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2007年5月 9日 (水)

義仲・快進撃の幕開け!般若野の合戦

 

寿永二年(1183年)5月9日、北陸に攻め込んで来た平家軍と、木曽義仲軍の先発隊・今井兼平の軍勢が般若野で激突した「般若野の合戦」がありました。

・・・・・・・・・・

平家打倒を目標に旗揚げをして、北陸を制圧した木曽(源)義仲に対して、平維盛を総大将に10万の大軍を率いてやってきた平家は、4月26日の越前(福井県)燧城(ひうちがじょう)をかわきりに、5月3日に加賀(石川県)を落とし、いよいよ越中(富山県)を目の前にしました(5月3日参照>>)

そのニュースを越後(新潟県)で聞いた義仲は、平家軍をこれより先に進ませてはならないとばかりに、木曽・四天王のひとり今井兼平5千の兵をつけて先発隊として派遣します。

一方の平家・・・北陸には不慣れな彼らは、先の越前・加賀の合戦で平家方に寝返った越前・平泉寺の長吏(ちょうり)斎明の案内に頼り、さらに進みます。

しかし、さすがに長年住み慣れた土地、斎明の采配はスルドイ。

彼の意見は・・・
「越中と越後の境に寒原という難所がある。今、越後にいる義仲がここを越えて越中に入ってしまえば後々面倒な事になるので、先に寒原に兵を派遣し、越中を押さえてしまおう
という物です。

先ほども言いましたように、地の利の無い維盛は、その進言を受け入れ、早速、越中前司盛峻5千の兵をつけて越中へと向かわせます。

Kurikarakurehacc_1 しかし、砺波を越え、小矢部川までやって来た盛峻が見た物は、前方の呉羽山にはためく源氏の白旗だったのです。

そう、先発隊の今井兼平は、越後から親不知・神通川を疾風のごとく駆け抜け、すでに越前・加賀の合戦を戦ったの軍勢と合流し、敵が狙いを定めるであろう場所に陣を敷いていたのです。

やむなく盛峻は、呉羽山のふもと・般若野に陣を敷きます。

やがて、寿永二年(1183年)5月9日の午前6時・・・兼平の軍が怒涛のごとく呉羽山を下り般若野へ押し寄せた事によって「般若野の合戦」の火蓋が切られます。

全軍一斉ではなく、お互いが2~300騎ずつを入れ替わり立ち代り・・・寄せたり返したり・・・といった状況の乱戦は午後2時頃まで続きました。

しかし、一進一退の戦況だったものの夕方頃には、平家方は2千余りの負傷者を出し、小矢部河原まで撤退を余儀なくされてしまいます。

結局、残る3千騎足らずの兵は再び砺波山を越えて、加賀の本隊へと逃げ帰る事となり、兼平は見事!越中の死守に成功しました。

般若野での敗退を知った維盛は、次の合戦には、今回の全軍を以って対応する事を決定し、10万の大軍を二手に分けて進軍を始めます。

総大将・平維盛自身が率いる本隊・7万の兵は、加賀と越中の国境・砺波山を目指します。

そして、平通盛率いる搦め手の3万の軍は、北側を迂回して能登に入り、やはり加賀と越中の国境にある白雄山を目指します。

この時の平家の赤旗・赤じるしは、緑の山々を真っ赤に染め、まるで紅葉のようになったと言います。たしかに・・・10万ですからね~。

一方、その頃の義仲は越後からの帰り道、途中途中で兵を集めながら越中に入り、何とか5万ほどの兵を確保しました。

そして、平家の大軍が二手に別れ、その本隊が砺波山に向かっている事を知った義仲・・・砺波山を越えて砺波平野に入られると、広い場所での合戦となり、兵の数が少ない義仲方は完全に不利になります。

平家に砺波山を降りさせてはならず!・・・と、まずは、砺波山の越中側の降り口である日宮林(ひのみやばやし)に先発隊の陣を敷き、これ見よがしに源氏の白旗を掲げます。

やがて、砺波山山頂に到着する平家軍・本隊・・・彼らはふもとになびく源氏の白幡を目の当たりにします。

このまま、すぐに砺波平野に向かって下るのはとても無理です。
「さて・・・どうするか」
あたりは、もうすっかり夜の闇に閉ざされていました。

時は、寿永二年5月11日、いよいよ木曽義仲最大の見せ場「倶利伽羅峠の合戦」の火蓋が切って落とされようとしています。

・・・が、そのお話は、やはり合戦のあった5月11日のページでどうぞ>>>

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今日のイラストは、
「砺波山に登った平家がふもとを見下ろせば・・・」って感じですかね。
人物は当然、木曽義仲巴御前

義仲さまの表情は「もう、倶利伽羅峠の作戦は充分に考え抜いた・・・さぁ!来い!」っていう顔にしました。

もちろん、実際には山の上から見て、表情なんてわかりませんが・・・。

巴御前の冠も、本当は最後の合戦の時だけかぶったようですが、美しいのでかぶってもらいました。
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コメント

この戦いに負けても、頑張りつづけ、汚名を晴らそうとするこれもりは、カッコイイ!

投稿: ゆうと | 2012年4月 9日 (月) 18時22分

ゆうとさん、こんばんは~

やはり、平家にとって西日本の飢饉は深刻…訓練もままならない状況は兵をまとめるのも大変だった事でしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年4月 9日 (月) 23時31分

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