源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦
治承四年(1180年)5月26日、源平合戦の幕開け・宇治の『橋合戦』がありました。
この合戦に敗れた源頼政が平等院にて自刃しています。
・・・・・・・・
治承元年(1177年)5月『鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀』と呼ばれる「反平家」の芽を事前に摘んだ平清盛・・・(5月29日参照>>)。
やがて、娘・徳子の産んだ子供を、わずか3歳で安徳天皇として即位させ、まさに平家の絶頂期を迎えます。
しかし、絶頂期であればあるほど「打倒平家」の気運は、影で動く事になります。
やがて、同じ思いを持つ二人の人物が接触します。
本来なら天皇の座についてもおかしくないはずなのに、清盛の力によって安徳天皇が即位したために不遇な日々を送っていた後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)。
そして、先の平治の乱(12月26日参照>>)で清盛に味方した事で、源氏でありながら生き残ったものの、思うようには出世できずにいた源頼政(みなもとのよりまさ)。
頼政の進言により、以仁王が各地の源氏の生き残りや反平家勢力に対して、平家追討の『令旨(天皇家の人が発する命令書)』を発したのは、治承四年(1180年)4月9日の事でした(4月9日参照>>)。
「以仁王の令旨」は、伊豆にいた源頼朝(みなもとのよりとも)や、木曽の源義仲(みなもとのよしなか)にも届けられますが、彼らが行動を起こす前に、この令旨の事が熊野に伝わり、平家につく熊野本宮と、平家打倒を掲げる新宮との間で大騒ぎになります。
慌てて御所を抜け出し三井寺に身を隠した以仁王ですが、今度はそれを聞きつけた平家が本格的に以仁王を撃つべく動き始めたのです。
三井寺で以仁王と合流した頼政は、さらに奈良へと身を隠すべく、ともに江州街道を南に下ります。
この道中、以仁王は6回落馬したと言います。
ここ何日間か、睡眠も休養もとっていなかったのです。
頼政は、以仁王を休養させようと平等院に立ち寄り、時間稼ぎのためにと、宇治橋の橋板をはがします。
これで、少しは防御できるでしょう。
一方の平家は、「以仁王が奈良に落ちてしまっては面倒な事になる」と、平知盛(たいらのとももり)を総大将に重衡(しげひら)・忠度(ただのり)・・・以下、2万8千の大軍を率いて進軍してきます。
平家軍が宇治川に到着したのは、治承四年(1180年)5月26日の正午頃・・・宇治川を挟んで頼政軍。
この時の頼政の様子は『平家物語』に・・・
「源三位(げんさんみ)入道頼政は、長絹(ちょうけん)の鎧直垂(ひれたれ)に品皮縅(しながわおどし)の鎧なり。今日最後とや思はれけん、わざと甲は着給はず。」
とあります。
武士は、「最後の戦だ」と心に決めた時、甲は着けません。
「もう、この身を守るつもりはない、命を捨てる覚悟である」という意味なのです。
頼政、齢77・・・流れ速き宇治川の川音の向こうに、平家の大軍の鬨(とき)の声を聞きながら、その大いなる人生を振り返った事でしょう。
やがて、橋に押し寄せる平家軍。
橋板が無い事に気づかず、勢い余った軍勢は橋の隙間から転げ落ち、2~300騎が宇治川の急流に呑みこまれてしまいました。
しばらくの矢戦の後、いよいよ平家軍は総攻撃をかけようとしますが、降り続いた五月雨に水かさを増した宇治川を渡るにはどうしたらよいものか・・・。
その時、下野(しもつけ)の国の住人・足利又太郎忠綱という17歳の少年が進み出て、
「武蔵と上野の境に利根川という大きな川があって、そこで合戦が行われた時、上野の住人・新田入道という人物は、“馬筏(うまいかだ)”という物を作って渡り、みごと敵を破りました。
我々坂東武者は、こんな川におじけずいたりしないんです。
利根川に比べてこの宇治川、速さ深さにそんなに差があるとは思えません。
さぁ、後に続いて来てください!」
と、言い終わると自らが先頭に立って馬で川の中に乗り入れました。
何人かの東国の武将が後に続きます。
“馬筏”とは、馬を筏のように並べて、お互いを助け合いながら川の中を進む術です。
『強き馬をば上手に立てよ。弱き馬をば下手になせ。馬の足を及ばうほどは、手綱をくれて歩ませよ。・・・』
という具合に、実際に、川の中で実践講習会さながらに、そのワザを伝授しつつ川を越えて行きます。
忠綱の教え方がうまいのか、ともに川を渡り始めた300騎は、またたくまに馬筏の技術をマスターし、続く平家・六波羅の本隊も、馬筏を組んでまっしぐらに川を進んで行きます。
驚いたのは、こちらの頼政軍。
馬筏などと見た事もないワザを使って、川を渡ってくる様子を見て慌てふためきます。
なんせ、兵の数は比較になりません。
「川を渡られては、とても勝ち目はない」とばかりに、矢を射かけますが、姿勢を低くして泳いでいる馬を射落とす事はとても難しく、大軍が川を渡りきった頃には、もう、その射かける矢も残っていませんでした。
頼政軍はもう、退却するしかありません。
怒涛のごとく押し寄せる敵を何とか防ぎながら、頼政は以仁王を奈良方面に逃がし、その後、平等院の庭で覚悟の自刃をして果てました。
いつも観光のお客さんで賑わっている宇治の平等院。
鳳凰堂にはたくさんの人が目をやりますが、その庭の片隅にひっそりと「扇の芝」と呼ばれる頼政自害の地があるのは、あまり知られていません。
♪うもれ木の 花さくことも なかりしに
身のなるはてぞ かなしかりける♪ 源頼政・辞世
平家全盛の時代に、うもれ木のように生きた源氏の勇将・源頼政・・・70を過ぎて最後に夢見た未来とは、どんなものだったのでしょうか・・・とても悲しい時世です。
そして、少ない護衛とともに、奈良方面へ逃げた以仁王・・・しかし、彼も木津川を渡る直前で平家軍に追いつかれ、頼政と同様、うもれ木のような生涯を送った気高き皇子も、ここで命を落とします。
*以仁王生存説は2009年の5月26日のページへ>>
そして、この3ヶ月後の8月には伊豆で源頼朝が(8月17日参照>>)、9月には木曽で義仲が(9月7日参照>>)打倒平家の旗揚げをするのです。
.
「 源平争乱の時代」カテゴリの記事
- 平清盛の計画通り~高倉天皇から安徳天皇へ譲位(2024.02.21)
- 「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠(2023.02.24)
- 頼朝の愛人・亀の前を襲撃~北条政子の後妻打(2019.11.10)
- 源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期(2017.03.24)
- 源平・屋島の戦い~弓流し(2017.02.19)
コメント
老将・源頼政。「義経」では今は亡き丹波哲郎さんでしたね。
来年の大河ドラマでは源頼朝がストーリーの「語り」をするようです。登場人物が語りをするのは3年連続ですね。「前任」の頼朝は中井貴一さんでしたが、来年は誰になるかな?義経から7年たつと登場人物のイメージも変わりそうですね。
投稿: えびすこ | 2011年5月14日 (土) 23時21分
えびすこさん、こんばんは~
>源頼朝がストーリーの「語り」
語りが家族や身近な人じゃない、もちろん中立のアナウンサーでもない…むしろ敵方の人ってのは珍しくありませんか?
実際の本人なら悪口大会になりそうですが…
投稿: 茶々 | 2011年5月15日 (日) 01時33分
おはようございます。95年の「八代将軍吉宗」では近松門左衛門で、98年の「徳川慶喜」では「新門辰五郎の妻」でした。いずれも主人公とは血縁がない人でした。同じ時代の人と言う事で決まったらしいです。
来年は敵方が語り(の構想)。父親(演じるのは玉木宏さん)と対立した平清盛が主人公なので恨み節があるのかも?
投稿: えびすこ | 2011年5月15日 (日) 08時23分
えびすこさん、こんばんは~
同じ時代の人でも、徳川慶喜に対する新門辰五郎の妻のように、味方となる間柄なら、なんとなく納得できたんですが、真っ向から敵対する人物というのが、珍しいかな?と…
投稿: 茶々 | 2011年5月16日 (月) 02時12分