七生報国・湊川の戦い
延元元年・建武三年(1336年)5月25日は、『湊川の戦い』のあった日・・・合戦の敗者・楠木正成さんのご命日でもあります。
・・・・・・・・・・・
足利尊氏・楠木正成・新田義貞といった味方を得て鎌倉幕府を倒し、新政権を立ち上げた後醍醐天皇(5月22日参照>>)。
しかし、その『建武の新政』はわずか二年で崩れる事になります(6月6日参照>>)。
後醍醐天皇自ら、「天皇中心の政治を・・・」と理想を追い求めるのはけっこうですが、鎌倉幕府の時代に政治の事は幕府にまかせっきっりだった公家たちは、いざ何かやろうと思っても、何から手をつけて良いのやらさっぱり・・・。
また、打倒鎌倉幕府の時に、たいした事もやっていない貴族たちが新政権では重要な役職に着き、貢献した武士たちには、逆にたいした恩賞もない・・・こんなもん武士たちの不満がつのらないわけがありません。
そんな建武二年(1335年)、鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が幕府復興を願って、鎌倉に攻め入り占領するという事件が起こります。
当然のように、その乱の鎮圧に鎌倉へ向かった足利尊氏・・・
乱はあっという間に鎮圧されますが、これをきっかけに尊氏は、天皇へ反旗をひるがえす事になるのです。
尊氏は京へ帰らずそのまま鎌倉で、「打倒!後醍醐天皇」を表明し、各地の武士たちに味方になるように声をかけます。
後醍醐天皇はすぐさま新田義貞を派遣し尊氏を討とうとしますが、尊氏は新田軍を撃ち破り、逆に京の攻め上ります(12月11日参照>>)。
しかし、この時は、奥州から追撃してきた北畠親房、態勢を立て直した新田軍、さらに楠木正成らも加わった朝廷側総動員で立ち向かわれためにあえなく敗退・・・九州へ落ち延びます(1月27日参照>>)。
やがて、九州で態勢を立て直した尊氏・・・しかも、今度は西国の武士たちを味方につけ、その数は水上2万5千、陸上1万という巨大な軍となって、西から京を目指して攻め上ります(4月26日参照>>)。
この尊氏の軍を、義貞・正成らが迎え撃った戦いが、『湊川の戦い』です。
この時、後醍醐天皇は、「先に兵庫(湊川)で、足利軍を迎えうつべく陣を敷く新田軍と合流して力を合わせよ」と正成に命じますが、正成には別の秘策がありました。
それは、「数の上では断然足利軍の方が上・・・このままでは勝ち目がないと判断し、新田軍を撤退させ、天皇以下全員が一旦比叡山に退いて、その間に一方で畿内の兵を集め、一方で淀川流域を制圧し、京に入った足利軍の兵糧を絶つ。
そして、ころあいを見計らって比叡山より撃って出る」
という作戦でした。
しかし、「天皇が戦う前から都を捨てて避難するというのは、かっこがつかん!」と周囲は猛反対・・・
正成はさらに、「戦は最後に勝つ事のみが重要。途中の恥は捨ててください」と食い下がりますが、結局、聞き入れてはもらえず「天が味方するものと信じて迎撃をせよ」との命令が下ります。
正成は、「天皇は、この正成に討死せよとのお考えである」と、死を覚悟して京都を出立・・・その時の息子との決別が有名な桜井の別れ(5月16日参照>>)です。
かくして延元元年・建武三年(1336年)5月25日の朝、湊川にて合戦に挑む正成。
正成が湊川に到着した時には、尊氏が大船団を率いて瀬戸内海を越え、まさに上陸しようとしていた時でした。
同時に陸からは直義(ただよし=尊氏の弟)の大軍も迫って来ていました。
準備もそこそこの状態で合戦に挑む事になってはしまいましたが、そのわりには、新田軍も楠木軍も善戦します。
しかし、やはり多勢に無勢・・・そのうち新田軍が敗走し、もはや合戦の勝敗は決しました。
それでも、正成は戦い続けますが、やがて兵の数も尽き、死に場所を求めて戦場を離れ、近くのゆかりの村へ身を隠します。
自害の決意をした正成は、舎弟の七郎・正季(まさすえ)に語りかけます。
「人は、最期の時の思いによって、次に生まれ変わる世界が変るっちゅーけど、今度生まれて来る時は、お前は何に生まれ変わりたい?」
正季は笑いながら・・・
「俺は、あと、7回でも同じ人間界に生まれ変って朝敵を滅ぼしたりますよ!」
正成も、うなづきながら・・・
「俺も同じや・・・ほな、お前も俺も、もっかい生まれ変わって、次は本懐を遂げような」
この「7回生まれ変っても国に報いる」という話は、『七生報国』と呼ばれ、太平洋戦争中には、国民全員の士気を高めるために大いにもてはやされたという、もう一つの歴史も持っています。
国民を戦争に駆り出す道具に使う事には賛成できませんが、不利を承知でひたむきに戦う正成さんの姿には、判官びいきならずとも感動をしてしまいます~。
それは、先祖代々、天皇に仕えてきた名家の坊ちゃんである尊氏と、後醍醐天皇という一人の天皇に見出された楠木正成との違い・・・
同じように私領を増やしたいと願い、同じように武士の長として部下の幸せを思う中で、尊氏にとって天皇家は後醍醐天皇だけではなかったけれど、正成にとっては後醍醐天皇だけが天皇だったという事でしょう。
元弘元年(1331年)、笠置山で後醍醐天皇に初めて謁見したあの日から(8月27日参照>>)、わずか6年・・・彗星のごとく歴史の表舞台に登場した楠木正成は、この日、静かにその表舞台を降りました。
そして、正成の自刃を知った義貞は・・・と、このお話の続きは、義貞中心の【新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義】へどうぞ>>
今日のイラストは、
『湊川で奮戦する楠木正成』・・・のつもりです。
♪忍ぶ鎧の 袖の上(え)に 散るは涙か はた露か♪
*ご命日という事で・・・ご一緒に【楠木正成伝説】のお話もどうぞ>>
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コメント
わ~い!
まさくんだ~♪
投稿: 乱読おばさん | 2007年5月25日 (金) 21時14分
おばさまたちに、正統派・正成を描かれると、私の絵には辛いものがあるな・・・
ちょっと遠目でごまかした感がぬぐえません
投稿: 茶々 | 2007年5月25日 (金) 23時06分
楠木正成より天才な元祖LION HEARTの筆者アレサです
投稿: アレサ | 2011年9月27日 (火) 11時16分
アレサさん、こんばんは~
また、時々は、ブログをのぞきに来てください
投稿: 茶々 | 2011年9月27日 (火) 19時18分
また神出鬼没の達田にゃんでございます
茶々様の人情味ある解説良いですね~
因みに正成最期の出陣の際に寄った寺で、和尚と一番禅問答があったようですが、鎌倉時代に武士の精神修養に欠かせないものになっていった禅宗の影響が垣間見えて感慨深いものがあります。
ここでの問答は『荘子』からの引用とみられる『天による長剣云々...』の言葉が出てきますが、実際、禅宗の基本的な文献の中でも比較的私のような一般人でも入手し易く、武士達、特に山岡鉄舟などが確実に読んでいたものに、『碧巌録』、『臨済録』、『無門関』などありましが、これらを読んでいますと、孔子の儒学の知識を前提とし、そのアンチテーゼとしての荘子の思想と、インド伝来の仏教説話が融合しているのが感じられます。
内容を哲学や思想とみても、西洋のジャック・デリダやエマニュエル・レウ゛ィナスに劣りませんし、マルクス・アウレーリウスの『自省録』にも近いように思われます。
教養深い和尚達の言行とその注釈という体裁であるためか、特に『碧巌録』などはこの上なく格調高い感じがします。
因みに京都学派の哲学者、西田幾多郎も寸心という居士号を使っていましたね。
第二次世界大戦の終戦工作をしていた鈴木貫太郎首相が、かつて鉄舟が通った禅寺に出入りしていたのも知られています。
しかし、
鉄舟熱が高じて座禅会に参加したことがありますが(笑)、オススメしません!
禅宗に限らず、この時代にまともな坊さんなどというものは存在しそうもありませんね~(熱心な仏教徒の方々いらしたら、ごめんなさい!)。
くだくだしい文章でごめんなさい
また寄らせて下さ~い
投稿: 達田にゃん | 2013年4月 2日 (火) 22時34分
達田にゃんさん、こんばんは~
私も仏教徒ではないので…
資産運用に失敗…なんてニュースを聞くと、最近のお坊様って?…と、よくわからないです。
投稿: 茶々 | 2013年4月 3日 (水) 02時57分
大変面白く拝読させていただきました。
ただ、1点だけ気になるところが・・・・
尊氏を奥州から「追撃」してきたと表現するならば
北畠親房ではなく息子の「北畠顕家」としたほうがよいのでは?
たしかの親房も同行していたとは思いますが・・・
ご検討を。
投稿: amox | 2017年9月10日 (日) 09時45分
amoxさん、こんにちは~
確かに、北畠親房は元徳2年(1330年)に、すでに出家していますので、その後の北畠は顕家がトップという事になるのかも知れませんが、この時の「奥州からの上京」は建武2年(1335年)の中先代の乱の後に尊氏が離反して直後の上京で、顕家はまだ10代でしたので、実質的には親房が中心だったのでは?と考えて、そのように書かせていただきました(…と思いますwwなんせ10年前の記事なので…記憶がアヤフヤm(_ _)m)
私個人としましては、顕家中心の上京は、延元三年・建武五年(1338年)の鎌倉攻めあたりくらいからかな?と考えておりますが、おっしゃる通り、そのあたりの解釈は微妙だと思います。
投稿: 茶々 | 2017年9月10日 (日) 16時52分