら、影武者をあてがっても脱出がばれちゃうでしょうし。。
あと、茶々さんは、国松が日出藩から分かれてできた立石藩の初代藩主木下延由であるという話は信じてますか?自分は豊臣恩顧(勝手に)なのでそれも信じたいのですが。。

投稿: 真田幸成 | 2011年8月17日 (水) 13時03分

大坂夏の陣の時の江さんは江戸にいたと思いますが、姉の淀が死んだと聞いた時はどんな心境だったんでしょうね。江さん自身も「冬の時」に助命嘆願したのかな?
今年の大河ドラマでの「最後の真打」の、真田幸村を演じる人はまだ発表されていませんね。誰になるかな?

>真田幸成さん
ネームは本名ですか?本名なら真田さんは真田信繁(幸村)の末裔の方ですか?

投稿: えびすこ | 2011年8月17日 (水) 13時17分

真田幸成さん、こんにちは~

大阪城のすぐそばで生まれ育ったので、地元意識もあり、私もなかなかの豊臣恩顧です。

なので、秀頼も幸村も国松も生きててほしいですが、なかなか難しいかも知れませんね~

ただ、九州鹿児島というのは、例の宇喜多秀家が関ヶ原の後に匿われていた事実から「島津なら逃亡者を受け入れるかも」というところでの噂だと思いますし、自分自身でも「ない事ではないな」なんて思ったりもします。

なにか、新しい発見があるとうれしいんですが…

投稿: 茶々 | 2011年8月17日 (水) 17時03分

えびすこさん、こんにちは~

江の大坂の陣に関する事で史実と言えるのは、滅亡の1年後に、京都の養源院で仏事を取り仕切った事くらいですね~

ただ、徳川将軍の御台所が、姉とは言え、その徳川の敵となった人物の供養を、わずか1年後にするのですから、そこには、彼女の気の強さと姉を思う気持ちがあったはず…
そこンところを、うまく描いてくださればうれしいんですが…

投稿: 茶々 | 2011年8月17日 (水) 17時08分

茶々さん、コメントありがとうございます。

そうですか。。やっぱりなかなか難しいかもしれませんね。でも、仰せの通り、新たな発見に期待しつつ、私は信じ続けたいと思います。

まだまだ茶々さんにお聞きしたいことがたくさんありますので、私のことを羽柴家の者と思って、これからもよろしくお願いします。できれば、そのうち、茶々様より豊臣姓を下賜して頂ければ最高です。


えびすこさん、こんにちは
申し訳ありません。勝手に名乗っているだけで幸村の子孫ではありません。。生まれは紀州です。紀州といっても、九度山からは遠く、紀伊半島の先端の那智勝浦というところです。現在は残念ながら敵方の江戸に在住です。以前は、家康のおっさんが名づけたという浜松に5年も居てしまい、ここ3、4年最近歴史ブームにあった今から振り返れば、自分の歩みが豊臣方としては悔しい限りです。ただ、紀州は徳川御三家ではなく、大納言秀長公の領地と思い、また、徳川が江戸を本拠地にしたのは秀吉公の命がきっかけということと考え、自分を慰めています?
ちなみに、最初は豊臣にしようと思ったのですが、なぜか遠慮してしまい、真田にしました。幸の字は真田家代々の幸のつもりです。成は、自分の中で最近人気急上昇の石田三成の成と、あと木村重成の成のつもりです。真田幸成とすると、本当の真田家の子孫の方や関係がなくても真田姓の方とかぶるかもと思ったのですが、豊臣と名乗るのを意味も無く遠慮し、こうなりました。
でも、茶々さんからの豊臣姓の下賜があれば、すぐ改名したいと思ってます!

では、茶々さん、また色々と教えてください。

投稿: 真田幸成 | 2011年8月17日 (水) 18時38分

真田幸成さん、こんばんは~

私も、とても恐れ多くて「豊臣」は名乗れません(爆)

羽柴なら、勝手に名乗れますが、やはり豊臣は賜るもの…いつか淀になれるよう頑張ります( ´艸`)

投稿: 茶々 | 2011年8月18日 (木) 02時05分

茶々さん、こんばんは

戦が絶えた今の時代では、豊臣姓を得るべく手柄をたてることも難しいですが、日々精進したいと思います!

最近、家康が一時期豊臣家康と名乗っていて、その証拠書類を家光が隠滅させたということを本で読みました。豊臣恩顧という言葉の響きを聞くと、奮い立つというかわくわくする自分としてはもったいない限りな話です!

また、他の記事にもコメントしたいと思いますので、よろしくお願いします。

投稿: 真田幸成 | 2011年8月18日 (木) 18時47分

真田幸成さん、こんばんは~

いくつかのページに書いていますが、私は、関ヶ原後も、大坂の陣で豊臣が滅亡するまでは、徳川より豊臣のほうが格が上だったと考えております。

そういう意味で「豊臣家康」は充分あり得ると思いますし、江戸時代になってから、末梢された豊臣の歴史が数多く存在するものと思っています。

証拠となる新しい発見に期待したいです。

投稿: 茶々 | 2011年8月18日 (木) 23時47分

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